龍星は水飛沫を上げて
祭りの場から十五分ほど歩きさまよった先は学校だった。そのままなんとなくプールの柵を越え、僕はプールサイドにへたりこんだ。
「…………はぁ」
くだらない。僕は何をしているんだろうか。惨めな自分にいじけて逃げ出すなんて、それこそ本当に惨めだ。元同級生にからかわれて、何も言い返せなくて、女の子に守られて。全部全部、情けなくって仕方がない。
「……後で、返しに行かなきゃな」
持ってきてしまった射的の景品を見つめて、もう一度深くため息をついた。
こうはなりなくなかった。なりたくなったから僕は、一人がよかった。他人の強さの全部が泣きそうなくらい妬ましいんだ。真っ暗闇にたった一人なら、こんな思いはしなくていいのに。
遠くの空では、既に何十と花火が上がっている。本当は彼女と一緒に見るはずだった花火。あれだけ待ち望んでいた花火が、こんなにもやるせない。
僕は、ほとほと生きるのに向いていない。ひたすら彼女の光を求めているくせに、彼女の光の後ろにできる自分の影に落ち込む。そのうえ、いざ彼女の光が僕の影を丸ごと包み込んでしまうと、僕は自分を見失って一層苦しんでしまう。僕は何をしても不幸になるようにできている。
結局のところ僕は、遠くの光を寂しく見つめているのが性に合っているらしい。
そんな諦観を抱きながら花火を見やった。
そのとき、花火の端にちらりと黒い影が差したのが見えた。
あれ、と思って凝視する。
――次に気づいたのは、大きく羽ばたく音。
「え~は~ら~!」
流宮だった。
「やっぱりここにいた!」
「やっぱり、って……どうして?」
「ん? なんとなく!」
なんとなくで特定されてしまうなんて冗談じゃない。惨めな自分を見られたくなくて、せっかくここまで歩いてきたのに。
「……はぁ」
ここまで来たら、もう追い帰すわけにもいかないし。
「で、何しにここまで来たの?」
「何って、江原と一緒に花火を見に来たんだよ。ほら、まだ残ってるでしょ?」
流宮は花火の方を指さして、隣に座った。だけど僕は、彼女の指の先は見ずにうつむいた。
情けない。女の子にひたすら気を遣われて。彼女はあらゆる「どうして」を隅に置いて、僕と夏祭りの続きをしようと言うのだ。
でも、どうしても無理だ。今の僕には。
「……僕には、君と一緒に花火を見る資格なんてないよ」
「資格ぅっ?」
流宮は大仰に驚いた。
「花火を見るのに資格なんているわけないじゃん! どうしたの、江原?」
どうしたの、なんて聞かれたって困る。僕は今までずっとそうだったんだ。それだけだ。
言いたいこともままならないまま、僕はぽつぽつと言葉を垂れ流した。
「僕はさ……これでも頑張ってみたんだよ。せっかく君が手を伸ばしてくれているって言ってたから」
いつの間にか握りしめていて、少し汗ばんだ空っぽの両手を開く。
「でも駄目だった。僕はあまりに惨めすぎた。届かなかったんだ」
流宮は「うー」と呻きながら切ない顔をした。身振り手振りを交えながら、僕の言葉に答えようとしてくれている。
「でも……でも江原は、確かに私の手を取ってくれたよ。私はそう思ってる。だから夏祭りに誘ってくれたんでしょ?」
「その結果があれだよ。僕は君に守ってもらってばかりだ。僕は君のために何一つできやしないのに。分かってる、分かって、たのに、だから僕は、君を夏祭りに誘うのだって、迷って」
「ううん」
言葉の途中で、流宮は首を振った。
「江原は、分かってなんかないよ」
