よくある仕事に溺れた人間の話
妻とあまり話をしなくなったのはいつからだろうか。
元々二人ともあまり喋るタイプの人間ではないのだが、それでもまだ付き合い始めた当初は、他愛のない話をして笑いあっていたような気がする。
妻の彩美とは、同じ大学の学生の時に付き合い始め、卒業と同時に籍を入れた。
それから二年後に息子の翔馬が産まれると、彩美は子育てに追われるようになる。
そして丁度その頃に、俺は仕事で大きなプロジェクトのチームに選ばれて、そこから出世コースに乗る。
順風満帆に思えた。
たが、仕事が忙しくなると、残業は増え、休みの日も出張や接待で家を空ける事が多くなる。
それでも、当時は子どもの為にと思って頑張っていたはずだった。
だがいつの間にか、俺は仕事の為に仕事をするようになっていて、気が付いたら仕事こそが自分の生き甲斐になっていた。
家族と過ごす時間が減り、会話も減る。
今では、食事の準備が出来た時と朝家を出る時に一言二言交わす程度。
唯一ちゃんと会話をするのは、子どもの話をする時くらいだが、それですら、正直俺は少し煩わしく思っている。
だが、変にヒステリックでも起こされたら面倒なので、一応翔馬のことに関してはちゃんと考えているフリだけはしている。
まぁ、そんな事は既に見透かされているのかもしれないが。
翔馬は今年小学生になったが、父親がそんな感じなので当然なつかない。
そもそも、翔馬が朝起きてくる前に家を出て、寝付いた後に帰ってくるので、普段話す機会もない。
たまに、休みの日に珍しく俺が家にいる時も、俺の顔を見てはグッと口をへの字につぐんで、何処かへ消えてしまう。
去年、たまたま自分のオフと翔馬の誕生日が重なったので玩具屋に連れて行ったが、別段喜んでいた様子はなかった。
俺からすれば、後にも先にも唯一の家族サービスと呼べるものだったのだが。
別になついてほしいとは思わないが、翔馬がいるからこそ、俺と彩美は細い糸で繋ぎ止められていて、なんとかこの家族は家族として保たれているのだと思う。
しかしその細い糸は、ある日突然切れてしまった。
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その日、仕事中に突然警察から呼び出しがかかり、昼間に家に戻された。
翔馬が交通事故で死んだのだった。
彩美がいつもよりきつく叱った為に家を飛び出して、その後直ぐに大型トラックに轢かれ即死した。
俺は警官に促されて彩美の元へ行く。
彩美は放心状態で
「私のせいで…、小学生になったから、大丈夫だと、勝手に思い込んで…、追いかけもせずに…、私のせいで…。」
と、ブツブツ言っている。
俺は、何と声を掛けたら言いのかわからず。
だが、余計な言葉をかけて変に刺激すると、かえって面倒になりそうなのでそっとしておくことにする。
あぁ、こんなときなのに「面倒になりそうなので」などと俺は思ってしまっている。
もちろん息子が死んで悲しくないわけはない。喪失感は感じている。
だがなにより先に、進行中の仕事のプロジェクトの今後を心配している自分がいた。
仕事を一時休まなければならないのか、チームを外れる事になるのではないか、だとしたら引き継ぎをしなければならないが、一体誰に引き継ぐのが一番良いか、上司はどう判断するのだろうか。
そんな事で頭が一杯になっていた。
しかし周りからは、こんな時でも冷静でしっかりしている、などと思われているのだった。
一ヶ月経っても、彩美の様子は相変わらずで、食事もろくにせず、日に日にやつれている。
そんな姿をみかねてか、ある日義父が彩美を実家に連れて帰ると言ってきた。
養生の為だろうが、俺の仕事の邪魔になるのも悪いと思ったらしい。
義父は去り際に
「娘のせいで、すまないね。」
と頭を下げてきた。
「そんな、こちらこそ、自分が至らないばっかりに。」
俺は本音と建前半分半分の返事をした。
「君はすごいな、こんな時にでもしっかりしていて…。仕事では大事なプロジェクトが進行しているのだろ、娘の事は気にせず、しっかりやるといい。」
義父は本当に人間が出来ていると思った。
因みに俺の両親はというと、俺よりもはるかに悲しんで憔悴していて、夫婦で営んでいる文房具店をずっと閉めているらしい。
まぁうちからしたら初孫だったので、よほどショックだったのだろう。
こうして、この前まで3人で過ごしていた家は、俺独りになった。
それでも別段寂しさを感じないのは、俺と家族の絆なんて、そもそもその程度のものだったのだろう。
――――――――――――――――――――
独りの生活になって3ヶ月が過ぎた。
仕事が少し落ち着いてきた頃に、義父から連絡が入った。
彩美に元気が戻ってきたので来てやってほしいそうだ。
俺は、上司に半ば強制的に休みを取らされて、車で片道一時間半の彩美の実家へとむかった。
彩美の古里は、人が少ないかわりに自然が多く静かで、心の養生にはもってこいの場所だ。
到着してベルを鳴らし中へ入ると、義父に案内され台所へと連れてこられた。
だが、家の中に彩美の姿はない。
「あの、彩美はどこに?」
「そこだよ、君の後ろ。」
どこかよそよそしい義父の言葉に違和感を感じながらも、指を指された後ろへと振り返る。
しかしそこには誰もおらず、厠へと続くただ薄暗い廊下があるだけだ。
どういう事かと不思議に思っていたら、突然背中に強烈な痛みを感じた。
「彩美はな、病院だよ。いま入院している。」
痛みと同時に、義父の震えた声が聞こえてきた。
「自殺を図ったんだよ、息子を無くし、夫にも見捨てられて。」
自殺?でも元気になったって…
「たまたま飛び降りた先に駐輪場の屋根があって、それがクッション代わりになってなんとか一命はとりとめた。だが頭を強く打ったせいで、意識はもう戻らないそうだ。」
ドスッ!
