悪党たちは、いかにしてそこへ迷い込んだか②
【古賀 敏景(仮名)】
シャドーストライプの入った黒のスーツに、グレーのベスト、ネクタイは締めない。リラックスしていることを示すためだ。
この取引は、数ある平凡な取引の一つに過ぎず、自分はこの手の取引に慣れきっている。相手がマフィアのボスだということにも。
「時間の急な変更は、あなた方のお国では一般的な風習なのですか?」
こういう軽口も時には必要だ。
「日本人ほど時間にうるさい生き物は、世界中のどこにもいない。だが、確かに俺たちの仕事には、急な変更が多い。何しろ急な来客が多いからな。特に、ジャケットの左脇が膨らんでるような奴らが」
黒塗りのリムジンは、門扉を抜けたらしかった。扉の軋むらしい音が聞こえるが、厚いカーテンに遮られて窓の外は見えない。
商談の時間を変更したいという連絡が入ったのは、午後6時半頃のことだった。特に不都合はなかったが、予定が変わるのはあまり好ましいことではない。それから1時間ほどで到着した迎えの車で、ボスが直接出向くことも、予定にはなかった。
大柄な男だ。ロシア人でありながら、かなり流暢な日本語を話すところを見ると、頭も抜群に良さそうだ。スキンヘッドで、白い首に刺青が見えるが、それが何を描いているのか、襟からのぞいた部分だけで判別することは難しかった。
車はそのままガレージに入ったらしい。車を降りると、両脇を窮屈そうにスーツを着込んだ二人の男に挟まれて、ガレージの中から直接彼の屋敷の中へ通され、吹き抜けのエントランスを抜けて、結婚式場のような広い階段を上った先にあるのが彼の書斎兼応接室のようだった。
机の上にはルビーと金細工の装飾がなされたイースターエッグ、窓際に置かれているストロベリークォーツの大きな原石もおそらくロシア産の希少なものだ。他にも大皿や、彫刻など、大小の置物が飾られているが、質の怪しいものは一つも無かった。ボスは若く、口ぶりも粗暴だが、物を見る目は確からしい。
「俺は有能な人間が好きだ。ここにあんたを招いたのは、あんたがもしかしたら、そうかもしれないと思ったからだ」
目の前の男は、ヘロインの取引で巨額の利益をあげる新興ロシアン・マフィアのボスである。水面下の抗争で急激に版図を広げているが、組織基盤が浅く、当面の問題は集めた金の預け先だった。
ソファの間のテーブルが、向かい合う大柄な男に対して小さ過ぎることに滑稽さを感じながら、古賀は口を開く。
「2015年8月、パナマの法律事務所から、実に2.6テラバイトの関連資料が、ドイツのとある地方紙に漏洩しました。
480万4618件の電子メール、215万4264件のPDFファイル、111万7026件の写真、304万7306件の内部データベースの概要ファイル、32万0166件のテキストファイル及び2242件のその他のファイル……。
世に言う、『パナマ文書』というものです。文書にはオフショア金融センターを利用する企業、21万4000社の株主や取締役の個人情報を含む、詳細な情報が記されていました」
ボスは顔をしかめる。「あんたが数字をよく覚えているということは分かった。感心してやってもいい。だが、俺が知りたいのは、その話が俺にとってどう役立つかということだ」
これも古賀にとっては必要な演出だった。
「失礼。話し方が回りくどいというのは私の悪い癖でして。つまり、この時起きた出来事というのは、当時世界で一番口が固いと信用されていた法律事務所から、オフショア金融センターの利用にかかる夥しい情報が漏洩したということであり、その結果、インサイダーから資金洗浄から租税回避から、あまり人に見られたくない金融取引が、全て筒抜けになってしまった、もっと言えば、資金隠しや租税回避において最もポピュラーだった金融機関が利用不可能になってしまったということです。
ここまでが、我々のサービスが台頭した背景です」
「なるほど。つまり、『金を洗うのが難しくなった』あんたの言いたいことはそういうことでいいのか?」
「概ね。やはり、頭のいい方は簡潔な言い回しをされる」古賀は微笑んだ。
「おべんちゃらは結構だ。まとめに入ってくれ」
「つまり、このお話に関して、これまで企業、政治家、裏社会の大物と言った影日向の富裕層が苦心していたのは、大きく分けて2つの物事です。1つは、『莫大な資産にかかる冗談みたいな税金をいかに逃れるか』、もう1つは、『お金の裏表の行き来をいかに隠すか』。
彼らはこの1つの答えとして、口の固いタックスヘイブンの金融機関を利用いていた。
しかし、ここの機密保持が信用を落とした今、彼らは、新たな金融サービスを求めている」
「なるほど。で、アンタらに出来ることは何だ?」
