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クロと桜  作者: けいりゅう
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五章

 それからしばらくは平穏な日々が続いた。桜は夜も明けぬうちから禊をし、身を清めてから登庁用の十二単を着る。クロと共に参内し、さまざまな陳情を聞く。昼前には屋敷へと帰って身軽な衣装に改め、クロと話をしているうちに夜が来るという日課だった。

 数日をかけて桜の性格を理解したマシロは、最近は屋敷に帰ると他の業務をこなすため、姿を見せないことも多くなった。

 クロにとっては面白くなかったが、確かに相手が桜だと名うての女たらしだったはずなのに調子が狂う。婉曲な表現では桜は全く気づかないし、といってはっきりと迫るのも雅に重きを置く平安貴族の面子が許さない。

 そもそも桜は、自分が女と見られていることに気付いていない節があった。これでは恋の進展もしようがない。

 マシロはあっさりそれを見抜いて、最近では部屋にクロと桜が二人でいてもあまり気にしなくなった。

「・・・これで良いのでしょうか」

「うむ?」

 今日もクロたちは参内し、帰ってきて一服していたところだった。相変わらず艶めいた雰囲気にはならない。

 しかしクロはそれなりにこの関係を楽しんでいるようだった。クロの立場上、対等に話せる相手といえばごく限られる。同じレベルの知識を持っている者といえばなおさらである。

 長としての仕事について、桜を相手に自分の考えを述べ、その反応を見ながら判断する。そのためだけでも桜がいてくれるのはありがたかった。

「私のお役目は、帝の呪殺についての調査でございますよね。それなのにこのように、毎日何もせずただ時間を過ごしていて・・・」

 桜は言いながらクロに白湯の入った湯呑を差し出した。

「今は待ちの一手じゃ」

「え?」

「新月まであと少し。おそらくはその日が呪殺の決行日であろうな」

「ええ?そこまでおわかりなのですか?」

 クロは笑った。

「わしも一応なりとその道に通じておるからの。月の満ち欠けは占術には大事な要素じゃ。力が一番強くなるのは新月か満月。まして対象は帝じゃと言うのだから、敵方も念入りに準備を進めておるのじゃろう」

「では、その呪殺の儀式を止めなければ!」

「心配するな」

 クロはのんびりと脇息にもたれ、白湯をすする。

「このわしでさえ、相手を呪ってすぐに殺すことはできぬ。数日をかけて相手を苦しめじわじわと死に至らしめるのじゃ。わしらはかけられた呪いの種類を確かめ、その元凶を押さえるしか方法がない」

「つまり、帝が苦しみ出すまで待てと?」

「はは、そう言うてしもうては身も蓋もないがの。まあそういうことよ。実際苦しむのは一瞬。呪いが始まれば、わしの結界に押しとどめて呪いの進行を防ぐ」

「・・・」

「なんじゃ?」

「いえ・・・そのようなこともお出来になるのかと・・・。本当に、どうして私が必要なのでしょうか」

「ふむ。・・・まあ、帝の思し召しだからな。とにかくわし一人では不安じゃと言うのじゃから仕方なかろう」

「桜様がいなければ、仕事をなさらぬからですよ」

 静かに障子が開き、マシロが皿の乗った盆を持って入ってきた。

「さきほどの客が珍しい菓子を持ってまいりましたので」

 そう言って桜の前に干菓子を置いた。

「まあ奇麗!」

 季節の自然の物の形に固められた砂糖は、美味しそうというよりは奇麗だった。

 桜が目を輝かせて喜ぶ。その様子を、マシロは目を細めて見ていた。

「喜んでいただけて何よりです」

「それよりマシロ、聞き捨てならぬことを言いながら入ってきよったな」

「何がです?」

「誰が仕事をせぬのじゃ。これだけ毎日真面目に参内しておるというに」

「ええ、桜様のおかげです。それまでの長と言ったら、まるで抜けがらでしたからね」

「・・・」

 クロはつい半月前の自分を思い出し、何か言おうとして結局口を閉じた。

「この件が無事に解決して桜様が神社にお戻りになったら、長は一体どうなってしまわれるのですかねえ」

「ど・・・どうもならぬわ。以前に戻るだけではないか」

「・・・」

 マシロが雄弁な目でクロを見やった。

「桜様はどうお考えですか?」

 優しい目で桜の方を向いたマシロは、次の瞬間噴き出してしまった。

 桜は皿の上でひとつの庭園を作ろうと、あれこれ干菓子を動かして配置するのに夢中だったからだ。

「できました!」

 嬉しそうに皿を持ち上げて二人に見せる。

 クロとマシロは顔を見合わせ、苦笑した。桜は不思議そうに首をかしげた。

 ふとマシロとクロが同時に動きを止めた。桜は再度首を傾げる。2人が目を見合わせるのを見て、念話が交わされているのだと理解し、静かに様子を見守る。2人の表情から深刻な話であるのは間違いない。

