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クロと桜  作者: けいりゅう
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第六章

「ま、マシロ様っ!黒の宮様のご移動だけでも大変です、どうぞ私は置いて帰ってくださいませ。後ほど徒歩(かち)でお屋敷へまいりますゆえ」

 するとマシロが声を出さずに笑った。

「お気になさらず。このような事は日常茶飯事ですし、むしろ役得と思うております」

 マシロは言葉通り、何事もないかのように来た時と同じスピードで屋根を渡って行く。

「役得?」

「普段は桜様に触れるのも憚られますが、このような非常時には堂々と抱き締められます。あなたからも抱きついてもらえるし。どうせ置いて行くなら長の方ですね」

「・・・マシロ様も冗談を仰ったりするのですね」

「冗談?これはこれは、心外です」

 マシロはまたくくっと笑って先を急ぐ。桜は何となく言葉の接ぎ穂を失って、もう片方に担がれているクロを見やった。

「黒の宮様は大丈夫なのでしょうか」

「今回は桜様への幾重もの防御結界の上に、猫又の拘束、付近への結界、最後の記憶置換の術をかけた範囲が一町という広範囲でしたからね。それでも猫に戻らないだけの余力は残しておいでだから、まあ大した事はありませぬ。夜にはすっかり回復されていると思いますよ」

