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青の空、赤の客星

 次の日、僕は水泳部を休んだ。


 理由という理由はない。今はあの空間に少しいづらかったから。ただ、急に部活を休んで家に帰るのも家族に心配されそうなので、僕は学校の構内をほっつき歩いていた。

 教室の雑談。吹奏楽部の演奏。演劇部の発声練習。陸上部。野球部。サッカー部。バスケ部。あと、補習。いろんな光景と音が混じって放課後を作っている。

 試験と大会が近づきつつある初夏。周りの人々はみんな輝いている。僕みたいに仏頂面をしてふらふらしている人間は、どこにもいない。

 青春、思春期、挑戦、友情、恋仲。高校生というのは一般にそういうものなんだろう。

 対する僕は、そういうのが何もない。いや正確に言えばないのではなくて、要するに、輝いていないのだ。

 僕は昔からそうだった。無気力で怠惰で、決して不幸ではないけれど、夢や希望があるわけでもない。空っぽの貯金箱みたいに空虚で冷えた自分が、僕は嫌だった。

 変わりたかった。何でもいい、星みたいに、自分の力で光ってみたかった。だから僕は自身の身体を発光させられる龍種に憧れていた。今思えば、現実と比喩を混同した短絡的な思考回路だけど、その憧れは心の奥深くに根付いてしまって、今も離れない。

 だから僕は飛空部に入った。飛べない自分を変えられるだろうかって。でも当然ながら、飛空部に入ったからといって人間が飛べるようになるわけはない。飛べない僕が飛空部に入ったところで青春の日々を送れるはずもなく、ただ空白の中学時代を過ごしただけだった。

 だから黒歴史なんだ。中学生特有の、無謀な全能感と虚栄心の暴走が生んだ悲劇。傷はまだ深く、ふと夜に思い出して眠れなくなる日も珍しくない。できることなら早く忘れてしまいたいと思っている。


 だというのに、僕は――気づけば彼らの飛ぶ空を見上げてしまう。


「はぁ……」

 僕はグラウンドの倉庫の影に座り込み、飛空部の練習風景を覗いていた。ここまで日差しが強い日にずっと空を見上げていると目が悪くなりそうだから、少し視線を外して。

 彼らの姿を見ていても、辛くなるだけなのに。心を彼らに引っ張られて、空に溶けて失くなってしまいそうになるんだ。なのにどうして、僕は部活を休んでまでこんなことをしているのだろう。

 なんだか自分の現状が惨めに思えてきた。妙な意地で飛空部に入って、結局飛べずに諦めて、せめてもの水泳ならと思ったのに、結局それすら満足にできないでいる。そしてこうして部活から逃げて、また空を見上げているのが今の僕だ。

 ひゅっ、と息が詰まる。こめかみの奥から何か冷たいものがこみ上げてくる。

『いいかげん空飛ぶのなんて諦めろよ、お前』

 フラッシュバック。

 だめだ、こんなところで。近くに人はいないとはいえ、グラウンドではいろんな部活が活動している。誰に見られるか分かったものじゃない。

 こんなところで、こんなところで泣いてしまったら、僕はまた変人扱いだ。これじゃ中学の時と同じじゃないか。突飛な行動で周りを遠ざけて、そうして僕はまた独りになる。


「え~は~らっ」

 ところが突如として空が影に覆われ、僕の感情は引っ込んだ。

 逆光がなぞる真っ黒なシルエットが、徐々に輪郭と色を取り戻していく。その正体は、確認するまでもなく流宮だった。

「……何してんの流宮さん。部活は?」

「ん? サボり!」

 質問してから自分の見事なまでの棚上げに気づいたけど、どうやら彼女はあまり気にしていないらしい。もしくは気づいていないだけか。

 流宮は僕の隣に座ると、尻尾を枕にして倉庫の壁にもたれかかり、ふぅと息をついた。何か僕に言うことがある、という様子ではない。

「どうしてここが分かったの?」

「へへ、簡単だよ。ここ、飛空部を見るには絶好のスポットだからね」

「っ!」

 僕はたじろいだ。僕は彼女に、飛空部に憧れてるだなんて一度も言ってない。この世界の誰に言ったとしても、彼女にだけは言うはずがない。どうしてだ。

「江原、この前の部活で飛空部のこと見てたでしょ? なんとなく空を見たら、とかじゃなくて、すっごく熱心に見つめてた。だから飛空が好きなのかなって」

「……気づいてたんだ」

「視線って案外気づくよ~? 特に、気づかれるとか考えてない人の視線は。江原も気をつけなさいネ!」

 なんだその含みのある言い方は――と突っ込もうとしたところで、止めた。彼女のニヤニヤした笑みを見るに、踏み入ると地雷に当たる気がする。自分で思い当たる節もないことはない。主に先日の水泳部あたりで。

