花火と水飛沫
今日の水泳部は、随分と賑やかだった。
それもそのはず。顧問の千恵先生が、今日は休みなのだ。
なんでも、妹さんが結婚式を開くらしい。それで金曜日の今日に有休を取って地元に帰省し、土曜日が式日。月曜日にはちゃんと帰ってくる、と言っていた。
いつも水泳部は、彼女の主導で練習していた。だから今日は必然的に自主練ということになる。
元々そんなに厳しい部活というわけでもないので、今日はプールをコースロープで二分割して、「いつも通り真面目にやる組」と「今日ぐらいはプールで思い切り遊ぶ組」に分かれて各々活動することになったのだった。
僕はというと、スペースを半分にされてしまった真面目組に混じるのも気が引けたので、遊ぶ組のプールサイドに腰かけて、忙しなく揺れるプールの波間を見つめていた。
早い話が、暇を持て余していた。
仕方がない。僕と仲が良い部員といえば南乗くらいだが、彼に取って僕は一番の友達というわけでもない。今は別のグループと遊んでいる。
流宮の姿は、今のところ見えない。彼女が遅れることはそんなに珍しいことではない。
しかし彼女にしたって同じだ。僕の他にも友達がいる、わざわざつまらなさそうに呆けている僕のところには来ないだろう。
遊ぶ相手もいないなら帰ればいいのに、なんて思われるかもしれない。実際その通りだ。
しかし僕は、スケジュールを変える、という行為が著しく苦手なのだ。やむにやまれぬ理由でない限りは、ちゃんと予定通りに行動しないと落ち着かない。
だから部活の時間になれば、たとえやることがなくても部活をする、ということだ。それが実りのない時間だとしても。
こんな時間も、三年間飛空部に通い続けていたことに比べれば些細なものだ。
「だ~れ~だ~」
ごわっっ。
なんか無理して低音を出してるっぽい声が聞こえたと思ったら、突如として全身が何かに覆われた。
この鱗っぽくて張った感じは、龍種の翼だ。
「……流宮でしょ」
「すごーい。声変えてたのに」
「こんなことするような龍種の友達、流宮しかいないよ」
それもそうね~、なんて他人事みたいに言いながら、彼女は僕の隣に腰かけた。
濡れている様子はない。シャワーも浴びていないってことは、本当に今来たところらしい。
「遅刻だね」
「今日はいいじゃん? 千恵ちゃんいないし。江原こそ時間通り来て何してるのさ」
「……いいだろ、別に」
ニ十分弱、ただ呆けていたとは言いづらい。
「それにしても大変だよねえ、千恵ちゃん。実の妹が結婚式だっていうのに、一日しかお休み取らないなんて。もっと盛大にさ、家族総出で三日三晩祝うくらいしたっていいじゃない? ウチの親ならしてもおかしくないね」
完全なイメージだけど、確かに流宮の両親はそれくらいしそうだ。親バ――娘のことをすごく大事にしてそう。そうじゃなきゃ、こんな天衣無縫な子は育つまい。
「僕らのためでもあると思うよ。教師はなかなか替えがきかないから、休み取るの大変だってよく言われてるよね」
「ウワー、イヤだなあ。せめて有給くらいちゃんと消化させてもらえる仕事に就きたい」
流宮は苦しげな声で悶えた。
「でも、妹さんが結婚かあ。千恵ちゃんはいつ結婚するんだろうね」
「千恵先生って独身だったの?」
「バツイチだってさ」
「へぇ……」
そういう情報って一体どこで手に入れるんだろう。
クラスの色恋沙汰も同じだ。誰々が付き合ってるだとか告っただとか、そういうのってもはや学年間で常識として流布されているけれど、テレビでニュースになるわけじゃあるまいに、どうやってみんなでその知識を共有しているのだろうか。
「ところで、流宮は練習しないの?」
「ん~、たまには厳しい練習から離れて水泳本来の楽しさを思い出すというのもね」
「まだろくに泳げないくせして何を……」
「まーた細かいことを! いいじゃん、遊ぼうよ江原!」
「女性陣と遊んでればいいのに」
「なんかみんな水中鬼ごっこしてたんだもん」
水中鬼ごっこ。その名の通り水中に場を限定した鬼ごっこのことだ。
大抵の場合、歩いたり走ったりするよりは泳いだ方が速いので、つまるところ、流宮は圧倒的に不利というわけだ。
なるほど。遊び組は遊び組でも、一応練習の足しになることをしているらしい。
「そうはいっても、金槌組が取っても許されるスペースなんて精々ここらへんくらいだよ。何ができるの?」
遊び組の鬼ごっこやオリジナル泳法練習なんかに使われなさそうな、隅のデッドスペースを指差しで囲う。
「なんだろう。水のかけ合いっこ?」
「ビーチじゃないんだから……」
そんなこと二人してプールの隅でしてたら、たとえスペースを取ってなくてもひんしゅくを買うこと間違いなしだ。
