1.幻惑の森
鬱蒼と繁茂した枝葉に隠れて陽の光もろくに射さない林道である。
岩や倒木の幹にむした苔と、葉脈を透かして靄のようにたなびいている薄緑色の光とが、辺り一面の奥行きや輪郭を曖昧にしている。その中を、距離も方角も判然としない鳥の声が、あちらと思えばこちら、こちらと思えばまたあちらと、代わる代わるに立っては消える。
プロメテウスの漁村を離れて10日、3人の悪党は完全に立ち往生していた。
「クソっ……、腹が減った……」馬車の荷台に仰向けに寝転がったまま、後堂は呟いた。「大概のことはなんとかなるんじゃねえのかよ」
「それを言ったのは後堂さんだ」久遠が恨めしげに、力なく言う。
「やめよう。余計に腹が減る」と古賀が2人をたしなめた。プロメテウスの漁村で銀行のお偉いさんに扮した時から着ている貴族風の衣装と、やつれた表情とのそぐわなさは滑稽だったが、空腹も忘れて笑えるというほどではない。
プロメテウスの漁村で、大商人ロドリーゴ・バルトリから大金をせしめた彼らは、翌朝さらに、都から遣わされたメルクリウス銀行の頭取秘書を装ってロドリーゴの預金までもを騙し取った。
古賀の話によると、自分たちは今、小さな町一つ興せるくらいの金を持っているらしかったが、皮肉にも、今の彼らはその金でパンの一切れを買うことさえできなかった。売っている人がどこにもいないのである。
途中、5人ほどの野盗を後堂がぶちのめして、干し肉と葡萄酒を奪った(この場合、どちらを野盗と呼ぶべきかということについては議論があるだろう)が、野盗どもも買い込みをする前だったとみえ、持っていた金のわりに、そうした食料もごく僅かで、あっという間に底をついてしまった。
「測量技術や移動技術の未発達な人たちにとって、自分たちの住む世界を正確に把握するのは難しい。特に大航海時代を迎える前のヨーロッパでは、宗教的世界観を盛り込んだ、極めて抽象的な地図が用いられていた」古賀は地図を筒状に丸めて放り投げた。これも、その野盗たちから奪ったものである。
「いらねえよ、そのウンチク。それよりそのクソみてえな地図の読み方を知っとけ」
「いや、そもそもこの時代の地図というのは、世界のあり方を表現するための側面が……」
「だから……そういうことじゃねえんだわぁ……」後堂は役に立たない知識を披露する古賀に文句を言いかけたが、その不毛さにうんざりして諦めた。
彼らが道に迷ってしまった一因は、この地図にあった。古賀の言う通り、この世界の地図というのは正確な測量に基づいて、都市や道の位置を示す資料ではなかったのである。
大まかに、どの方向に何という都市があるのかというくらいのことが、象徴的に描かれているに過ぎず、距離も道筋もまるでデタラメの、子どもの落書きみたいなものである。
一連の仕事を終えると、憲兵の追及から逃れるため、彼らはまず全速力で海沿いに進んだ後、街道を避けて身を隠しやすい林道に入った。
地図によれば、林道を行くと『セレス』という集落に着くはずだったが、どこまで進んでも人里に近付く気配がない。そればかりか、轍に沿って進んで来たはずが、いつの間にか道は転回も後退もままならないほど細くすぼまり、やがて入り組んだ木の根に阻まれて、完全に立ち往生してしまったのである。
馬は草を食んでいる。彼にとって(その馬は雄である)、ここは食物の豊富な楽園なのかもしれない。俺たちにとってもそうなら良かったのに、と彼らは揃って苦笑いした。
「仕方がねえな。こいつを食うか」という後堂のアイデアは、古賀と久遠によって激しい抵抗を受けた。
突然放り込まれたこの得体の知れない世界で生き残るためには、金は生命線だったし、その運搬の手段を失うことは、確かに死活問題だった。
「それより、この辺を散策しようじゃないか。後堂なら、鹿や猪くらいは狩れるんじゃないのか? それにまた野盗がいれば、後堂がやっつけて食べ物を奪える」古賀が、まるで画期的なアイデアのように言う。
「お前、ここぞとばかりに俺を使おうとするな。だが、残念なことに、腹が減りすぎて全くその気が起きねえ」
「いや、ここが踏ん張りどころだよ、後堂さん」久遠が寝転がったまま、後堂を励ますように肩を叩く。
「お前らマジで……」後堂は文句を言いかけたが、事実、狩をするにも野盗を襲うにも、この2人は全くアテになりそうもなかったし、腹を空かせて野垂れ死ぬのも、金を失うのも御免だというところだけは、後堂の意見も彼らと一致していた。「俺が食い物を手に入れたからって、親切にお前らに分けると思ったら大間違いだからな」
「さあここで、貢献度チェックのお時間です」と久遠が唐突に言い出した。「今回、悪徳商人ロドリーゴから大金をせしめることに成功したわけですが、その貢献度の内訳はいかがでしょうか。古賀さん」