「で、どうして部活サボってまで僕を探しに来たの?」

「んー、まー、なんとなく?」

 流宮の返事はハッキリとしない。彼女のことだから、本当にただなんとなくって可能性もあるけど。

「なんとなくなら、悪いけど放っといてくれないかな。僕はもうちょっと空を見ていたい気分なんだよ」

「ま~たスカしちゃって! いいじゃん、私も飛空見たい」

「一人で見たいんだ」

「そう? 大勢で見る空もいいもんだよ。それに空って一人で見てると、すごく寂しくなるっていうか……そのまま空に吸い込まれて、消えちゃいそうにならない?」

「――――」

「ん? どしたの?」

 つい目を見開いて彼女を見つめてしまう。

「いや、別に。意外だなと思って。流宮さんもそういうメランコリックなこと言うんだなぁ、って」

「あ~、なんかバカにされてる? 私だってねー、割と詩とか読むし? 感受性豊かなのでそうろふ」

 流宮はわざとらしく胸を張ってみせた。こんな調子のいい姿から、さっきの言葉が出てくるなんて誰が想像できるだろう。

「でも……龍種の流宮さんも、そう思うんだね。ほんと、意外だ」

「うん。なんで龍種だと思わないって思うの?」

「だって君らには翼があるだろ。僕みたいに、ただ空を見上げるだけじゃ終わらない。自分で空に飛んでいける」

「この雄大な空を前にして、翼があるかないかなんて些細な違いなのだよ~」

 彼女は緩やかに腕と翼を広げた。翼は僕の背中をゆっくりと包んだ。変温の部分だけあって、もう若干冷えていて心地が良い。

 だけど仮にも女性の身体に触れているこの状況は、決して落ち着けるものではない。かといって邪険に払う気にもなれず、僕は黙ってうつむいた。


「ね。意外と分かり合えるんじゃない、私たち」

「ん……まあ、かもね」

 僕は歯切れの悪い返事をした。

 分かり合える、なんて簡単に言ってくれる。分かり合うというのは、そう楽なものじゃない。心は相手のわずかな反応で、すぐにでもシャットアウトしてしまうものだ。

そう、たとえば彼女は僕が元飛空部だと告げたらどんな反応をするだろうか。

「わぁ! 見てよ、あそこのフープスルーリングの鳥種! めちゃめちゃ速い!」

 流宮は既に別のことに興味が移ったらしく、前のめりになって空を見上げていた。そちらを見やると、確かに頭一つ抜けたスピードで輪をくぐっていく鳥種の男が一人いる。鳥種に特有の華奢な身体つきでありながら力強い飛行をしていて、鳥種というより龍種の部門を見ている感じだ。

「ひゃ~、きっと鳥種部門のエースなんだろうね。龍種並みのスピード出てるのに空中機動のレベルも高い。さっきの急旋回なんて、見たっ? まるでレールの上を走るみたいにギュン! って正確無比! かっこいー!」