再び走る激痛を感じて、ようやくを背中を刃物で刺されていた事を理解した。
「娘が苦しんでいる時にお前は会いに来ず、連絡すら入れず、元気になったらぬけぬけと迎えにくるのか。まぁ予想通りだったがな。」
ドスッ!
違う、今日来れたのは仕事が落ち着いてきたからで、それで上司に言われて…
いや、どちらにしても同じことだ。その時点で既に間違っている…。
「お前が仕事で忙しくしていると聞いて、前から娘を心配していたんだ。何度も電話やメールを、直接会いにも行ったよ、上手くやっていけてるのかって。お前は知らんだろうがな。」
そうか、彩美は俺に対する愚痴を義父に普段から漏らしていたのか…。
「あいつは言ってたよ。お前は良い旦那だってな。」
え…?
「家族の為に、朝早くから夜遅くまで働いてくれている。疲れているはずなのに、それでも翔馬の事は真剣に話をしてくれる、有り難い、って。
だから、普段は少しでも休めるように、自分からあまり話し掛けないようにしてるって、翔馬にもそう言い聞かせてるって、そう言ってよ。」
嘘だろ、だとしたら俺は最低じゃないか。
「翔馬も、パパのこと大好きだって言ってた。自分の誕生日に玩具屋に連れて行ってもらった事を、いつも嬉しそうに話してくれてたよ。
本当はもっと沢山喋りたいけど、パパはいつも疲れてるから我慢してるって。」
ドスッ!
あぁ、最低だ俺は、間違いなく。家族の気遣いにも、喜びにも気付きもせず、全部、勝手に思い込んで…
「だがな、彩美を引き取ってからしばらくして、女房が言った何気ない一言で、あいつの中でぼんやりと感じていた全ての物が繋がったらしい。そして気づいた、自分はお前に見放された、いやだいぶ前から翔馬共々もう愛されてもいなかったってな。」
ドスッ!
「そして飛び降りて植物状態だ。そんな娘を見て、今度は女房までおかしくなっちまったよ。
全部、全部お前のせいだ!」
畳み掛けるように放たれる義父の言葉と刃物。
俺はいつの間にか床に横たわっていた。
痛みと後悔で目から大量の涙が流れている。
それでも容赦なく義父は背中を刺し続ける。
俺は薄れ行く意識の中、ようやく理解した。
義父が彩美を引き取りに来た時のあの言葉
「娘のせいで、すまないね。」
あれは俺以上に上部だけの言葉だったのだろう。
「君はすごいな、こんな時にでもしっかりしていて…。」
あれは皮肉だったのだろう。
彩美を引き取ったのは、娘を守る一心だけ。
周りからはしっかりしているように見られている?