「まず、手前味噌にはなりますが、企画立案、各種の段取りを組んだ私の手柄は外せないでしょう」と古賀がこれに乗っかる。
さながら試合後の実況と解説といった体だ。
「たしかに。悔しいですが、これは古賀さんの描いた絵図がなければ成り立たなかったわけですからね。50ポインツ。では、僕の働きはどうでしたか?」
「君が本物のヘロインを持っていたことは偶然でしたし、それがなければ別の作戦を立てていただけですが、今作戦では大量の小麦粉を盗み出すことが鍵でしたからね。これをやってのけた久遠君の働きは大きいですよ。作戦を打ち合わせから勝手に変更したという点で減点を免れませんが、領主館から書面を盗み出し、『接受の認証』を証明する書面に書き換えて用意していたという機転と準備の良さ、また阿片樹脂の隠し場所を看破した目利きは、減点を埋めるのに十分な働きと言っていいでしょう。採点の基準はよくわかりませんが、差し引き30ポインツ」
「ううん……、まあ、僕の書面があっても、古賀さんの立ち回りが無ければ意味がなかった訳ですからね。そんなもんでしょうか。では、後堂さんの貢献度はいかがでしょうか」
「俺がいなかったら、そもそもお前らロドリーゴの私兵に殺されてたろ」と後堂は主張した。
「いや、あの場には憲兵がいましたからね。結局憲兵は私兵を退けてロドリーゴを逮捕しています。外に待機していた分を呼び入れるだけであの場は制圧可能だったでしょう。久遠君の書面はかなりいい出来だったので、科学捜査の技術が無いこの界隈ではまず見破られる気遣いはありませんでした。
ですから、我々は暴れて逃げ出すよりも、あの場に留まって外交官を演じ続けるべきだった。
ところが、後堂が暴れてしまったために、それでは済まなくなりました。武力があると向こうも警戒を強めます。まあ、その後馬を走らせたことで加点するとして、5ポインツ」
古賀の講評に久遠がうんうんと頷く。
「おい、その採点は恣意的だぞ」と後堂は抗議した。「あと、その『ポインツ』っていうのやめろ」
などとやっていると、不意に頭上の枝がざわざわと音を立て始めた。と思うと、澄んだ女の声が、しかし厳しく問い詰めるような調子で投げつけられた。
後堂は両手を挙げ、古賀と久遠にもそうするよう促した。枝葉の陰から弓矢で狙われている。
「おい! そこの人間と、オーガ! ここで何をしている!」
「おーが?」と後堂は聞き返した。
久遠が吹き出した。
「何が可笑しい!」と枝葉の陰から女の声が問い詰める。
「いや、この人は、身体が大きいだけで、人間だよ」と久遠は答えた。
「なんだ『おーが』って」と後堂も久遠を問い詰める。3人の中で、有意に身体が大きいと言えるのは自分だけだ。何か看過出来ない誤解があるに違いない。
「お姫様を攫う大男の怪物だよ。身体がデカいから、彼女は後堂さんがオーガだと思ってる」
「俺が怪物だって?」と後堂は顔をしかめた。前の世界でもよく言われたことだが、今回はニュアンスが違って、どうやら比喩的な表現ではなさそうだ。
頭上の枝葉が一層ざわめいた。そこに潜んでいるのは1人2人ではないらしい。
──「オーガではないのか?」「確かに、オーガにしては少し小さい」「小さいオーガかも」「でも、人間と一緒にいる」「だとすれば、失礼なことを言った」──
頭上の枝から、地面に何かが落ちるような音がした。枝の間に潜んでいた女が飛び降りたのだと気付くのに時間がかかったのは、その音があまりに軽く、また動作が俊敏だったためだ。
「失礼した。私はスノッリ辺境伯領姫カテリーナ・イズマイロヴァ殿下よりノルド大森林警邏隊の一個小隊をあずかっている、ルサルカである」と女は名乗った。
薄暗い森の中にも目の覚めるほど白い肌と、煌めくような金色の髪とを持った、美しい女である。長い髪の間から見える耳は長く、先が尖っている。プロメテウスの漁村でも何人か目にしたが、久遠の話によると、エルフとかいう人種だ。思った通り、手には弓、腰に矢筒を提げている。
「ちょっと待ってくれ。全然頭に入ってこない」と後堂は訴えた。「聞いたことのねえ言葉がいっぺんに来るから」
久遠が呆れたように首を振った。「もう。後堂さんは。つまり、『すのっりヘンキョウハクリョウキかてりーないずまいろばデンカヨリのるどダイシンリンケイラタイノイッコショウタイヲアズカッテイルるさるか』さんってことですよね」
「その通りだ」と女は強く頷いた。
「あんた、人を疑うことを覚えた方がいい。コイツ全然分かってねえぞ」と後堂は久遠を指差して忠告した。
「むっ。そうなのか?」女はむっとした。
