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クロと桜  作者: けいりゅう
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第七章

 清涼殿でのお茶会の催しは、はからずも新月の日に行われることになった。縁起のいい日を占い、各地から珍しい茶を集め、招待の文も方違えをしながら数日をかけて運ばれるのが普通であったこの時代に、クロが提案して半月も経たずに開催される運びとなったのは、やはり桐の女御の具合が本当にせっぱつまったものだったからだろう。

 クロ達は、今朝は朝堂院ではなく清涼殿へと俥を向けた。立派で広大な御殿が、桜を拒むように存在感を持って建っている。

「・・・」

 何度見ても清涼殿は好きになれなかった。ここに閉じ込められた女性達の怨念が祓っても祓っても立ち上っているようだ。桜は御殿を見上げながら思わず小さなため息をつき、クロに笑われた。

「そんなに嫌なら何故引き受けたのじゃ」

「黒の宮様が・・・お困りでしたから」

「まあ心配するな。わしがついておる」

 桜は何も言わずこっくりとうなずいた。確かに人あしらいのうまいクロなら、この中に入っても優雅な身のこなしで無事に出て来られるだろう。

「さて、出陣じゃ。今日は長くなるぞ」

「はい」

 お茶会に出た後は、そのまま帝の私室に行く予定だった。呪いの術式が行われるのは今夜だろうと予想がついていたからだ。

 桜は気を引き締め、清涼殿の中に足を踏み入れた。

 待ち構えていた女房にいそいそと案内されたのは、大きな広間だった。

 三方は御簾で囲まれており、一段高くなっていて中には貴族の女性陣がひしめいているのがわかる。

 外側にはそれぞれの女房たちが座っており、自分たちの主人を尻目にクロを食い入るように見つめていた。

 クロがちらりとそちらに目をやるだけで、あれ、という小さな悲鳴と、衣擦れが聞こえる。御簾の中でも外でもいちいち気絶しては傍付きの女房が正気づかせているようだった。

 それぞれに精一杯の趣向を凝らした十二単の色鮮やかな裾が御簾の下から見えている。自分の取っておきの香を焚きしめてあるので、嗅覚の鋭いクロを、広間に入る前からうんざりとさせた。

「臭い・・・たまらぬの」

 思わず呟いたが、何か用かと勢い込んで振り向いた女房には蕩けるような笑みを浮かべる。

「さて、私はどちらに座ればよろしいのかな?」

 女房は気絶しそうな顔になりながら案内する。

 結局広い広間のど真ん中に座らされ、わしは見世物かと内心苦笑した。桜は少し下がったところに控える。クロへは熱い視線、次に向けられる桜には冷たい視線。わかっていたことではあったが、その量が凄い。いっそ痛いほどの注視の中、桜は顔色も変えず静かに微笑みさえ浮かべて座った。

 清涼殿ということもあり、今回は男であるマシロは遠慮して清涼殿の入口近くの控えで待っている。桜はしみじみマシロを羨ましく思った。

 一方でクロは内心ほくそ笑んでいた。クロには女たちの羨望のため息が聞こえていた。桜の一挙手一投足まで見定め、自分と比較し敗北のため息をつく。

 実際クロの目から見えるのは少し位の落ちる女房だけで、本当に高貴な女御や更衣は御簾の中だ。それでもこのため息を聞けば、この広間の中でも桜は一番美しいことがわかる。それが自分の女房であることに深い満足を覚えた。

 正面の御簾の中には、本日の主催者である桐の女御が座っているはずだった。クロはそちらに向けてにこりと笑い、しずかに頭を下げる。

「本日はかくも盛大な茶会へのお招き、まことにありがたく存じまする」

 前に座っていた女房が口を開いた。

「黒の宮様におかれましては、ようこそおいでいただきました。茶は人を癒す効果もあるとか。お忙しい御身、少しでもそのお疲れが取れれば重畳でございますると、桐の女御よりのお言葉でございます」

「おお、私を気遣ってくださるその優しさ、黒は深く心を打たれました。ひと時ではございますが、どうぞ皆で楽しみましょう」

 にこりと笑うと、また、あれ、という悲鳴がたくさん聞こえた。

 クロは、まったく面倒くさいことじゃのという内心の毒づきはおくびにも出さず静かに微笑んでいた。 

 

 クロの前には次々に茶が運ばれてきた。どれも一口で飲めるほどの小さな猪口に入ったものだったが、それぞれの女御や更衣たちが趣向を凝らして用意したものであったため、いちいち感想を述べなければならない。