「防御結界・・・知らぬうちに守っていただいていたのですね」

「それはそれは、厳重にかけておいででした。かえって桜様からの術が通らぬのではと思うほど」

 マシロがまた笑った。

「おまえ・・・此度は随分と饒舌じゃな」

 掠れた声がマシロの背中側から抗議する。

「おや、そうですか?桜様と二人きりでしたので少し浮かれていたかもしれませぬ」

「人をまるで荷物のように。腹が苦しいではないか」

「ではご自分で移動されますか?」

「・・・」

 マシロが立ち止まった。肩にかけていた服の厚みが一瞬でなくなり、中から黒猫が音もなく降り立つ。

「うむ、やはり身が重い。桜、すまぬが抱いてくれぬか」

「少しお待ちを」

 マシロはそう言うと、肩にかかったままのクロの衣服を桜に持たせ、背中と膝の裏に両腕を入れて持ち上げた。

「きゃっ!」

 桜の可愛らしい悲鳴にニッコリと微笑む。

「長、衣の上にお乗りください」

 ちょこんと前脚を揃えて座って見ていた黒猫が、金色の目を細める。

「・・・衣服の上に、とな」

「そうですよ。この方が私も楽ですし、衣も落としません」

「そうではあろうが・・・」

「事後処理が溜まっているのです、お急ぎください」

 黒猫は仕方なくひょいと服の上に飛び乗った。

「わしは桜の豊満な胸の中でしばし休息を取りたかったのじゃ。自分の衣に包まれたところで、楽しくも何ともないわ」

「あなただけにいい思いはさせませぬよ」

 クロとマシロの会話は、凄いスピードで移動して行く風の音が激しく、桜には全く聞こえていなかった。

「ま、マシロ様、移動がお早いのですね」

 桜はギュッと縮こまってマシロの腕の中に収まり、分厚い衣服越しに黒猫を落とさないよう必死で抱えている。それにマシロは蕩けるような笑みを浮かべた。

「申し訳ありませぬ、桜様。先程申し上げた通り、事後処理が多いので少し急いでおります。しかしご安心を。上の物は落としても、桜様だけは決して離しませんから」

「これこれ、わしは物か」

「落ちたところで壊れませんし、そんなに必死に抱えなくても構いませんよ」

「おまえ、いつもの事ながら、わしのことを長だと思っておらんよな」

「思っておりますよ。ですからいつも『長』と呼んでいるでしょう?」

「では言い直そう。わしのことを尊敬しておらぬよな?」

「はて、尊敬とはどんなシロモノでしたでしょうか」

「これだよ桜。こやつをどう思う?全く不遜極まりない!」

 ペシペシと前脚でマシロの秀麗な頬を叩きながら憤慨する黒猫の姿がおかしくて、桜は思わず笑ってしまった。

「おっと」

「うわっ!マシロ、そなたわざとらしいぞ!本当に落ちる所じゃったわっ!」

「視界を黒い物が遮ったので。失礼しました」

「わしが叩いたのは頬じゃ!」

 ギャーギャー騒いでいるうちに無事に屋敷の庭へと降り立ったマシロは、そっと桜を下ろした。

「さ、とっとと人へお戻りを。チヨの家族も到着しているそうです」

「とっとと、ってなんじゃ!それが一族の長に対する・・・!」

「はいはい、戯言は後で聞いてあげますからお急ぎを」

 マシロは無表情のまま、桜の腕の中にいた黒猫の首根っこを掴むと、無造作にクロの部屋へ投げ入れた。

「マシロ!後で覚えておれええぇっ!」

 クロの声は姿と共に尾を引いて消えていく。

「桜様、衣裳をお持ちいただきありがとうございました。あとはこちらで着付けますので、部屋にてお待ちくださいませ」

 唖然としている桜に極上の微笑みを残し、マシロはクロの部屋へと去って行った。


 準備が整ったクロは、超がつくほど不機嫌だった。整った眉間に深い縦じわを刻んだまま、むっつりと客間まで足早に進んでいく。その後ろにマシロと桜も続いた。

 12畳ほどの客間の入口に男女が座っている。恭しく頭を下げているその脇を足音も荒く上座まで歩いていき、クロはどっかと正面に座った。

 マシロと桜がその両脇に少し下がって座る。男が少し顔を上げ、桜を見て目つきを険しくした。

「・・・恐れながら長、なにゆえ『人』がこの場におるのでしょうか。ここは我ら音兎の場でございましょう」

「此度はこの桜という『人』の手を借りて収束を得たのじゃ、この者にも事情を聞く権利がある」

「・・・さようにございますか」

 男が不服気に呟くのに、マシロが言った。

「人を殺し、仲間を殺したそなたの娘の不始末を裁定する場だと言うのに、第一声が人の存在を咎める事か」

 大して大きな声ではなかったが、氷点下の声はマシロの静かな怒りを十分に伝えた。場がピシリと凍りつき、男は頭を床に擦り付けた。

「も、申し訳ございませぬ!」

 クロも十分に恐れられている長ではあったが、その側近のマシロもまた、一族の憧れと畏怖の対象だった。クロが長に就いたばかりの頃、馬鹿にして命令を聞こうともしない長老達が、マシロ就任の翌朝には()()()路地裏に冷たくなって転がっていたという噂は、まことしやかに囁かれていた。

 実際は殺してはないのだが長老達が息も絶え絶えなまでに力を失い、猫の姿で路地裏に転がっていたのは事実で、「ご意見がおありとかで囲まれましたので、()()論争し、逆上されましたので、()()抵抗しただけなのですがね」と翌朝傷1つなく、涼しい顔で言うマシロに、クロは呆れて無言で首を振っただけで応えた。

 その後長老達の力は回復せず、猫として生涯を終えたという事実は、結局殺したのも同じ事だと思ったクロは、敢えて噂を訂正せず、今に至る。

 マシロの白い怒気を特に気にもせず、黙って見ている様は、余計に長の怒りを感じさせた。

 緊迫した空気にマシロの声が響く。

「それで、妊婦であるチヨが、なぜあの場所にいたのだ?」

 桜は質問の意図が分からず、内心首を傾げた。

「あ、あれは勘当した者であり、我々とは・・・!」

「勘当の理由は?」

 必死に言い募る男に対し、マシロが冷ややかに問いかける。

「決まっておるでしょう!汚らわしい『人』などを好いたなどと言いおって・・・!あれは我々の反対を押し切って出て行っ・・・」

「一族の者は『人』と結ばれてはならぬ、などという掟はない。それより、おなごは必ず音兎の里で出産する事という掟を堂々と破ったそなたらの納得出来る言い分を聞きたいのだが」

