3.その小さく貴いものが、決して傷つかぬように
肋骨を折った後堂は、不本意ながら回復までの間、エルフたちの集落に逗留することとなった。
本人の自覚した通り、左右の肋骨が一本ずつ完全骨折していたが、幸い怪我はそれと打撲、擦過傷程度で済んでいた。折れた肋骨が一番下のものだったことで、内臓に傷をつけることもなかったようである。全治3週間といったところだろう。
疼痛はあるものの、寝たきりになるような程度のものではないと後堂は主張したが、エルフたちは絶対安静を頑として譲らなかった。ベッドから起き上がるなら自分たちを倒してからにせよとばかりの強い姿勢に屈し、後堂はそれに従うことを余儀なくされた。
皮を剥いで乾燥させ、材同士の湾曲に合わせて切れ込みを入れた木材を組み合わせて建てられた家は、複雑に湾曲してるが、隙間はない。これは彼女たちが、極めて精密に空間を認知する能力と、優れた木工技術を持っているためだ。
家具調度は設置面が床の凹凸に合わせて削られており、パズルのようにはまっている。寝台もまた平らではなかったが、その凹凸が不思議と身体にフィットして、妙に寝心地が良かった。その上、布団は水鳥の羽根を詰めたものだそうで、軽くて暖かい。
男3人同じ部屋で夜を過ごさねばならないことを除けば、この空き家の居心地は結構なものだった。
「別にお前らは、先に進んだっていいんだぜ」と後堂は言ったが、久遠と古賀もここに留まると言ってきかなかった。
「これだけの美人が集まる村に、後堂一人を置いて行くわけにはいかない」
「後堂さんがいなかったら、誰が僕らを守るのさ」
糞と見紛うような理屈を、名台詞のような調子で宣う。
驚いたことに、この村には男が一人もいないそうだ。となると、色々疑問が生まれるが、その中には、多少センシティブな内容も含まれるため、特に彼らが最も気になる事柄については確認出来ないでいた。
ただ、男3人、若く美しい女だけの村に訪れたとあれば、そこには当然ある期待が生まれる。その期待が、彼らの足をこの集落に留めていた。
トロルの襲撃以来、セレスの村のエルフたちは慌ただしく動き回っていた。
何でもこの村は、幻術と呼ばれる魔法で、野盗や野心的な諸侯などの外敵の目から隠されていることによって守られていたが、今回トロルが紛れ込み大暴れしたことによって、その術式の一部が破壊されたということだった。
古賀や久遠も復旧の作業を手伝っていたが、体力的に見るべき所のない2人が、女性とはいえ元より森で狩猟採集生活をしているエルフたちにとって、どれほど役に立っているのかは怪しいものだった。
実際、連日夕方にはボロ雑巾のようになって帰って来る。
「今、村はどういう状況なんだ」後堂は、この日もくたびれきった様子で作業から帰って来た古賀に尋ねた。とにかく退屈で刺激に飢えている。
「今日で大方の復旧計画が決まった。トロルの襲撃から3日、被害状況の確認と、差し当たって作業や通行に支障のある瓦礫は撤去された。
彼女たちにとってはやはり、村の隠蔽が最優先課題のようだ。我々がここに来た時そうだったように、この村は本来、外からはどこまでも続く鬱蒼とした森にしか見えないはずだった。幻術の術式というのが一部破壊されたことによって、それが外からも薄ぼんやりと見えている状態らしい。人のいい彼女たちもさすがに、その辺の詳しい仕組みは教えてくれなかったけどね。安全保障に関わる機密だ。それと、外敵からの警備にも大分人が割かれている」
後堂は『薄ぼんやりと見えている』という光景を思い浮かべようとしたが、うまく想像出来なかった。
「復旧にはどれくらいかかるんだ?」
「幻術の復旧だけで2週間程度かかる見込みだそうだ。魔法と一口に言っても専門の分野が色々あるらしい。幻術を扱える人材は貴重なんだとか」
「俺たちがここに来たことと、あの化け物に関連は?」
「今のところは不明だが、少なくとも彼女たちは我々を疑ってはいない。後堂があれを倒したお陰で人死にが出なかった。私なら、彼女たちに取り入るためのパフォーマンスだと疑うけどね」
「俺たちが意図しなくとも、何かそのきっかけになった可能性はあるんじゃないか?」
「偶然と考えるにはあまりにタイミングがね。ただ、それだけで判断するのは危険だ。