 正直、クロの鼻は混じり合ったきつい香の匂いでほぼ麻痺状態ではあったが、それでもなんとかコメントをひねり出す。

「これはまた、奇麗な色をしておりますな。まるで夕暮れの陽のひかりのようじゃ」

「おお、この器の美しいこと。これはどこからご用意なされたのかな・・・ほう、あの翁の作でしたか。もう今は亡き方の名作ですな」

 桜は感心しきりだった。人間の桜でさえ匂いにまぎれて茶の味など全く違いがわからない中で、クロの奮闘ぶりは目を見張るものがあったからだ。しかも嘘はまったくついていない。巧みに味や匂いの話は避けながら褒めると、この日のために奔走した女官たちは頬を染め、身をくねらせて喜んだ。

 桜は大人しく出された茶を飲み、にこにこと笑ってクロの背中を見ていたが、しばらくして床にうごめくものを視界の隅に捕え、思わず叫んでしまうところだった。

 それは人の手の平ほどもある芋虫だった。茶色のいやらしい体をくねらせ、板の間を移動している。

 桜は芋虫が苦手だった。嫌いなものほどまじまじと見てしまう。気づかなければよかったと心から思うのだが、一旦目に入るとどうしてもその行く末が気になる。それはゆっくりとクロの方へにじり寄っているようだった。

「え・・・」

 気づけば板の上には他にも蠢くものがいる。毒々しく赤や青に染められた体を持つ毛虫、それを食らわんとする大きなカマキリや醜い蛙、蛇までいる。

「・・・っ!」

 自分の膝の上に芋虫を見つけ、桜は思わず膝立ちになった。悲鳴を噛み殺しフッと強い息を吐くと芋虫は消えた。

 これらはここにひしめく帝の愛妻たちやその女官たちの怨念が固まったものだったのだ。だから本人たちには見えていない。今や板の間は蟲が異常なほど蠢きまわる不気味な場所と化していた。それらは敵対する者同士で食らい合い、クロに少しでもにじり寄ろうとその身をくねらせ、光る目でじっと桜を睨みつける。

 クロが後ろの気配に気づき、くすりと笑ったようだった。ふわりと袖を広げて手を組み直し、人知れず印を切る。

 キンと金属的な音がしたかと思うと桜の呼吸が急に楽になった。二人のすぐ近くまでにじり寄っていた蟲達が弾き飛ばされて宙に消える。

 桜は大きく安堵の息をついた。その気配を感じてまたクロが笑った。

「さて・・・」

 クロが口を開くと女たちがざわりと揺れる。公家中の公家であり、当世一の美貌を誇るクロの言葉を、一言も聞きもらすまいと皆色めき立つからだ。

 もともと人に命令し慣れているのクロの声は、何もせずともよく通った。クロはわざとらしく周りを見回し、顔をしかめる。

「どうもここの気は良くないようでございまするなあ」

「ええ?それはどういうことでございましょう」

 女たちが不安に揺れる。

「どなたが原因というわけではございませぬ。ただこう・・・長年溜まってきたたくさんの負の気持ちが、この清涼殿を覆っているようでございます。後ろに控えておりますこの桜はもと神官。清浄な空気に戻すのは得意でございまするゆえ、少し祓って差し上げるよう命を下そうと思うのですが、いかがですかな」

 女房達は互いに目を見交わし、お前のせいだとでも言うようににらみ合う。

「それは願ってもないこと。黒の宮様のご一族はみなさま除霊がお得意でいらっしゃるので安心です。まさかその女房までとは思いませなんだが」

 桜は周囲の刺々しい視線に突き刺され、思わず肩をすくめる。

「ははは。やはり私のような特殊な力を持っておりますと、自然その類の者を引き寄せてしまうようでございまする」

 桜は優雅に頭を下げた。

 正直、この結界を出て蟲たちの中に足を踏み入れるのは気が重かったが、当初の目的とあらば仕方がない。クロの命を受け、桜は小さなため息をつきながら立ち上がった。周りには気付かれない程度ではあったが、耳の良いクロがくすりと笑うのが聞こえる。

「それではお庭を拝見し、枝を一本いただいてもよろしゅうございますか?」

「苦しゅうない」

 ふんぞり返った女房に言われ、桜はフッと強い息を吐いて蟲たちを消しながら広間を横切って庭へと降りた。

 女房たちはゆっくりと移動し、桜の様子をうかがう。クロは女たちと距離を取ったところで立ち止まり、ニヤニヤしながら桜を見ていた。

 桜はそんなギャラリーのことは一切振り返らず、古木の立ち並ぶ林の方へと足を向けた。

 濃い影を作る木の下に立ち、上を見上げる桜の体から、青い霊気が立ち上る。それが実際に見えたのはクロのみだったが、今までの桜とは雰囲気が一変したということは普通の人間にもわかるらしい。女房たちも固唾を呑んで見守った。