「ですから、あの娘はもう、うちの家族ではない・・・!」

「チサト。そなたは娘が妊娠している事を知っていたか?」

 マシロは男の言葉をことごとく遮り、そして涙にくれている女へと質問の対象を変えた。

 チサトと呼ばれた女は、ハッとしたように顔を上げ、そして静かに頷いた。

「お前たちはチヨは1年前に病気で死んだと届け出た。それはつまりは偽りだったという訳だな」

「・・・我が家から汚らわしい『人』に嫁いだ者が出るなど、恥ずかしくて一族には伝えられぬと」

「しかしお前は、その後もチヨと連絡を取っていた」

「はい・・・。でも夫の怒りが恐くて・・・」

 そう言って女は泣き崩れた。

 マシロが重いため息をついた。

「そなたが『人』を厭う気持ちはよく分かっておるつもりだ」

 クロが口を開くと、男の肩が震えた。

「そなたの弟妹も、人によって殺されたのであったよな」

 桜は思わず男を見つめた。その男は険しい顔で、睨みつけるようにクロを見ている。

「幼き頃、近所の子らと遊んでいた時にうっかり猫へと戻ってしまい、子の親らに化け物だと狩られた。そなたと両親は何とか逃れたが、弟妹は殺された」

「『人』とは何と残酷な生き物かと思うたものです。それまで毎日のように遊んでいたのに、人ではないとわかった途端の仕打ちといったら」

「しかし、そなたは知らぬであろう?一緒に遊んでいた子らは、嬉しくて親に告げたのだと。我らの友は凄いのだ、猫になれるのだと瞳を輝かせて伝えたのだ。親の反応はともかく、そなたの友らにとっては自慢だった」

「嘘だ!」

「嘘ではない。そなたら家族を保護した後、わしは父と共に記憶置換の術をかけるべく、そなたらが住んでいた家へと向かったのよ。そこで家の前で号泣しておる人の子らから話を聞いた。自分達がそなたらの正体を親に話したばかりに、とんでもない事になってしもうたと、それはそれは後悔しておった」

「・・・」

「記憶を消すと伝えた時、子らは皆が皆、嫌だと申した。そなたの弟妹と遊んだ記憶を持っていたいと。わしも残してやりたいと思うたが、当時の長がそれはならぬと申したのでな」

 男は膝の上に置いた手を更に強く握りしめた。

「今回、人が5人、一族の者が子を含め8人死んだ」

 クロの声に含まれた哀しみは、聞く者に自然と顔をうつむけさせた。その中で1人、桜だけがその後ろ姿をひたと見守っている。

「・・・それは全て、このわしの長としての力が足りなかった(ゆえ)。本当にすまぬ」

「長っ、それは・・・!」

 マシロが顔を上げ、言い募ろうとした。

「いやマシロ、わしはこの男が長年『人』に対して深い恨みを持っておる事を知っておった。その原因も、その後日談も。しかしわしは別段、それによって何が変わるとも思えなんだ。故に放置した」

「しかし・・・」

「『人』とは生まれる姿が違う。ましてや出産前後の一族のおなごは猫としての本性が剥き出しになり、些細な事にも過敏に反応し、子を守るために攻撃的になる。要らぬ悲劇を生まぬため、一族のおなごは里にて子を産むこと。その掟を作ったが、しかし勘当されたおなごの保護など、考えつきもせなんだ」

「それはしかし・・・」

「あらゆる状況を想定し、一族を守るのが長というもの。この度の死者の数を思えば、わしは失格の烙印を押されても仕方がない。わしはわし自身に腹を立てておるのだ」

 その時、しずしずと男が手に何かを抱えて入って来た。そして部屋の真ん中にそっと置いた。

「チヨっ!」

 一目見た途端、チサトが絶叫し、駆け寄ってその白猫の遺体を抱き締める。

「チヨ!チヨオオ!ごめん、ごめんなさいね、チヨ!」

 悲痛な泣き声が響き渡った。

 桜もそっと袖で涙を拭う。

「本来、猫又になってしもうた者は、折伏されれば灰となり消えてしまう。桜のおかげで、チヨは人の姿に戻り、自我を取り戻して死んだ」

 チヨの両親の目が、桜へと向いた。二人とも、声もなくただ、桜に頭を下げた。


 静かな夜だった。軒先に酒と焼いた魚を並べ、片膝を立てて柱にもたれ掛かり、クロはぼんやりと庭を眺めながら、盃をその整った口元へと何度も運ぶ。

 桜はその隣に座り、盃が空けば黙って注いでやる。

 クロは盃がいつの間にか満たされていることにも気づかず、ひたすらにそれを干していく。そんな時間がもう半刻(1時間)ほども続いていた。

 ふと我に返ったようにクロが隣を見て目を見開く。

「なんと。いつからおった?」

 桜はやんわりと微笑んだ。

「魚をお持ちした時からでございます」

「魚・・・?」

 そこで初めて、クロは冷たくなった魚の存在に気づいたようだった。ついでに桜の横に積まれている空の徳利の量を確認して苦笑する。パサリと落ちてきた直毛の黒髪を煩わしそうにかきあげて、柱にさらにもたれ掛かると、また視線を庭へと向けた。

