悪党たちは、いかにしてそこへ迷い込んだか①
おとめ座超銀河団エリア
おとめ座銀河団管轄
天の川銀河系
オリオン腕部
太陽系属
第三惑星『地球』
ここに豊富な水と大気が存在し、夥しい生命が活動することを知る者は少ない。まして、その中にある小さな島国では、度々唐突に次元の壁を超越し、異なる世界に転移、あるいは転生する者がいるなどという事実は。
西暦20xx年4月某日、とある島国の海沿いに位置する地方都市では、一人の悪党がほくそ笑み、一人の悪党がぶちのめし、また一人の悪党が忍び込んでいた。
【古賀 敏景(仮名)】
「ええ、それでは明日。良いお取引になることを期待しております」
古賀はそう言って電話を切った。ホテル・オーシャンビュー某(古賀は自分が泊まるホテルの名前をいちいち覚えない)の最上階スイートルーム。ガラス張りの窓からは、街の夜景が見下ろせる。
俳優の役作りみたいなもので、大きな仕事の前には、こうした演出が必要……とまでは言わないが、あった方がいい。明日の自分は、巨額の金を動かす優秀なビジネスマンだ。一流の部屋を取り、一流のワインを飲み、一流の女を抱く。
しなだれかかる女の腰に手を回しながら、古賀は考えた。仕事前の、軽い頭の体操みたいなものである。
彼女は古賀について、ベンチャー企業の若い会社役員だと信じている。多少教養のある、変わり者のインテリくらいに。
だから時々、こういうワガママを囁くのだ。「あのね? 欲しい絵があるのよ。貴方なら多分知っていると思うけど……ヒエロニムス・ボス」
「もちろん。『快楽の園』」と、古賀はその代表作を挙げた。ルネサンス期、ネーデルラントの画家で、400年は時空を飛び越えたような、前衛的で奇怪な絵を描く。
「そう、その。彼の絵は、宗教改革運動の偶像破壊の煽りで紛失して、30点くらいしか現存していない。でも最近、新たに、秘蔵されていたものが見つかった」
「億単位だな。それに、その手のものは、金さえ積めば手に入るというものではない」
「そうなの。けれど、そのコネクションを手に入れた。あとは……」
「金だけ」なるほど、面白い導入だ。教養とセンスを感じる。古賀は頷いてから、こう返した。「私の方でも、面白い話がある」
女は首を傾げた。
「ここから歩いて行ける距離に、貸倉庫がある。港に面した工場地帯の一角で、コンテナをいくつか貸してる。小耳に挟んだ話だが、ある詐欺師が、ここを使っていたらしい」
女の目尻がわずかに引き攣るのを、古賀は見逃さなかった。彼は続ける。
「手広くやっていたようだからね、結婚詐欺から、贋物売買、偽造小切手、金融商品詐欺……コンテナには実にいろいろなものが溜め込まれていた。
もちろん、足がつかないように、その貸し倉庫は金を握らせた奴に契約をさせて、又借りしていたわけだ。
転貸人の素性はある程度調べただろうね。契約が飛んでしまっては困るから。だが、詐欺師は倉庫のオーナーについても調べるべきだった。まあ、調べて分かるかどうかは別として」
「まさか……」女の顔がみるみる蒼ざめていく。
「そう。コンテナはつい先日、その中身と共に消えた。その貸倉庫のオーナーが、転借人の正体を詐欺師だと知っていたからだ。何せ、詐欺師に又貸しした契約者自体、オーナーの仕込みだったわけだから。そのオーナーは今頃、ホテルのスイートルームで、ワイングラスを傾けながら、美女と絵画やちょっとしたピカレスクの話を楽しんでいることだろう」
女は顔を真っ赤にして立ち上がると、古賀に掴みかかった。だが、それ以上、彼女に出来ることはない。古賀は彼女の頬に手を触れた。
「アンタ、最初から……」女は古賀を睨む。
「やはり騙すなら、相手は悪党に限る。彼らは自分が騙す側だと思っているから、自分が騙されたことに気付くのが遅い」
「さっきの電話、明日も『仕事』なわけ?」
「もちろん。貧乏暇なしさ」
「呆れた……」女は渇いた声で短く笑うと、古賀をベッドに押し倒した。「アンタの顔が良いってことだけが救いだわ。朝まで付き合ってもらうから」
「慌てることはない。夜は長いからね」────
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【後堂 貴虎】
皮膚を焦がすようないくつものライトが、リングを照らしている。狭い地下にすし詰めの観客が、チケットを握りしめて怒声と歓声を上げながら、刺すような視線を浴びせる。
相手の拳が頬を目掛けて飛んで来るのを額に滑らせ、脇腹に左拳を突き刺す。筋肉の甲冑を押し込んで、骨を軋ませる感触があった。次に振るった右拳が相手のこめかみを撃ち抜く。
2メートルを超える巨体がマットに叩きつけられるのを見た観客は、狂ったように叫ぶ。
後堂は両手の中指を立てて、天を突くように掲げた。相手はもう、起き上がることはない。おそらく、これは比喩ではない。このまま運び出され、そして処理される。