 やがて天に向けて細いしなやかな腕が伸ばされると、そこに枝が一本すとんと落ちた。ほう、と女房たちから驚嘆の声が上がる。

 桜は頭上を見上げたままニコリと微笑み、枝を両手に捧げ持って礼を施すと、ゆっくりと広間の方へ足を向けた。

「では、祓わせていただきまする」

 縁側から声をかけると、女房たちがひるんだように顔を見合わせる。

「どうぞそのままで」

 桜は微笑み、そして静かに枝を右から左へ振った。

 シャン、と澄んだ鈴の音色が聞こえ、女房たちがはっとする。

 一振りでそこに蠢いていた蟲たちが消えた。霊体としては生まれたばかり、まだ弱い生き霊とも呼べぬしろものである。桜の霊力にかかればあっと言う間の浄霊だった。

 左から右へ振る。女房たちの表情から険が取れた。

 シャン、シャン・・・ただの枝から鳴る鈴の音が女房たちの上を通り過ぎていく。中には涙を流す者もいた。

 桜は広間へと上がり、居並ぶ御簾の中でも下座の更衣たちの方から近づいていった。

「失礼いたします。祓いはやはり、御簾越しではやりにくうございますから、私が中へ入ってもよろしゅうございますか?」

 柔らかく問うと、中から是非にという声がかかる。桜は微笑んで体をかがめ、少し開けられた御簾の下をくぐった。

 中にいたのは女房たちより格段に上等な衣裳を身につけた女性たちだった。女性というよりは少女たちである。

 父親の身分が大臣以下のため更衣と呼ばれる立場にいる娘たちは、それでも帝へ嫁いだだけあって皆気品があり、美しかった。

 娘たちは不安げに身を寄せ合い、ひっそりと桜を見上げている。桜は安心させるように微笑んでうなずきかけると、枝をシャンと振った。

 大した霊も憑いていなかった。身分が低いことと、特に寵愛されることもなく置いておかれていたことが幸いしたのだろう。それでも彼女たちは気が軽くなった気がしたのか、一様に喜んでいた。

 御簾をくぐって外に出ると、クロが尋ねるような目を向けてくる。桜は周りにはわからない程度に首を横に振ると、次の御簾へと向かった。

「失礼いたします」

 一礼して中へ入る。桜はすっと息を吸った。

 そこには現在帝が一番寵愛しているという萩の更衣が座っていた。先ほどの少女たちとは比べ物にならないくらい可憐ではかなげだった。クロが見るたびにあれ、という声を出して気絶していたのはこの少女の御簾からだったのもうなずける。

 しかし桜が声を出さぬように息を吸い込んだのは、その可憐さゆえではなかった。

 萩の更衣の後ろにいる霊がはっきり見えたのだ。真っ黒な人影でしかないので、顔の造作は全くわからない。それでも長い髪を持つ女であること、毒々しいくらいに敵意と怨嗟、そして嘲笑に満ちているのははっきりと伝わる。霊は後ろから萩の更衣の首にその黒い指をかけて締めあげていた。

 萩の更衣がよく倒れるのも、この霊の仕業だろうと思われた。

 桜は更衣の正面に座り、じっとその霊を見つめた。

「この方に災いをなしてはなりませぬ。()く去りなさい」

 影はひたすらに萩の更衣を睨みつけていたようだったが、桜の存在に気付くとようやく手を首から離した。影の袖で顔を隠し、静かに消えた。

 萩の更衣が大きく息をついた。桜は更衣に微笑みかけ、胸元から小さな札を取り出した。

「何者かが憑いていたようでございますが、すぐに消えましたので問題はございませぬ。これからはこの札を肌身離さずお持ちください。きっと萩の更衣さまをお守りすることと存じます」