「人間ってのは嘘をつく生き物だからな」その上、自分の隣にはもっとタチの悪い、女たらしの詐欺師がいる。
「ご無礼をお許し下さい。ルサルカ女史」古賀がここぞとばかりに馬車から降りて進み出た。タチの悪い女たらしの詐欺師は、早速この美人に目をつけたものとみえる。「というのも、我々は旅人でして、かく言う私も、この辺りの慣習や礼節にはまるで疎いのです。その上ご覧の通り、すっかり道に迷ってしまった。ご確認申し上げたいのですが、貴女の主、カテリーナ姫は、スノッリ辺境伯閣下の娘御ということで相違ありませんか」
「うむ。相違ない。卿は話が分かるようだな。さぞ高い身分とお見受けする」
「私は、遥か海の向こう、モスキート・コーストという国のジョージ・フレデリック・アウグストゥス王からポヤイスという所領を預るグレガー・マクレガーと申します」古賀は深々と頭を下げた。息をするように嘘をつく男だ。「あなた方がオーガと見間違えられた大男はキトラ・ゴドー。小さい方はシンタ・クオンと申します」
古賀が後堂と久遠をそれぞれ紹介すると、本人に比べて雑な設定に眉をひそめたが、あえて指摘はしなかった。かえってややこしくなりそうだと考えたためである。
「ポヤイス卿グレガー・マクレガー殿……」
「マクレガーで構いません」
「そうか。マクレガー卿、我らの土地に無用ならば、すぐに立ち去るがよかろう」
「よければ、食べ物を少し分けて頂けませんか。もちろん、相応のお礼は致します」
古賀がそう頼むと、ルサルカとかいうエルフは腕を組んで考え込んだ。
「それはやぶさかでないが、少々立て込んでいる」
「戦か?」後堂は口を挟んだ。
「だとしたら、この人は役に立つ」と久遠がまるで自分のことを言うように後堂を推す。
「いや、魔物が……」とルサルカが言いかけた時、樹上の枝葉がにわかにざわめいた。樹の枝を飛び移って人が移動しているのだ。
「巡察より連絡! トロルです!」
「何? 一体何処から……」エルフたちの間に緊張が走っていることが、遥か頭上の枝葉の音からも知れた。
「そのトロルというのを倒せば良いわけだ」後堂は緩慢な動作で立ち上がった。「飯を食わせろ。そうすりゃ大抵の奴は俺がぶっ倒してやる」
◇
◇
◇
「ここが、我々の拠点である集落、『セレス』という村だ」馬の手綱を引きながら、ルサルカが言った。
「なるほど……」後堂には、今まで彼らが迷い込んでいた森と、彼女の言う集落との境目がどこだったのかさっぱり分からなかった。
不思議なことに、彼女が案内を申し出ると、車輪がはまって前にも後ろにも動けなくなっていた馬車がこともなげに進み出し、狭まっていたはずの林道は馬車一台通してなお左右に人が通れるだけの広さに広がっていた。
そこは依然鬱蒼とした森の中だった。集落の地積を確保するための伐採も造成もされておらず、丸太組みの小屋を建てるために必要な木を切った場所がそのままその小屋の敷地になるらしい。
彼女たちエルフは、水平や直角をとるということに頓着しないようだった。
全ての住居が、丸太の凹凸や、地形の起伏に合わせて傾斜したり湾曲したりしている。柱には、しばしば立木がそのまま使われていた。
どうしてこういう複雑な形状の住居を構えるのか、と古賀が尋ねたが、エルフである彼女にはむしろ、人間がどうしてなんでも真っ直ぐに作りたがるのかが分からないようだった。
彼女曰く、「真っ直ぐ作った方がいいもの以外は、真っ直ぐ作る必要がない」ということだ。彼女は『真っ直ぐ作るべきもの』の一例として矢を挙げたが、それ以外には思いつかないようだった。
「済まないが、きちんとした食事を用意する暇がない」ルサルカは馬車馬の手綱を引きながら、一声高く鋭い口笛を吹いた。
いつの間に連絡を受けていたのか、木陰から女が数人現れて、両手に持った木彫りの小鉢を後堂たちに差し出した。
「腹が膨れりゃ何でもいい」後堂は馬車の荷台に乗ったままそれを受け取ると、その中身を一口に流し込んだ。ピーナッツやアーモンドに近い何種類かのナッツだが、後堂の知っているものとはどれも微妙に違っているようだった。煎って塩を振ってある。「うん。結構イケるな」
古賀や久遠も、ウンウンと頷きながら、一粒ずつ摘んでは舌鼓を打っている。
「これで、ビールか何かがあれば、文句の付けようは無いんだが」
「図々しいよ古賀さん。まあ、口の中の水分は持ってかれるけども」
「お前も大概だろ……」と後堂が言いかけた時、獣の低く唸るような声が遠くから響いた。
「トロルだ……」ルサルカが生唾を飲む。
獣退治か、と後堂は握った拳の感触を確かめた。彼にしては珍しく、手の内に汗が滲んでいるのを感じる。
「やべえ予感がするな、おい」