9.11同時多発テロの前後、日本には『フセイン政権とアルカイダは協力関係にある』と考える政治評論家がごろごろいた。『おかしな奴が2人いるから、裏で繋がっているに違いない』という程度の拙い理屈でだ。サダム・フセインとアルカイダのオサマ・ビンラディンはイデオロギーのフレームもベクトルも全く別で、協力することは絶対にないというのが世界の常識だった。
この話の教訓は、『自分の目で見てもいないものを知った気になるな』ということだね」
「お前の長話も、この生活にはいい退屈しのぎだ」後堂は顔をしかめながら寝返りをうった。
「エルフの女性が代わる代わる看病に来るんだろう。私からすればそっちの方が羨ましいけどね」
「マジで、それ」小難しい話には沈黙を貫いていた久遠が、ここに来て食いつくように割って入った。「僕の貸した本、読んだ?」
「ああ、途中までな」と後堂は言って、枕元に置いていたその本を投げて返した。「いまいちスッと入ってこねえ」
呆れたことに、この世界に飛ばされる前、マフィアのボスの屋敷に忍び込んだ久遠は、その書斎の天井裏で、マフィアたちが留守にするのを待つ間、本を読んで時間を潰していたらしい。
久遠の話では、咳もくしゃみも屁もいびきも許されない天井裏で、それでもリラックスして仕事にあたれることが、優れた泥棒の条件なのだという。
久遠が貸して寄越した本の内容は、驚く程自分たちの現状に似ていた。日陰者の主人公が、大型トラックに轢かれて死にかけ、見知らぬ世界で目を覚ますというものである。プロメテウスの漁村を発つ時耳に挟んだ、『異世界もの』というやつだ。
自分たちと違うのは、小説の主人公は異世界に迷い込んだ際、『チートスキル』なる特殊能力を与えられており、また道中トラブルに巻き込まれるたびに女の連れが増えるということだ。
「その主人公は、インポなのか?」と後堂は尋ねた。
「もう少し、オブラートに包んでもらっていいかな」
「どういう話なんだ」古賀が興味を示した。
登場人物の女たちは、主人公に対して競うように肉体的なアプローチをかけるのにも関わらず、主人公は決まって何かと理由をつけ、迷惑そうな態度でこれを突っぱねるのだ、と後堂は説明した。男性機能に重篤な不具合があるとしか思えない。
「出来るだけ多く女の子を登場させることが、ニーズの1つなんだろう。1人のヒロインと主人公を深い仲にしてしまうと、他の女の子を話に絡めにくい」
「にしたってお前、普通はヤるだろ。とりあえず」後堂は主人公にまるで共感出来ないことを訴えた。
「『とりあえず』で女の子とそういうことをする人は、こういう本の読者層じゃないんです!」久遠は強く非難するように言ってから、ふと気付いたように、疑いの目を向けてきた。「もしかして、ヤったの? とりあえず」
まるで国家の存亡に関わるとでもいうような久遠の表情に滑稽さを覚え、後堂は少し思案してから答えた。
「いや、それがだな、『美人も過ぎると逆に』っていう現象、あるだろ」
古賀と久遠は揃って「あぁ……」と頷いた。
「分かる。あれ、なんだろうね。美人が好きなのは間違いないはずなのに」
「私が思うに、恥じらいだな」と古賀は腕を組んだ。「美人にはその自覚があるから、恥じらいが無いんだよ。だからいまいち、こう、情緒に強く訴えるものがない」
「いやあ、訴えるでしょ、情緒には。僕は逆に、こっちが気遅れするからだと思うけど。自分と相手の容姿が釣り合わないと、何か別のものでその帳尻を合わせなくちゃいけないと思って身構えるんだよ」と主張した後で、「どう思う?」と久遠は後堂に判断を預けた。
「これは、慎重に審議されるべき問題だ」と後堂が身体を起こそうとした時、ドアがノックされた。
そこから顔を出したのは、小さな女の子だった。「どうぞ」とも何とも言う前に、ドアを開けて入って来るが、その後で行儀よくドアを閉めた。
「うわぁ……可愛い……」と久遠が漏らす。
5歳とか6歳くらいだろうか。この村のエルフたちと同じく、金色の豊かな髪と、透き通るような白い肌をしているが、丸く膨らんだ頬っぺたに薄い赤みが差していて、そこに確かな体温を感じる。まるで不思議なものを見るような、丸い大きな目でこちらを見つめている。
「おれいを、いってなかったから」と少女は言った。
「おう。怪我は無かったか?」と後堂はぶっきらぼうに言う。トロルが暴れた時、倒木に足を挟まれていた女の子だ。
「あしの、ここのところが……」と少女は床に座ってふくらはぎの辺りを指差した。「あかくなったけど、なおった」