 流宮は夢中で目を輝かせている。さすがに全国レベルとなると確かな眼識が備わっているようで、僕の曖昧な感想とは違って饒舌に解説をする。

 なんだ、と思う。彼女はまだ平然と飛空が好きでいるんじゃないか。

 だというのに――どうして辞めてしまったんだ。

「やー、やっぱ鳥種の空中機動には敵わないや。機動力があるとフィギュアスケートみたく綺麗に映えるよね。悔しいけど、憧れちゃうなあ」

 そう呟いて、彼女は陶然とも言えるような表情を浮かべた。それを見ると、複雑な感情で胸が軋む。

 彼女に言いたいことはたくさんある。その中のどれか一つを最初に選ぶとしたら、何だろう。

「……僕は、流宮さんが一番綺麗だと思ったよ」

「へっ?」

 流宮がピンと高い声を漏らす。表情も、目を丸くしたまま硬直していて、なんだか予想してた反応と随分違うから、僕は今言った言葉を頭の中で再生してみた。

そして、彼女の誤解に気づいた。

「いやっ! 流宮さんのフープスルーリングが、ね!」

「あっ、あはは、そゆことね!」

 僕がそんな何の脈絡もなく告白じみた台詞を吐くわけないじゃないか。それも、よりにもよって流宮に。

「でも、ほんと」きゅっと彼女の翼が閉じ、心なしか身体が縮んだようになる。「嬉しかった。今の言葉。ありがと、江原」

「な、なんだよ、急に改まって」

 そんな真面目な声で感謝されると、調子が狂う。まるで僕が、本当に告白したみたいじゃないか。

「あれ? でも、なんで? 同じ中学――なわけないよね?」

「……あー」

 今度は、きょとんとした顔になる。表情の忙しい人だ。

 とはいえ、今度は想定内の反応だ。こうなると思ってた。そしてこうなったら次に言うべき言葉も、決めていた。

「僕も、飛空部だったんだよ。それで、全国大会に応援に行って、君の姿を見たんだ」


「ほんとっ? じゃ、二人して元飛空部の水泳部だ! 奇遇だね~!」

「……えぇ?」

 そのあまりにも呆気ない反応に、僕の方が絶句してしまった。

「ほらね、やっぱ私たち気が合うんだよ、うん!」

「ちょちょ、ちょっ、と待って」

「なに?」

 彼女に、僕のことを気遣おうだとか、無理やり話の流れを変えて有耶無耶にしようだとかいう意思は全く見えない。

 そういう空気にはとことん敏感になってしまった僕だから、分かる。彼女は純粋に僕と部活の変遷が同じだったという偶然を喜んでいる。

 安心、すべきなんだろうけど。そんな反応されると逆に落ち着かない。ついいつもの言葉を引き出したくなってしまう。

「……変だって、思わないの?」

「なんで?」

「人間は飛べないじゃないか」


「でも、空を飛びたかったから飛空部に入ったんでしょ?」


「それ、は――」


 そうだ。


 僕は空を飛びたかった。

「飛空部に大事なのって、飛べる飛べないじゃなくて、飛びたいかどうかじゃない?」

 中学に入ったばかりの、部活勧誘の時期。「青い春の下、空を飛びたい者は飛空部へ!」なんていう、いかにもなキャッチコピーに惹かれるまま僕は飛空部に入った。人間でも、翼がなくても、だからこそ空を飛んでみたかった。あの空に光る龍種のように。

 ああ、そうだ。そうだったんだよ。

「ね、ね、何か競技やってたの? 今度ゆっくり聞かせてよ。飛空部トークしよ!」

 流宮は楽しげに話を進めようとする。

 ああ、なんだ、僕はこういう言葉がほしかったんだな。

 勝手に憧れて、勝手に失望して、勝手に救われて。僕は自分で思ってたよりも随分と勝手らしい。それでも、彼女ほどではないけれど。

「……いいよ、分かった」


 だから、もう少し。僕の方から近づいてみたって、いいかもしれない。


「今度、昼休みにでも一緒に話そう。……学食でも食べながらさ」

「えっ!」

 彼女が目を丸くする。

「ダメならいいけど」

「ううん、とっても嬉しい! じゃあ明日! 明日一緒に学食行こうよ!」

「ん、分かった」

「ぃやったぁ! へへ、たまにはサボってみるもんだね」

「いやダメでしょ。……僕が言えたことじゃないけど。明日からは、ちゃんと部活行こう」

「モチのロン!」

 流宮は元気いっぱいに答えると、背筋を後ろにぐいっと伸ばし、そのまま跳ねるように立ち上がった。

「なんか褒められたら久しぶりに飛空やりたくなっちゃった! 行ってくるね!」

「あ、え、うん」

 軽く手足をぶらつかせると、彼女は翼を大きく広げて羽ばたきだした。ものすごい風圧に目を閉じ、次に目を開けたときには、もう彼女は空を飛んでいた。

「おぉ~い、すいません! ちょっとだけ飛び入り参加していいですか~!」

 その声で、にわかに空がざわめきだす。しかし快く承諾してもらえたようで、彼女は学校の屋上にあるフープスルーリングの練習列に並んだ。

 一人、また一人、屋上から飛び立ち輪をくぐり抜けていく。そして、ついに流宮の番。

 ここからでも見える。誕生日の子どもみたいに笑う彼女の顔――瞬間、彼女の身体が空に放たれた。

 弾丸のような初速、数瞬後、彼女の身体が赤色に光る。そこからはもう、彼女が世界の主役だ。

 誰も彼も魅了しながら、美しく空を駆け抜けていく流宮。みんな彼女を見ている。かつて頂の寸前まで登り詰めた、彼女の身のこなしを。真っ赤に燃える客星を。

「……綺麗だな」


 純粋な称賛が、ただ口から漏れるばかりだった。

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