第1夢 序曲14
いつもならこのまま真っ直ぐと家に帰るところだが、少し用事があるため、校舎の南側にある男子寮へと足を運んだ。
ちなみに女子寮はその隣にある。
男子寮の正面玄関のドアを開けると、そこは食堂だった。
その中心部にはどーんと大きな二階へと続く螺旋階段があった。
その向こう側に、彼はいた。
俺は本を片手に優雅に座っている。
彼のもとにつかつかと歩み寄ると、開口一番に言った。
「優、お前に話がある」
彼は俺に気付くと、にこりと笑いながら言った。
「奇遇ですね。僕も先生に話があります。どうぞ、座ってください」
彼は俺に自分の前にある椅子に座るように促した。
俺は仕方なく従ってやった。
でも、こんな上から目線な態度はムカつく。
……ていうかコイツ、絶対に奇遇じゃない。
普通、こんなふうに分かりやすく待ち構えていたりしない。
話があるなら俺みたいに自分から出向くはずだ。
完全にコイツの手のひらの上で転がされている気がする。
そんなところもムカつく。
「それで、僕に話とは、なんですか?」
「お前、俺に嘘ついただろ」
「へ?嘘、ですか?」
彼はあからさまにきょとんとした顔をする。
「ああ。お前は俺に、保健室でのあの時、一つ嘘をついていた」
「……」
「お前は、俺に「記憶と感情を流し込んだ」と言った。でもこれは間違いだ」
「……ほう」
「実際に、俺に感情が備わったのは分かった。だが、記憶はどこ行った?」
彼の目は、もう、さっきまでのように優しいタレ目ではなかった。
研ぎ澄まされた、キレ長の目へと変わってしまった彼の目は、申し訳程度にかけられた彼のメガネを通してでも、光らされていることが分かった。
彼の圧倒的威圧感に俺は気圧されそうになった。
それがバレてしまわないように、俺は彼を睨み返した。
「お前が俺に流し込んだのは、〝記憶〟ではなく、単なる基本的な〝情報〟だけだったんじゃないのか?」
彼は俺の話を、眉の一つも動かさずに聞いている。
「もし俺がお前の言うとおり記憶というものが流し込まれていたとしたら、生徒たちの名前を、なぜ学校はこうなっているのかを、今はいつなのかを、俺はどこの誰なのかを、全て映像とともに覚えているはずだ」
俺は続けて熱弁をふるう。
「だが俺らはそれらを全て覚えていない。思い出せない。なぜか。それは、お前が俺に流し込んだのは記憶ではなく情報だからだ。お前にとって都合の良い情報だけを俺に流し込んだからだっ。なぜだっ!なぜこんなことをしたっ!なぜ俺に嘘をついたっ!なぜ俺に記憶ではなく情報を流し込んだっ!なぜだっ!なぜなんだっ!理由を答えろよ。答えろよ!優っ!」
俺の言いたいことは全て言い終わった。さあ、答えろ、優!
「……クス……」
?
「……クスクスクス……」
彼の不気味な笑い声だった。
「さすが、先生ですね。彼女らが見込んだだけはあります」
彼女ら……あの、吹奏楽部員のことか?