「だーってこんな狭くちゃ激しく動けないでしょ」
「それはそうだけどさ」
「あ、じゃ、こんなのどう? 間欠泉ごっこ」
「はあ」
それだけでなんとなく内容には察しがついたが、僕は一応聞くことにした。
「で、それはどういう遊び?」
「水を一番高く上げられた方が勝ち!」
「だと思った……」
「何そのつまらなそうな顔ーっ。どうせ暇なんだしいいじゃん!」
「まあ、一回二回やるくらい別にいいんだけどさ。でもそれ僕が不利だろ、体格的に」
「いや~分かんないよ? 力は江原の方が強いかもだし」
正直力も微妙だけど……。
「じゃ、やってみてよ江原」
「なんだかなぁ」
渋々水面に腕を近づける。これはこれで妙に恥ずかしいが、ここでやめたらきっとうるさいだろうし。
「それっ」
水をすくいあげて思い切り空にぶちまける。
水の塊は一瞬にして空中分解し、頼りなげに速度を落とす。そして思っていた以上に上に行かなかった水は、記録を確認する間もなく落ちてきてびちゃりと僕の肩に当たった。
「お~」
「…………」
薄々分かってたけど、特に何か盛り上がりがあるわけでもない。微妙な空気だ。
「じゃー次は私の番ね!」
「はいはい、どうぞ」
「いくよー」
そう言いながら流宮はなぜかプールに背を向け、腰を突き上げるような姿勢になった。
高く上げられた尻尾が太陽に照らされ、ギラリと光る。
「ちょ、ちょっとまさか」
「――ぃよいしょっ!」
そのまま彼女は腰ごと尻尾を振り降ろし、プールに叩きつけた。
ザパァンッ、と水面が派手に音を立てて、かなり高く跳ね上がる。
「うぉわわっ!」
そして彼女は自分に飛沫がかかって驚いている。呆れた奴だ。
気づけば、大きな音を立てたからか、何人かがこちらを見ていた。居心地が悪い。
「おぉ~う……これは私の勝ちじゃないっ?」
一瞬にしてずぶ濡れになった流宮は、そんなの構わず嬉しそうだ。
「だから言ったじゃないか、僕の方が不利だって。龍の部分使われちゃ敵わないよ」
「勝負は非情ってね」
適当なことを言って流宮は得意げだ。対する僕はというと、びっくりするくらい何の感情も感想も出てこない。
「……虚無の時間だったな」
「なーんでそんなこと言うのさ!」
「いや、だってさぁ……」
あんないい加減な勝負でしっかりリアクションできる流宮が逆にすごいんだと思う。
「でもさでもさっ」
流宮は一際楽しそうに笑った。
「今の、綺麗じゃなかった? バチィーンって、水飛沫が勢いよく跳ねて、うねって弾けて、まるで花火みたいで」
「あー、言いたいことは分かる」
薄い反応をしながら、僕は流宮の発言に少し驚いていた。
今の表現が結構、好きだったから。
「花火、好きなの?」
「うんっ、大好きだよ。花火がパッと弾けてさ、ちょっと遅れて音がして、それがお腹の底に響く、あの瞬間がすごく好きなんだよね。分かってくれる?」
本当のところ僕は、彼女の手を両手で握って全力で肯定したかった。
僕は花火が大好きだ。毎年行きもしない地元の夏祭りをすごく楽しみに待ってるくらいには。
でも、それを素直に言えないのは、好きな理由にある。
とどのつまり、それは僕が彼女の龍星に憧れたのと同じこと。
誰にも触れさせず、されど誰でも魅了する客星。僕の五感を焼き焦がす、刹那の世界の主人公。
僕が求めているのは、そういうもので。
だからこそ好きなんだ。龍星も、花火も。
そのことを、どうして君に言えるだろう。
「まあ、分かるよ」
だから僕は結局、曖昧な言い方で濁した。
「といっても、花火って、その瞬間がほとんど全てな気がするけど」
「えぇ~、そんなことないよ。ひゅるるるる、って空に昇るのとか、花火のチリがパラパラ落ちてくとことか、お祭りの後の花火の残り香とか! 私はそういうのも含めて花火が好き!」
「な、なるほどね。それは、そうかもしれない。認める」
なんだかこういう感性とか情緒みたいな話で流宮に一本取られると妙にヘコむ。
「本当に好きなんだね、花火」
「うん! だから、今年の夏祭りも楽しみにしてるんだ~」
「……ふうん」
僕もだ、なんてあやうく言いかけた。でも、そうしたらかえって微妙な空気になりそうで、やめた。
だってそれじゃあ、まるで僕が誘い待ちみたいじゃないか。
違う。僕は別に、夏祭りそのものに行きたいわけじゃない。花火が見たいだけだ。祭り自体は、そんなに好きじゃないんだ。
それに、分かってる。流宮は友人がたくさんいるんだ、きっと夏祭りも他のグループと行くだろう。だからそもそも、誘われるかも、なんて不安に思ってるのが自意識過剰。
分かってる。分かってるさ。
だから僕は僕にそんなこと、いちいち確認しなくていいんだ。