そんなのは俺の思い上がりだった。
気付いている人は気付いていたのだ、義父のように。
彩美と翔馬は俺の事を信じていたのに。
遅すぎた、あまりにも遅すぎた…。
今更気が付いたところで、もう…。
…。
「主よ、あまりにも甘いのではないですか?」
「左様です、言っちゃあなんですがね主よ、このような事案、人の世では日常茶飯事です。こんな些細な事にいちいち首を突っ込んでいてはきりがありませぬ。」
「しかしだなぁ、偶然とはいえ目の前で見てしまったのだ。見て見ぬふりなぞできん。それにな、こういう些細な事を修正してこそ、少しずつでも人の世は良くなっていくのだ。」
「いやぁ、にしても甘すぎると思いますがね、わたしは。まぁ主が決められたのなら反対はしませぬが。しかし運の良い人間もいたもんだ。」
言い争っているような声が聞こえる。
耳からではなく、直接脳に響いてくるような…。
「おい、聞こえているな。今度はちゃんと見てやる事だ。目を凝らさずとも、ソレは当然のようにあちこちに落ちておる。」
これは俺に向けて放たれた言葉なのだろうか?
誰が誰に向けて話しているのかわからない。なんせ真っ暗で何も見えず…。
「パパー!」
突然聞こえた翔馬の一声で光が戻ってきた。
…眩しい。
眩しく感じたのは、俺がソファーの上で上半身だけ仰向けにして横たわっていた為に、リビングの照明と顔を合わせていたからだった。
「翔馬、ダメだよ、パパは疲れて帰ってきてるんだから。いつも言ってるでしょ?」
「はーい…。」
確かに耳を通して入ってくる聞き覚えのある声が、ここが現実であることを伝えていた。
あれは…夢?
いや、夢にしては生々しく、鮮明だったが。
「いっっ!」
夢?の中で義父に刺された背中が痛む。
実際には、無理な体勢で寝ていた事からくる痛みなのだが。
それにしても異常に痛い。
その痛みの余韻と共に、俺は義父の言葉と、暗闇で頭に直接響いていた声が甦っていた。
ふと、俺は周りを見る。
台所では、彩美が冷めた夕食を温め直している。
そういえば彩美はいつも同じネックレスをしている。
あれは、付き合い始めた当初、俺が初めてあげたプレゼント。
雑貨屋で買った安物のネックレス。
付けている姿は、毎日目に入っていたはずなのに、関係は冷めていると勝手に思い込み、見えていなかった。
本当に冷めていたら、それを寝るとき以外いつも身に付けたりはしないだろうに。
今度は翔馬に目を向ける。
俺の足下でオモチャをいじって遊んでいる。
学校が休みの前の日に、たまに遅くまで起きている時、翔馬はよく俺の足下で遊んでいる。
本当に俺になついていないのなら、わざわざ足下まで来て遊んだりしないだろう。
あのオモチャだって、ボロボロになって所々変色しているにもかかわらず、他にも大人達から買ってもらったオモチャやゲームもあるのに、ずっとそれで遊んでいる。
多分それは、翔馬の誕生日に二人で行った玩具屋で、一緒に選んで買った物だからだ。
あっ、と翔馬が目を覚ました俺に気付き立ち上がる。
だが、俺の虚ろな表情を見てか、グッと口をつぐんでまたオモチャで遊びはじめた。
いつも見せていた翔馬のこの表情、これも不貞腐れていたわけではない。彩美の言い付けに従い、疲れた俺に対して気を使っていたのだ、喋りかけたい気持ちを我慢して。
「あ、起きた?丁度よかった、ご飯の支度出来たから。」
そう言って食卓へ促す彩美。
その時の俺に向けられた笑顔は、付き合い始めた十年前となんら変わっていない。
落ちていた。名前は分からない。でも確かにソレはあちこちに落ちていた。
忙しさにかまけて見ていなかっただけだった。
いつの間にか、役目を終えたかのように背中の痛みと夢の記憶は消えていた。
変わりに
「ごめんね、支度遅くなっちゃって…。」
と、少し申し訳なさそうで、そして寂しそうな彩美の声を聞いて、今朝の事を思い出した。
今朝、彩美の問いかけに対して「今日は定刻で帰れる。」と答え、そそくさと靴を履き家を出る自分。
少し嬉しそうにしていた彩美の顔を、見て見ぬふりをして玄関を閉めた自分。
三人で夕食が出来る、たったそれだけの事すら嬉しいと思わせてしまっている。
気付いているはずだった。
それなのに、結局今日俺は残業をしてきた。
帰ろうと思えば、本当は直ぐに帰れたにもかかわらず。
「遅くなったのは、俺の方なのに…。」
思わず泣きそうな声でつぶやいていた。
「え、何?大丈夫?」
俺の今まで見せたことのない表情と声色に、心配そうに声を掛けてくる彩美。
俺は
「いや、」
なんでもない、と続けようとして、言葉を改めた。
「今度の休み、三人でどこか行こうか。」
一瞬驚いた後、嬉しそうな表情を見せる彩美と翔馬。
その表情を見てつられるように、俺も久しぶりに笑顔になっていた。
おわり