「いいですよ。教えて差し上げます」
どこまでも偉そうなやつだな。その含み笑いがムカつく。
「ただし、条件があります」
「条件?」
「まさか、タダで知れるとでも思ったんですか?」
こうなるとは思ってなかった。
「条件……とは?」
彼は一瞬ニヤリと笑った。
「簡単です。この学校の吹奏楽部員九人の夢を叶えてやってください」
彼の顔は、一瞬にして今までの優しい顔に戻っていた。まるで、あの顔が幻であったかのように。
「夢……?」
「はい。夢です。彼女ら一人一人には、それぞれちゃんとした夢があります。それを、あなたが叶えてやってください」
なぜだ?関係ないだろう、お前と。
「なぜ俺が?」
「先生にやってほしいんです。先生がやってほしいんです。先生だからこそやってほしいんです。先生にしか頼めないんです」
「……はあ」
「お願いしますっ、先生」
最後には頭まで下げられてしまった。
震えている丸まった背中を見ると、断るという選択肢が頭の中からなくなってしまった。
「はい」と言わなければならないという衝動に、俺は掻き立てられた。
「しょうがねぇな。分かったよ。引き受けてやる」
我ながら、俺って本当お人好しだな。
「本当ですか?」
「ああ」
「ありがとうございます!」
さっきまでしおらしくなっていた背中がピンっと立った。
それを見てしまった俺は、笑いをこらえるのに必死だった。
「そのかわり、あのことを教えてもらうって約束だからな」
「はいっ。その時になったら、あのことのみならず別の質問でもなんなりとっ」
「おうっ」
「彼女らの夢を叶えるのは、僕もできる限り協力して差し上げたいと思います」
「サンキュ」
なんだろう、この妙な意気投合具合……。
だいぶ気持ち悪いぞ。
よし、帰るか。
そう思って俺は荷物を持って立ち上がり、踵を返す。
「そんじゃ、俺、帰るから」
「待ってください」
呼び止められたのを理由に振り返ると、彼は立ちっぱなしのまま、こちらをまっすぐ見つめていた。
「何?」
「先生……ここに泊まっていきませんか?」
「……は?」
「大丈夫です。空き部屋なら余るほどあるのでっ」
「そうじゃなくて、なんで教師である俺が学生用の寮なんかに止まらなければならないんだ?」
俺が驚愕に満ちた顔で彼に言うと、彼はニッコリと笑って続けさせた。
「いやー、先生。わざわざ家に帰るのもめんどくさいなーって思ったことありませんか?学校のすぐそこに住んでいる生徒たちが羨ましいなーって思ったことないですか?」
まあ……確かにそう思ったことはあるけど……。
「それに、夜になったら男子寮にいるのは僕だけになっちゃうんですよ。夜、たった一人でこんなだだっ広い寮の中にいるのは、正直言って怖いんですよ。お化けとかが出るかもしれない。知らない誰かがいるかもしれない。僕の知らないことが起こるかも知れない。もう、毎晩毎晩怖くて眠れません」
「そ、そうか……」
ビビリ……なのか?
「本当にもう、怖いんです。いろんなトラウマがフラッシュバックしてきて……死にたくなるんです。なので、先生。僕のために、お願いしますっ」
そう言ってまた頭を下げた彼の目からは涙がこぼれていた。
そこまで怖いのか。
そこまで一人が嫌なのか。
そんなに俺という存在を求めているのか。
「分かった。いいぞ」
「!ありがとうございますっ」
彼の顔が、輝いて見えた。
「言っとくけど、お前ためじゃないからな」
「はいっ。それでもいいです。ありがとうございます」
彼の目からは、また別の涙が流れていた。
「ちなみに僕の部屋は五一〇号室です。そこ以外の部屋ならどこでも自由に使ってください」
「ああ。分かった」
「それじゃあ、おやすみなさい、先生」
「ああ。おやすみ」
彼はそのまま目の前の階段を上っていった。
もう日は落ちていた。
外はもう暗く、夜空には星がちらついていた。
学生寮と校舎の間にある中庭は、月の光に照らされて、どこか幻想的な雰囲気を漂わせていた。
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俺は結局、三〇八号室に泊まることにした。
そこを選んだ理由は、三階だから行き来が楽なのと、まの前にトイレがあるのと、はじの部屋だから他の部屋と違って窓が二つあるからだ。
だが、一つ、不思議に思ったことがあった。
本来俺の家の俺の部屋にあるはずのものが、全てその部屋に置かれていた。
元からそこにあったかのように、怖いくらいに部屋の雰囲気に溶け込んでいた。
まあでもこれで、いろいろ家から持ってくる手間が省けた。
多分このことをあまり深読みしても仕方がないのだろう。
寝たら忘れる。
きっと、元通りの生活に戻れる。
俺はもうこれ以上考える労力も残っていなくて、そんな希望もない期待に胸をふくらませながら、静かに目を閉じた。