第0話
「……本当にトヤーを行かせるの」
隣のゲルに入ろうとしたとき、少女は思わず足を止めた。弟のナランの声で、自分の名前が呼ばれたからだ。尖った長靴を眺める。弟のその言葉の意味に、昨日で止めたはずの涙がまた出そうになる。
「……そうよ、ナラン。家族の為よ」
「でもオレ、あの家にトヤーを渡すなんてそんなの、なんか……道具みたいで、嫌だ」
「ナラン。口を慎みなさい」
窘める母親のその言葉より、震える弟の声のほうがよほど暖かく聞こえてしまった。目が潤んでいるのを感じながらも、ここで泣いてはいけないと強く思った。用事は後回しにして、一旦別の場所へ行こうと決める。このまま何も無かったふりをしてその二人の目に出られるほど、彼女は大人ではなかった。
*
羊がまばらに立っている草原に、一人の少女がゲルの影に屈んでいた。両足を抱えて、日差しを避けるように座りながら、目の前の短い草をぼうっと眺めている。太陽は東寄りにいて、ゲルの西側に影が落ちていた。
昨晩、父親から聞かされた話。トヤーは自分の身は家族の為に捧げることには何の疑問も不安も無かった。そのはずだった。それなのに、その話を聞き終わって一人になると、泣かずにはいられなかった。
「……結婚なんて、当たり前よね……」
ぼそりと呟いた。そう、当たり前―――のはずだ。ただ、相手が想像していなかった人というだけ。たったそれだけのことなのに、それを容易く受け入れられそうにはない。
母とナランの話を聞いてしまい出た涙ももう止まっていたが、動く気にはなれなかった。トヤーは、ゲルの影で一人座り込んだまま。
「―――トヤー?……何してんの、こんなとこで」
そんな姉を、弟はさも当然のように上から声を掛ける。簡単に見つかってしまった。
「……ナランにはわかっちゃうのね」
「だって、中にいる気配しないし。……そういうときは、大体ここにいる」
ほら、と差し伸ばされた右手。ナランの低い位置で縛られた毛先が太陽を反射していて、トヤーはいつものように手を握ることを躊躇ってしまう。ただ、視線だけを返した。弟の、トヤーと似ているとよく言われる目元と眉が、困ったように下がっていた。……というのも一瞬のことで。
「ナラン、あたし……」
言葉が続かないトヤーの腕を、次に瞬間、ナランはぐいっと引いた。予想していなかったその力に、トヤーは立つしかなかった。驚いて目を瞬かせて、同じくらいの背丈に並んだナランを見る。弟は年相応の悪戯っぽい笑みを浮かべた。え、とトヤーが口にするより早く、ナランの言葉が紡がれた。
「出かけるよ。街で面白いものが観られるんだって。トヤー、きっと気に入るはず」
「面白い……もの?」
街は、ここから馬でしばらく駆けたところで、ここ最近ゲルを建てているこの位置からは決して遠くはなかった。何度も二人でおつかいなどで行ったことはある、が。
「そ。今から」
「え!?」
「ほーら、はやくはやく。日、暮れちゃうって」
「まだ午前中だから暮れることはないわよ……って、ナラン!ちょっと引っ張らないで!」
トヤーは慌ててナランの後ろを自らの意志で歩いた。ナランはトヤーに言わせるとだいぶマイペースだ。いつも、とても優しいというわけでも、甘えたがりというわけでもなく、単に自分という尺を崩さず、口数も多くない。そんな彼が、今日はなんだかいつもと少し違う。
(……ナランに気遣われるなんてね)
トヤーは前を見てゲルの影から出ていく弟の背中から視線を落とした。姉弟は他にもいて、トヤーは自分が姉っぽい性格をしているわけではないことを自覚していた。それでもやはりトヤーはナランの姉であるという自負はあったし、マイペースな彼と周りを上手に気遣って見せるのは彼女の役目だった。……しかし今日は、それがどうやら違うらしい。
「オレ、荷物取って来る。トヤーは馬を」
「うん」
その指示なんてのも、やっぱり普段とは逆のことで。でも、とトヤーは別のゲルに駆けていくナランを見て思った。
(とてもじゃないけど、いつものようにはできない……かな)
ナランには聞こえないくらいに小さく、トヤーは堪えきれず溜息を洩らした。