「何が、分かってないんだよ。君に何が分かってるんだ」
僕は八つ当たりみたいに彼女を問い詰めた。嫌な奴だ。
嫌な奴。情けない奴。どうしようもない奴。
だから僕は、君と一緒にいる資格なんか。
「私は、江原からたくさん受け取ったよ」
ところが、それでも流宮は嫌な顔ひとつしない。
「江原は私と一緒にお昼食べてくれた。私に勉強を教えてくれた。私の水嫌いも、治してくれた。一緒に夏祭りに行ってくれたし。それに、金槌組だって言われて、一緒に恥かいてくれた。それに、それに」
取るに足らない、僕じゃなくたって誰でもできるようなことを、彼女は随分と大事そうに語る。
「――何より、江原は私の光を見てくれた。素敵だって、綺麗だって言ってくれた。ねえ、それだけで十分すぎるって私は思うよ。だから、」
一際明るい光が辺りを照らし、
遅れて、ドンッと音が鳴った。
二人で音の鳴った方に向き直っても、当然もう既に遅く、そこにはただはらはらと落ちていく光の塵があるだけだった。
多分あれが、最後の。
「……でも、今ので花火は終わったみたいだ」
「そうみたいだね」
「ごめん。君は花火が好きだと言ったのに。僕のせいで、最後の花火を満足に見ることすらできなかった」
「いいよ。いいんだよ、そんなこと」
流宮はやや語気を強くして言った。
「花火を見れなくたって、私、楽しかったよ。浴衣着て、君と一緒に露店を回って、君と並んで龍星を見て、りんご飴も食べたしね」
「でも、それは、きっと僕じゃない誰かとの方が」
「君といたから」
彼女の声は、さらに大きく凛となる。
「君が隣にいてくれたから楽しかったの」
そんなの、信じられない。信じられる要素がない。
だって、僕は。
「僕は、人間なのに」
「関係ない! そんなの何にも全く関係ないんだよ。角がなくても蹄がなくてもヒレがなくても、翼がなくたって! 江原は、江原のままでいいんだよ」
「そんな言葉、聞き飽きたんだ。結局僕は飛べやしないんだろう。僕は君の親には認められやしないんだろ」
「……江原、それ、ずっと気にしてたの?」
言われて、余計なことを言ってしまったことに気づく。
違う。気にしてなんかいない。僕は流宮のこと、最初からそんなふうには見てなかった。ただの友人。それだけで、それ以上なんて望んでなくて。
……本当にそうだったかな。
僕の本心は、どうだったのだろう。自分の気持ちを散らかしたまま放っておくことに慣れてしまって、最初から僕の気持ちはこんな定位置なんだってことにして、どれが嘘でどれが口実でどれが本音か、ふと立ち止まってみると何も区別がつかない。
僕はどうしたかったんだろう。
分からない。僕には何も分からない。
「江原。そのことが君を縛りつけているっていうんなら、簡単だよ」
彼女は優しく、けれど力強く、僕の手を取った。
「私と一緒に空を飛んでさ、駆け落ちしちゃおう」
「か!?」
こんな気分の僕でも、さすがに仰け反るくらい驚いた。
「ばっ、馬鹿な気休め言うなよ!」
「本当だよ。君が手を離さない限り、私、どこまでも連れてっちゃうから」
「っどうしてなんだよ!」
僕は彼女の手を振り払って言った。
「君がどうして僕にそこまでしてくれるのか、全く理解できない!」
「私は分かってるよ、ちゃんと」
流宮は、振り払われた手の位置はそのままに僕を見つめる。
「江原。君は私を照らしてくれた、私にとって、誰より綺麗な星だから」
嘘だ。
夢も希望もない僕が、ただの人間の僕が、どうして輝ける?