「そりゃ良かったな」後堂は居心地悪く、額を掻いた。
それから少女は不器用に立ち上がった。「たすけてくれて、ありがとう。それと、おねがいがある」
「何だ?」物怖じしない奴だ、と思いながら、後堂は聞いた。
「ぱんちとか、きっくのやりかたをおしえてほしい」
後堂はベッドから身体を起こして、座った。
「名前は?」
「リズ」
「そうか、リズ。次はお前が、トロルと戦うのか?」
少女は何も言わず、頷いた。
「怖くなかったのか?」
「こわかった。でも、むらのみんなが、なんにんもけがをしたから、リズがおじさんみたいに……」
「お兄さんな」と後堂は遮った。
「おじさんみたいに、リズが、ぱんちときっくでやっつければ、みんな、けがをしない」
「そうか。お前、意外に人の話聞かねえな。悪いが弟子はとらねえ」
「どうしてさ。教えてあげればいいじゃん。可愛い」久遠が口を挟む。
「中途半端にかじった奴が勘違いして怪我すんだよ」と後堂は顔をしかめる。自分の強さは、トロルを相手にするには中途半端だった。
「デシってなに?」とリズは古賀の方を向いて尋ねた。質問すべき相手が本能的に分かるのだろうか。
「教えてもらう人のことだよ」と古賀は屈んでリズの頭を撫でた。「反対に、教えてくれる人のことを師匠という」
「ししょー……」リズは、古賀が頭を撫でていることには何の反応も示さず、ぼんやりと呟いた。
「おい、やめろ。こいつ、都合の悪いことは聞かねえタイプだ」
「ししょー、ひざにすわってもいい?」
「ダメだダメだ。師匠じゃねえっつうの。お前ら、黙って見てねえで説得しろ」と後堂が訴えるのを、古賀と久遠は微笑みながら見守った。そうする間にも、リズはトコトコ歩いて後堂の膝に手をかけている。
「じゃあ、ししょー、すわるね」
「お前、何で一応断るくせに全然言うこと聞かねえんだよ」これだから子どもというやつは苦手なのだ。
「ししょーは、おっきいね」とリズは言った。その常人離れした積極性に似合わず、表情は変化に乏しい。というより、世界には不思議なものが多すぎて、ずっと不思議そうな顔をしていなければならないみたいだった。
「お前は小せえな。パンチとキックのやり方を覚えても、トロルに届かねえだろ」後堂は半ば諦めてため息をついた。
「じゃんぷするから、だいじょうぶ」と言いながら、リズは自慢のジャンプを見せたが、高さが届かず結局後堂の膝によじ登った。
「なんか、大きい犬と子猫の仲良し動画を見てるみたいだ」久遠が目を細める。
「お前、親は?」と後堂は尋ねた。純粋な疑問からだった。この村には男がいない。だとしたら、この子どもはどうやって生を受け、どういう経緯でこの村にやって来たのだろうか。
「おや?」とリズは聞き返した。
「お父さんや、お母さんのことだよ」と古賀が補足した。
「リズのおとうさまは、おうさまの、おーべろん。おかあさまは、そくしつの、まりあ」
「なんだお前、お姫様じゃねえか」と後堂は声をあげたが、リズは首を傾げた。
「おひめさまは、じょおうさま、“ていたにあ”のこどもだけ」
「王と女王がいるのか?」古賀は目を細めた。
「普通じゃないの?」と久遠が首を傾げる。
「いや、普通、王の配偶者は妃、あるいは皇后だ。逆に女王の配偶者は王配と言って、王とは区別される。敬称も『殿下』だ。『陛下』ではない」
「こんな小せえ奴の言うこと間に受けんなよ」後堂が膝を動かすと、リズは後堂の太ももに手をついて、その上でうつ伏せになった。と思うと、間も無く静かな寝息を立て始める。
「あ、寝た。可愛い」久遠は声をひそめた。
「おい、何だこいつ。めちゃくちゃじゃねえか……」
3人の悪党は、それきりものも言わず、ささやかなな寝息と共に、わずかに背中を上下している、その小さな人を見守った。
再び扉が叩かれた時、久遠が足音を忍ばせて扉を開け、古賀は人差し指を口にあてて見せた。
「話があるなら日を改めてくれ。起きると面倒だ」と後堂はとても小さな声で言った。
リズを膝から持ち上げてベッドに寝かせた時、こんなに小さな生き物の中に、独立した魂と感性が宿っているのだということを、後堂は不思議に思った。
その独立した魂は、後堂にパンチやキックのやり方を教わって、トロルを倒そうとしている。背が届かなければジャンプまでして。
後堂は呼吸さえはばかるような慎重さで、その小さな人に布団を被せた。
その小さく貴いものが、決して傷つかぬように。