「我々は、ネットワーク上のバーチャル世界に、極めて秘匿性の高い金融市場を構築しております。誤解の無いように強調しておきますが、『銀行』を作ったのではありません。『市場』そのものを作ったのです。
すでに世界153の国と地域で実装済み。これはいわば、『異世界の金融取引市場』です。そこでは、預貯金はもちろん、証券取引、外国為替取引も表の世界と同じように行われます。
なぜネットワーク上の架空の世界に、これほど巨大な市場を創り出すことが出来たか。詰まる所は、表の企業も、裏の金を必要としているからです。そう言えば、分かって頂けますでしょうか」あえて思わせぶりな発言をすると、ボスは口元を歪めて頷いた。古賀がこの商売をするのは、この瞬間のためかもしれない。
「企業の裏金集めのための金融市場か」
勝手にこのような想像を働かせてくれれば、この時点でほとんど勝負は決まる。人は他人の言うことは疑うが、自分の考えたことは疑わない。
古賀は資料をめくりながら、サービスの詳細を説明する。
企業が裏金をやり取りするための、闇の金融市場。そういうものが実際にあるのかどうか、古賀は知らない。そんなものの有無は、彼の仕事には関係がないからだ。重要なのは、相手の想像力を刺激し、その結果、目の前の男がその実在を信じたことである。
「厚い次元の壁に隔てられた『異世界の金融取引市場』。異世界の市場は、今、急速に膨れ上がっています。数年後にはこの地球上の富の半分以上が、この異世界に運び込まれることでしょう。つまり、裏の市場に集まる富が、表世界の富を上回るということです。なにせ、この地球上では50パーセント以上の富が、世界人口の1パーセント以下の富裕層の手にあるのですから。
お分かりでしょうか。この1パーセントに入るか否か。我々はその意志をお伺いに参ったわけです」
人の欲というのは金だけに働くわけではない。古賀の目の前にいる男が取り憑かれた欲は、せっかく稼いだ金をひと所に置いておくリスクを避けたいという欲かもしれないし、闇の金融取引に関わることで、一端の悪党として身を立てたという証を欲する欲かもしれない。
「いいだろう。差し当たって、10億を預ける」
「それは、円で?」
「そうだな。まずは」
「かしこまりました。それでは現物、1億を本日持ち帰らせて頂きます。お電話でお話ししましたが、口座の開設に必要なのです」
「もう用意はしてある」ボスが部下に目線で合図をすると、短髪の部下がどこからかアタッシュケースを運んで、古賀の目の前で開けた。古賀は一言断って、中の札束を一つ一つあらためた。間違いない。本物だ。
「後は指定の場所に郵送を。何しろ1億円の重さは10キロ。加えてケースの重さを考えれば、私の腕は細すぎる」
「なるほど」とボスの頬が緩んだ時、部屋の外からけたたましい物音が聞こえた。
想定外の出来事にも古賀は表情を動かさなかった。
「肝の座った男だ。気に入った」ボスは言った。
喧しい怒声と足音を伴って、ボスの部下に連れて来られた男は、これもまたボスやその部下にも引けを取らない大男だった。手首に手錠を掛けられて、拳銃を突きつけられているが、動じている風ではなかった。ただ一つ古賀を驚かせたのは、それが日本人だということと、いや、もう一つ、その後ろから現れた、金髪碧眼の美しい女に見覚えがあったことだった。
部下たちはいささか興奮しているものらしく、「暴れるな」だの「ぶっ殺してやる」だのということを、ロシア語で喚いている。
「来客中だ。お前たちは、自分のボスが暇か、そうでないか、事前に確認するべきだ」ボスはそのように部下をたしなめてから、古賀の顔を見た。「な? 急な来客が多いんだ」
古賀は無言のうちに、「いいえ、構いませんよ」と表情で答えた。
「お前が『ゴドウ』か……」ボスは連れて来られた日本人の大男を値踏みするように、足先から睨め回した。
「そうだ」と男は答えた。ゴドウ……珍しいというほどではないが、有り触れた苗字でもない。
「下の名前は?」ボスは重ねて尋ねた。このロシア人は、日本人の姓名が上下に並ぶ感覚が分かるらしい。
「キトラだ」とゴドウは答えた。これはやや珍しい。どういう字を書くのだろうか。
「OK、キトラ。まあ、出会ったばかりで残念だが、これからどうなるかは想像がつくだろう。お前はそこそこ腕に覚えがあるらしいが、相手は選ぶべきだった」
「気に入らねえ奴は誰だろうと、ブチのめしながら生きてきた。あんたもそうだろ」ゴドウという男の太々しい態度に、古賀は舌を巻いた。
「そうだな」ボスは薄笑いを浮かべた。明確な殺気に、背筋が凍る。「俺とお前で違うところがあるとすれば、俺は相手が手枷を嵌められていても、別に気にしないということだ」