「長じゃ大臣じゃと偉そうにしておっても、所詮はこの程度の男よ。呆れたろう?」

「いいえ、さすが一族の長であられると思うておりました」

「桜、世辞は要らぬ」

「私は世辞と偽りは苦手でございます」

「・・・」

 桜は微笑みながら盃に酒を注ぐ。

「黒の宮様は、全てご自分が(せめ)と仰った」

「実際その通りだからな」

 勢いよく盃をあおる。

「此度の悲劇は、あの男親の偏見が始まりと考えるのが普通。こうして自分の行いを悔い、命を亡くされた痛みを感じ、1人で耐えておいでの黒の宮様こそ、やはり長に相応しいと私は思います」

 クロは空の盃を持ったまま、射るような光る目でじっと桜を見つめ、そしてふいと庭へと視線を外す。

「今宵はやけに言霊が効く。おかしいのお、結界の内なのに」

 桜はまた微笑み、盃に酒を満たした。

「長を痛めつけようと思えば、一族の者を傷つけるのが一番です。但し自分の命と引き換えですがね」

「マシロか」

「それに、普通に死ねるとも思えません。むしろ殺してくれと願う程に残虐に痛めつけられての死でしょうから、試そうとは絶対に思いませんが」

「ふん」

「そもそもマシロ様が許さぬでしょう?」

 桜の問いに、壮絶な笑みを浮かべたマシロ。

「ご想像にお任せします。・・・それより、どれだけ飲んだのです、長?」

「む・・・」

「こんな冷える夜に1人で温まって、桜様の事はお構いなしですか?」

 そこで初めてクロはハッとした顔になり、慌てて桜を抱き寄せた。

「あっ!」

「すまぬ、桜!ああ、すっかり冷え切ってしもうたな。手もこんなに・・・」

 そして両手を取ってハーっと息を吹きかける。

「く、黒の宮様っ!」

 桜は真っ赤になって手を引き戻そうとしたが、そのまま肩を抱き寄せられてバランスを崩し、厚い胸へと顔を埋める体勢になってしまった。

 ぐいと狩衣の襟元を開けて上衣に桜を包み込む。ふんわりとクロが好んでいる香に包まれながら、桜は更に赤くなった顔が見られなくて良かったと内心安堵した。

「すまぬ。わしは大うつけじゃな。死せる者に気を取られ、生きている者を放っておくとは」

 桜を抱き寄せたまま盃を器用に満たすと、桜へ差し出す。

「ほらこれを飲め。少しは温まる。何なら口移しで飲ませてやろうか?」

「いい加減になさいませ、長」

 マシロはベリっとクロから桜を引き剥がし、近くに火鉢を寄せてやった。網を置き、冷えて固まった魚を載せる。

「キノコもお持ちしました。酒のお供にどうぞ」

 マシロが甲斐甲斐しく箸や猪口、皿なども用意するのを、桜はぼんやりと見つめていた。

「私に惚れましたか?桜様」

 マシロの極上の笑みに当てられ、桜の顔がまた赤くなる。

「なにっ?!ならぬぞ、桜!こやつは腹黒く陰険で計算高い、何ともくつろげぬ男じゃぞ!」

「否定はいたしませぬが、桜様の前では別ですよ。思い切り甘やかし、蕩けさせて差し上げましょう」

 箸を取り、魚をほぐし取って皿へ入れて桜へ手渡す。

「・・・お前がそんな事を言うとは」

 クロがマジマジとマシロを見つめる。

「私だってやる時はやるのですよ、長」

「なんて怖い笑みじゃ・・・」

 ふふふ、と笑う声がクロとマシロの間から聞こえ、男達は桜を見た。

「お二人と共におりますと、何ともこそばゆい心持ちになります。まるで殿方をたぶらかす、魔性のおなごのような」

 桜は口元に袖を当てて微笑む。

「ふふふ、悪女というのも存外、悪い気はしないものですのね。お二人が私を持ち上げてくださるおかげで、(やしろ)に居たならば経験の出来ない気持ちを知る事が出来ました。今後、皆様のご相談に乗るにも、いい(かて)になりましょう」

「・・・」

 男達は顔を見合わせ、同時にため息をついた。

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