「いったい何者なのですか?!」

 女房たちが血相を変えて詰め寄ってくるのに、桜が苦笑する。

「さあ、それはわかりかねます。私に見えたのは真っ黒な影でございました。人間である、ということ以外は全く」

 黒い影は砂がさらさらと崩れるように消えていったのだが、その粒子がある方向へ流れていったのを桜は見逃さなかった。

 そこから霊の正体は見抜いていたがあえて口には出さない。

 静かに頭を下げて御簾から出る。クロにうなずきかけて次の御簾へ声をかけた。

「失礼いたします」

 腹に力を入れ、気合いを込める。いよいよそこが問題の桐の女御の御簾だったからだ。

 静かに引き上げられた隙間からするりと身を入れると、扇子で顔を覆った女性がいる。

 その体からは羞恥と憤怒の念が激しく噴き出していて、その場の空気を真っ黒に染めるかのようだった。

 他に居並ぶ女房たちは全く気づかぬ風に座っている。

「桜どの・・・よしなに」

 先日、クロたちの控え室まで押しかけて来た女房が怖い目で桜を睨む。外に聞こえるようなことは言うなと言っているのだ。

 桜は静かにうなずくと、女御の背中にそっと枝を当てた。女御はそれだけでびくりと震える。

 そのまま体をなぞるように枝を動かしていく。枝は震え、小さく鈴の音を鳴らした。

「女御さま」

 小さく声をかけた。

「どうぞお心を安らかにお持ちくださいませ。帰らぬものは帰らぬ。そうであれば別のことに喜びを見出すことが肝要でございます」

 扇子がぴくりと動いた。

「帰らぬものは・・・帰らぬ」

 小さく桜の言葉を反芻する。

「はい。聡い女御さまのこと、何を申したいのかはもうおわかりでございましょう。ここの住人の方々にはまだ幼き方もおいでのご様子。教え導くのもまた、気品高く知識の豊富な女御さまのお役目かと」

「これ、失礼な」

 女房が桜を叱りつける。桜は恐縮して頭を下げた。

「いや・・・よいことを言うてくれた」

 女御はゆっくりと扇子を下ろした。顔は醜い腫れものに覆われていたが、その目は強く輝いている。

 女房が目を見開いた。見ている間にも腫れものが小さくなっていくのがわかったからだ。

「もう大丈夫でございまする」

 桜は微笑み、一礼した。

「なに?今ので終わりと?」

 女房は物足りぬと言う顔で桜を睨みつけた。

「この障りは今、解決いたしました。さようでございますね、女御さま」

「ええ。その通りです」

 女御からも笑みのこもった力強い返事が返ってきた。桜はうなずくと、女御の間から出ていった。

 広間に戻った桜は、ふうと大きく息をつき、全体に向けて枝を振る。しゃんしゃんという涼やかな音色が、自然に頭を垂れた女たちの頭上に響き渡った。

 やがて枝を両手でささげもち、一礼する。浄霊が終了したという証だった。

 桜はまた縁側から庭に降りると、林の近くにその枝を刺した。この枝からもまた翌年には美しい花が咲くのだろう。

「終わったようにござりまするな」

 女房たちと一緒に桜の後ろ姿を見届けたクロは、ゆったりと首をめぐらし、正面の御簾を見た。

 立ち上っていた瘴気とも呼べるような怨嗟の念はきれいに消え、清々しい空気に戻っている。

「いや、ほんに素晴らしい女房どのですね、黒の宮様」

「なにやら茶もよりおいしくなったように感じまする」

 他の女官たちが口ぐちに褒めるのに、クロはゆったりと笑みをうかべて頭を下げた。

「ありがとうございます。連れてきた甲斐がございましたかな」

「ええ、ほんとうに」

 クロは何気なく桜のいる庭を見やって眉をひそめた。戻ってきているはずの桜の姿がない。

「・・・」

 さりげなく立ち上がり、香の匂いの充満する広間を抜けて縁側に出た。庭の気配に集中するが、どこにも桜の匂いが感じられない。

 『マシロ』

 『はい』

 マシロへの念話にはすぐに返答があった。

 『そちらに桜は戻っておるか』

 『いえ・・・長とご一緒なのでは?』

 『すまぬが気配を探ってくれ。庭に出た後、急に消えた』

 『承知』

 何食わぬ顔で広間に戻る。

「女房どのは先に戻られたのですか?」

 更衣の女房に尋ねられ、クロは笑顔を作った。

「どうやらそのようでございますね。あの技はその後激しく消耗するようでござりますれば、見苦しい姿をみなさまにお見せするわけにもいかぬと思うたようでございます」

「まあ。それは残念なこと。ぜひにお礼をと思うたのですが。では黒の宮様、代わりにお伝えくださいませ。本当にありがとうございましたと。いずれ清涼殿の者たちから、心ばかりのお礼の品を見つくろって送ります」

「ええ、それは喜ぶことでございましょう」

  クロははんなりと笑みを浮かべてみせた。

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