そう言ってボスが懐に手を入れた時、声を上げたのはゴドウの後ろに控えていた女だった。
「その男!」
これにはボスも驚いたらしい。女が指差す方向を辿る。その先にいるのは、無論、古賀だった。
「パパ! この嘘吐きを殺して!」
「どういうことだ?」ボスは首を傾げた。
「私をもてあそんだ!」女は必死の形相で喚く。
困ったことになったぞ、と古賀は一瞬のうちに考えを巡らせたが、それは虚しく空転するばかりで、どんなアイデアにも噛み合わなかった。
この期に及んで他人のふりは、余計彼女を逆上させるだけだろう。一番困ったのは、彼女と何度か寝たという記憶はあるものの、それがいつ、どこで、どんな会話をして、彼女が何という名前だったか、何も覚えていないということだった。
「いや、それは違う。『もてあそんだ』なんて……」互いの大事なところを『弄び合った』と言った方が正確だ、という言葉を古賀は飲み込んだ。
「黙れ! 私は……」彼女の大きな目に涙が溜まっていった。もったいないことをした、と古賀は反省した。こんなに美しい娘なのに。
「あーあ……」蚊帳の外にいたゴドウが呟いた。「かわいそうに」
「私が本気になった時、あいつは消えた。『愛してる』って言ったのに。全部嘘だった」ゴドウの同情に答えるように、女は漏らした。
「いや、誤解だ。本当に愛してたんだ。その時は」と言ってから気が付いた。今のは失言だった。
「パパ!」女は催促した。その後に省略した言葉は『早く殺して』だろう。
「ああ、これは殺した方がいいだろうな。だが、お前が自分でやった方がいいんじゃないのか?」そう言うと、ボスは懐から抜き出した拳銃を、娘に放り投げた。
「優しいパパですね。しかし、何でも子どもに与えるというのは教育に良くない」と古賀は苦言を呈したが、その父親が考え直すことはなさそうだった。
「俺が父親になったのは17の時だ。俺はまだガキだったが、それでも娘を育てるために、ここまでのし上がった」
「道理で、お若い」おべっかに効果が無いのは明らかだった。こんな娘がいる時点で、自分よりは大分歳上だ。背後で固い音がした。娘が撃鉄を起こしたのだ。
「私の名前を覚えてる?」女は尋ねた。
「もちろんさ。タチアナ」娘を振り返りながら、勘と記憶を頼りに答えた。これを外せば、多分自分は死ぬ。
「娘の名前はアナスタシアだ」ボスの野太い声がそう告げた。
「お前、最低だな」ゴドウが呆れたように言った。
「3文字も合ってる。ほとんど正解だ」
「お前ら日本人の感覚ではそうかもしれんが、我々は名前を重んじる。少なくとも、お前よりは」
ボスが顎で合図をし、彼女が引き金を引くその一瞬、ゴドウという男は手錠の嵌められた手首を銃口の前に差し出した。鋭い銃声が鼓膜を突き刺す。手錠の鎖が弾けて、逸れた弾道は古賀の頬をかすめていった。
この部屋にいる者は皆呆気にとられて立ち尽くした。ただゴドウを除いて。
「日本人が誤解されるようなら、正直、お前はここで死んだ方がいいような気もするが、まあ、成り行きだ。命拾いしたな」ゴドウは古賀にそう告げると近くの男の腕を掴んだ。
「とてもそうは思えないけどね」
「何、俺がいる」そう言うと、ゴドウは掴んだ男をそのまま投げ飛ばした。人間は人間をこんなに速く投げることが出来るのか、と古賀は呆れながら身を屈めた。人が床に落ちる音が、2つ聞こえた。2つ?
「あ?」ボスが顔をしかめた。「おいおい。いったい何の冗談だ」
古賀が顔を上げると、投げ飛ばされた黒服の足が当たったものだろうか、天井のボードに大きな穴が空いていた。
「こんばんは……」そこから床に落ちたとみえる人物は、きまりが悪そうに挨拶した。
小柄な若い男だ。なぜかここの連中と同じように、黒のスーツを着込んでいる。というより、
「子ども?」と古賀は声を漏らした。
「いえ、ギリ大人です」
「なんだテメエは!」と部下の一人が凄んだが、次の瞬間にはゴドウにしたたか殴られて、床の上に転がった。
「いやあ、道に迷っちゃって……」と、その小柄な男は答えた。
道に迷ってそこにたどり着く奴はいない、と指摘する者は誰もいなかった。
その間にもゴドウは次々と書斎に駆け込んでくるマフィアたちを一人、また一人と殴り、蹴倒し、投げ飛ばしていく。いつの間にか蹴倒されたアタッシュケースからは、札束が雪崩のようにこぼれ出していた。
女が古賀に、ボスが天井裏の男に、部下の一人がゴドウに銃口を向けた。
「もういい。面倒だ。全員やれ」
ボスがそう吐き捨てた時、1人の詐欺師と1人の喧嘩屋、そして1人の泥棒は、目の前の銃口から噴き出す炎の閃光を見た。そしてそれきり、彼らの意識は暗転した────。