「僕は……星なんて」
「星だよ。人はみんな、星なんだ」
流宮は不敵に笑って、すくっと立ち上がった。
「資格がない、なんて言葉で私たちの夏祭りを終わらせたりしないから。あんなハプニングは全部塗りつぶしちゃって、私たちは『楽しかったね』って笑いながら帰るの。それで来年は、また一緒に夏祭りに行くんだ」
「……どうするつもり?」
繋がっていた手の熱を感じながら、彼女を見上げる。
「花火を見る資格がないって言うならさ、代わりに私の龍星を見せてあげる。花火に比べればすごくすごく小さな光かもしれないけど、その代わり、世界で一番近くから見てて。私は今、君の隣にいる私は今、花火に負けないくらい! こんっなに燃え滾ってるんだってことを証明してみせるから!」
――その瞳。
心を薪材にして燃やしたような赤橙色の瞳が、僕の心を照らすんだ。
それでも。
それでもまだ、どこか心の冷えたところが、横槍を入れたがる。
「そ、んなの……どうやって? 発光するにはかなりのスピードが必要でしょ、近くったって、上空じゃないと危ないよ」
「ちょうどここにはプールがあるしさ。君の間近を通り過ぎて、プールに飛び込んじゃえばいい!」
「危なくないかな」
「大丈夫。私の得意種目はフープスルーリングだよ? 空中機動には自信がある!」
「でも、こんなことのために危険を冒す必要は」
「いーや! 私にとっては、何より大切なことなんだよ!」
流宮の瞳はどこまでも真っ直ぐに僕を射抜いて離さない。逃げ場も隠れる場所もない。
「お願い、江原! 信じて!」
とうとうその光は、僕の心を遍く照らす。
「……分かった、分かったよ。信じる」
「へへ。ありがとう」
流宮は僕に笑いかけると、その場で大きく数回羽ばたき、
「行ってくるね」
一気に上空へ飛び立った。
翼に裂かれた静寂が、すぐにまた閉じる。僕は真空の世界にいるような心地で、呆然と彼女を見つめた。
流宮はそのままぐんぐんと速度を上げながら、空に昇っていく。彼女はあっという間にただの黒い点になり、その点は見る見る間に縮んでいき、僕は彼女を見失った。
その数秒後。
彼女は赤色の光を放つ星になって、再び僕の目に映った。
えはらーっ 見てるーっ
小さな叫び声が聞こえる。
「……見てるよ」
その呟きはきっと聞こえなかっただろうけど、星は徐々に高度を下げ、こちらに近づいてきた。
星が、空を――
校舎の上を――
木々の上を――
――ついには、僕の目の前を駆ける。
一閃、瞬間、ビュワオッと僕の髪と服が突風に叩きつけられる。
そして一瞬、ものすごい光と熱が僕を焦がした。
だから一瞬、怯んで目を閉じた。
だけど一瞬、僕は目をこじ開けた。
見るんだ、彼女を。
あの龍星を。
――パァァァァンッ‼
空を針で刺して割ったような音と共に、流宮はプールに着弾した。
龍星は水飛沫を上げて、水飛沫は赤色に煌めきながら、僕の頬に跳ねる。
うねって弾けた水飛沫は、切なく愛しい赤を抱え、花火のように空に咲く。
目が眩むほど輝く生命の光が、その光景をつぶさに見せた。
星がプールに消え、一転して暗くなると、今度はプールの雨が降り注ぎ、辺りを塩素の匂いで満たした。むせ返るくらいツンと鼻につく。でもそんなの気にならないくらい、僕はあの数瞬に五感を射抜かれていた。
あのときと似た感覚。でもあのときと違う感情。
鮮明な色、鮮烈な音が呼び覚ましたのは、少なくとも決して憧憬ではない。もっと熱をもった激情が、僕の中に滾っていた。点いたばかりの線香花火みたいに、心が震えている。感情がどんどん溢れる。
叫び出したい。泣き出したい。駆け出したい。今にも心が弾けてしまう。
彼女の内面を知るだけで、これほどまでに印象が変わるものか。あれほどまでに美しく見えるものか。
これからもっと一緒に、二人並んで歩けたら、次に見る龍星は、どんな光を放つだろうか。
「……あれ?」
そして目の前の光景に圧倒され、呆けて十数秒後。
「流宮?」
――僕はようやく、彼女の姿が一向に見えないことに意識が向いた。
「あっ!」
僕の放心が、プールに浮かぶ水あぶくと共に弾ける。
「流宮!」
そうだ。流宮はまだ満足に泳げない。
しかもあのプールは巨躯種用だ、まだようやく水に慣れたばかりの彼女じゃ到底――
「流宮、返事して!」
僕は巨躯種用のプールに駆け寄った。水の色が暗いのは、夜だからってだけじゃない。全てを飲み込んでしまいそうな五メートルプール。あんな中に飛び込んだら、僕だって。