何せ、彼には莫大な金が賭けられていたし、何人かの面子が潰れる。そうして面子を潰された連中は、揃いも揃ってお世辞にも行儀の良いタイプとは言い難い。
この地下格闘技場で無敗を誇る後堂は、相対的に相手のオッズを青天井に跳ね上げている。
「強いということは商売になるが、あまりに一方的だとそれも考えものだ」このリングの女支配人が試合前、後堂の控え室で言ったのはこういう台詞だった。
つまり、彼があまりに勝ち過ぎたせいで、対戦相手に賭ける客が減りすぎたのだということだ。そこに目を付けたマフィアのボスだかヤクザの親分だか(後堂はこういう話の登場人物をいちいち覚えない)が、オーナーに取引を持ちかけた。
つまり彼に八百長をさせることで、そのおこぼれにあずかろうというのだ。後堂がここで負ければ、勝った時より莫大なファイトマネーが出るらしかったが、そんなことで勝ち負けを左右出来るようならば、ハナっからこんな蒸し暑い地下で闘ったりしていない。
世の中には気に食わない奴が多過ぎる。そういう連中を片っ端からぶちのめしているうちに、彼は表舞台で闘う資格を失った。世間の日向に居場所がない、腕っ節は強い、他には何もない──。そういう奴の進路というのは大体決まっている。今日の対戦相手も概ねそういう奴だった。付き合ってきた女にはことごとく手を上げて、その度に逮捕されるような奴だと、聞いてもないのに誰かが教えた。
やはりブチのめすなら悪党に限る。爽快感が違うからだ。
リングを降りていく後堂の肩を支配人が細い指で掴んだ。その表情には、焦燥と諦観、暴力に対する恐れと興奮、勝利への歓喜、そういう成り立ちの違う感情が分かち難く混ざり合って浮かんでいる。年増だが、いい女だ、と後堂は思う。
「規定のファイトマネーは出す。その金を持って、精々遠くへ逃げるんだね」
そう小声で囁いたオーナーの背中を、後堂は力一杯平手で叩いた。オーナーは短く悲鳴をあげた。
「慌てるこたぁねえ。夜は長いぜ」────
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【久遠 新太】
どんなに綺麗な家でも天井裏には厚く埃が溜まっているものだ。それは麻薬取引で莫大な利益を上げる、新興ロシアン・マフィアの邸宅であっても例外ではない。
咳もくしゃみもいびきも許されない天井裏で、久遠 新太は部屋の様子を見下ろしていた。
この屋敷に常駐している男たちに合わせて着込んでいる黒のスーツと、屋根裏の情景との組み合わせは滑稽だろうが、それを気にする者はいない。
家主は携帯電話を片手に、誰かと商談の打合せをしているようだった。分厚い体躯を持った、屈強なロシア人だが、流暢な日本語を話す。
ここは家主の書斎であり、同時に応接室でもある。
部屋には高価な置物がたくさんあったが、こういうものに手を付けるべきではない。かさばる上に、持ち主が無くなったことにすぐ気付く。また換金するのが面倒で、足が付くリスクも高い。
盗むなら現金だし、それも悪党からだ。何故なら、彼らは銀行に金を預けられないし、何より警察に届け出ない。
部屋の大きなクローゼットには、中型の金庫が積み重なって並んでいることを、久遠は知っている。何日にも分けて、一つずつそれらを解錠し、少しずつこの屋根裏へ、中身を持ち出しているからだ。
用心深い家主は、金庫を自分の目の届く書斎に置き、彼が眠る間は拳銃を持った黒服の男(彼はなぜ、そのような服装を強いられるのか、久遠には理解できなかった)が常駐している。そのため、久遠は一度の作業時間を出来るだけ短くし、何度にも分けて金を盗み出さなければならなかった。
電話をしていたマフィアのボスが書斎を出てからしばらく待つと、久遠はクローゼットの真上まで移動した。部屋の間取りは当然頭に入っている。天井のボードを外してクローゼットの中に降りる。
目をつけていた金庫の扉に耳をあて、ダイヤルを回す。金庫はえらく旧式だ。久遠の頭の中には、ダイヤルに繋がっているシャフト、その先にあるプレートやそこに施された切り欠きの位置がイメージ出来た。ダイヤルを回すにつれて、そのイメージは明確になっていく。
金庫の解錠に彼が費やした時間はきっかり5分だった。中にはおよそ期待した通りの札束と貴金属が詰められている。一つの金庫に色々なものを詰めるのは、彼らなりのリスクヘッジなのだろうか。「それとも、用心深い割にズボラなのかな」とそんなことを考えながら、久遠は札束だけをバッグに詰めた。
「よし。やっぱり僕は、天才だ」最後の金庫を開けてそう言い放った時、彼のいる部屋の下から玄関を開ける音がした。
久遠は慌てて金庫を閉じると、また屋根裏に戻って天井のボードを元の位置にはめ直した。
何かトラブルだろうか。久遠は冷や汗をかく。
階下から何人もの足音が聞こえる。
今日で最後だと考えていたが、今夜はここから動かない方が良さそうだ。
「夜は長いぞ」と久遠はため息を吐いた。────