だけど、その真ん中に、彼女はいる。
「流宮っ、嶺央奈っ‼」
僕は叫んだ。叫んで、飛び込んだ。
ゴーグルもない中、水中で目をこじ開ける。眼球に塩素が染みて気持ち悪い。けど目を閉じる隙なんてコンマ一秒もない。
――いた。
プールの真ん中に、溶けて薄まったみたいな赤色が、スローモーションのようにゆらゆらともがいている。水を飲んでパニックを起こしているのかもしれない。
遠い。たった数メートルが、生と死の間と同じ距離だ。
それでも、行かなきゃ。行かなきゃだめだ。
ここで行かなきゃ、僕は死んだも同然だ。
僕は一度水面に顔を出すと、コースロープに掴まりながら甚平の上を脱ぎ、そのままコースロープに紐をきつく巻きつける。反対側の紐を自分の手首に。これが命綱変わりだ。
水中に全身を浸け、そのまま息を吐いて、潜るというより沈んだ。肺の空気全部出し切る勢いでボコボコと息を吐き、彼女が沈むより早く、沈んでいく。
もがく。あがく。手を伸ばす。
尻尾を伸ばせ、流宮。千恵先生に教えてもらったろ、ケノビの要領だ。身体の真ん中に棒を一本刺したみたいに身体を伸ばすんだよ。この前、上手にできてたじゃないか。できるよ。流宮ならできる。
あとちょっとなんだ。あとちょっとで、君に届くんだよ。
もういっそのこと、溶けてしまったっていい。焼き尽くされてしまったっていい。どうせ何も持っていないのなら、せめて伸ばされた君の手くらいは掴みたい。
だから、嶺央奈、どうか。
――掴んでっ‼
残り少ない空気を絞り切って叫ぶ。
次の瞬間、僕の右手にわずか、彼女の尻尾が触れた。偶然だったのかもしれないけど――そんなことはどうでもいい。
僕は羽織を伝って自分と共に流宮を引っ張り上げ、コースロープに尻尾を伝わせた。そのまま井戸の滑車の要領で彼女の顔を外に出す。
「ぶへっ! ぇほっ! ぅおえっ!」
流宮は低い声でえずきながら水を吐いた。
水とあらゆる体液で酷い顔をしているけど、ちゃんと意識はある。
「し、死んだかと思っちゃったよ……へへ」
水とあらゆる体液で酷い顔のまま、流宮は笑った。まだ光を残した鱗が水に反射して、彼女の身体全体をぼんやりと照らし、心なしか彼女が儚げに見えた。
「バカッ……! 自分で溺れに行くやつがあるかっ」
僕はロープに寄りかかる流宮を思わず抱きしめ、背中の鱗を叩いた。当然、痛いのは僕の拳の方だ。
「あー、江原、あったかいねぇ……」
彼女は僕の攻撃なんて意にも介さず、そんなぼやけたことを言う。それどころか、緩やかに抱きしめ返してきた。
肌着だけの僕と、濡れた浴衣の流宮とが抱き合う。
普通ならこんな状況、ドギマギしてしまって何も喋れなくなってしまっただろう。
けれど、抱き合ったとき、彼女の心音が伝わってきて、いろんな想いより先に安らかな愛しさが溢れたのだった。
「本当に、よかった。流宮が死んじゃったら、僕は」
「ああ、本当に、よかったぁ」
流宮は僕の首元に顔を預ける。
「君に間近で、龍星を見てもらったり、危うく命を、助けてもらったり。きっとさ、こんなに、ダイナミックな青春を味わえたの、この夏、この町、私たちくらいだよ」
「……あのねえ」
がくっとくる。能天気にもほどがあるだろ、さっきまで本当の本当に危なかったのに。
「というか、なんで助けた僕よりも余裕あるんだよ」
「龍種は、肺活量がすごいのだよ。でもどっちみち、江原が来てくれなきゃ、死んでたね……へへへ、ありがと」
「軽いんだよ、バカ」
溺れたのだって元を辿れば、僕が原因なのに。
君はいつもそうやって僕を肯定する。
「そんなことないって。ほんと、江原は命の恩人……ヒーローだよ。かっこ、よかった」
「もう、本当に、君はっ――」
叫ぼうとしたら、急に眩暈が僕を襲った。
どうも酸欠だったらしい。息が、うまく吸えない。
「江原っ? だ、大丈夫?」
「大丈夫、だよ……ちょっとした、酸欠」
あ、でも、ダメだ。
意識は、もう保てない――残念だな、ちょっと、かっこつかないけど――僕にしては、上々だ。
「次は、さ……」
「江原っ、無理して喋らない方が!」
「――――」
次はもっと頑丈な翼を作るから。
だから、いつかまた君の手をとってもいいかな。
ブラックアウトしていく視界の中、鈍く光る赤色が、最後まで僕の意識に映っていた。