「桜」 

「はい」

 桜は改めて姿勢を正し、クロを見つめる。

「一族の者が、ちと問題を起こした。わしは急いで行かねばならぬが、マシロも連れて行くゆえ、そなたはここで待て」

 言いながらも既に立ち上がっている。

「私もついて行っては行けませんか?少しはお力になれないでしょうか」

「やめておけ。危険だ」

「いや・・・桜様の言霊縛りは、我々にも有効でした。鎮静効果は見込めます。お連れしては?」

「しかし」

「私は黒の宮様の女房です。なれどこのように賓客扱いをされ、御恩ばかり頂いて全くお返しできておりませぬ。是非にお連れくださいまし。私の手に負えぬとわかりましたら、すぐに身を隠しますので」

 人間である桜は、当然怪我にも弱い。クロ達の足を引っ張らないためには自分で自分の身を守ることが一番なのだ。

 クロは光る目で一瞬桜を見つめ、頷いた。

「よかろう。ではわしと共に来い」

 3人で庭に降りると、クロは背中に乗れと言う。普段なら躊躇する場面ではあるが、この緊迫した状況でそう言うということは、おぶさる必要があるという事だ。桜はためらわずクロの背中に体を預けた。

 途端、経験した事の無い衝撃が走り、桜は悲鳴を上げそうになるのを、目を瞑り、唇を噛んでこらえた。

 安定した頃、恐る恐る目を開け、また叫びそうになってヒクッと息を呑む。

「大したものだな。大抵は驚き騒ぐものだが」

 桜達は、屋根の上を移動していたのだ。時折トン、と体が浮く感じがするのは、文字通り屋根と屋根の間を飛んで渡っているからだ。そんな移動方法なのに、クロの背は殆ど揺れない。

「・・・驚きのあまり声が出なかっただけです」

 桜の緊張した声に、クロが笑ったのが背中越しに伝わる。

「それにしても・・・空から見ると、人の営みはこのように見えるのですね」

「ほう、もう辺りを見廻す余裕も出てきたか。やはりそなたは剛毅よの」

「黒の宮様のお背中は安心して身をお任せ出来ますから」

「そうか。常から身を任せてくれると嬉しいのだがな」

「?・・・それはどういう意味でございましょう?」

「戯言です、お気になさらず」

 後ろから来ていたシロがひょいと横に並んで言った。

「ええい、並ぶな!着地の場所が限定されてしまうではないか」

「それは失礼いたしました」

 シロがすいと前に出た。フッと冷笑するのをクロは見逃さなかった。というより見るだろうと分かっていてシロが笑ってみせたのだ。

 チッと腹立たしげに舌打ちをすると、クロは桜に状況を話すことにした。

「一族の娘が、人と駆け落ちをし、子を産んだ」

「はい」

「話したかのう、我ら一族は、産まれた時は猫の姿だと」

「そうなのですか?しかし・・・夫は人、彼女は自分が兎音一族であることは話してあったのでしょうか」

 愛しい妻の腹に子が宿れば、それは嬉しかろう。生まれてくるのを楽しみに待っていたその子が猫だったら。人の夫は理解出来たのだろうか。

「いや」

「では・・・」

 その後は想像に難くない。

「化け物と罵り、男は産まれた子を全て殺した。娘は逆上し、夫を襲い、殺した」

「・・・」

「人の営みが普通に行われている長屋でのことじゃ、当然大騒ぎになる。たまたま警らしていた一族の者の耳にも入り、とりあえずは一帯に結界を張り、抑え込んでいるとの事だったが」

 そこまで話をした所で現場に着いたようだった。桜を静かに隣に降ろす。

「これはまた、派手にやったな」

 クロが思わず呟く。3人は屋根の上から、下の惨状を見下ろしていた。

 辺りは血の海だった。独特の酸っぱいような、甘いような臭いがたちこめ、桜はそっと袖で鼻を覆う。

 何か大きく黒いものがあり、その中心から3メートル程の距離を取り、円になって兎音一族の者達が印を組み、なにやら呟いている。

「これは・・・」

 桜が目を細めて中心を見つめる。しかし、よく見ようとすればするほど、そのものはジワリと揺らぎ、焦点が合わない。周りに立っている人たちと比べると、その大きさは3倍ほどだろうか。黒い影が炎のようにゆらゆら揺れているが、なんとなく獣の形をしているように見える。

「猫又のなり損ないじゃな」

 クロがその正体を明かした。

「ネコマタ?」

「うむ。我ら兎音一族の中で、抜きん出て能力の高い者が100年以上生きた時、又は激しく命の危機にさらされた時に化けるという。しかし稀に、能力が低い者でも猫又になる事がある。それは人や仲間を喰らった時じゃな」

「・・・っ!」

 桜は思わず絶句した。つまり今、目の前にいるモノは、人か仲間を食べたということになる。直径6メートルの輪の中が赤黒く濡れたように光っていて、所々に肉や骨のようなものが落ちているのは、その残骸と気づいたのだ。そのおぞましさにゾッと鳥肌が立った。

「他人の霊力を喰らって膨張し、元の姿を留められずにそうなるのじゃ。それ故にあのように実体が纏まらず、黒い影のようにゆらゆらしておろう?猫又とは、本来1つであるはずの尾が、二本以上になっておるものを指す。その尾の数は能力の大きさによるとも言われるがの。ま、あれは2本、大したことは・・・」

 クロは言いながら不意に自分の両手を相手に向けた。そのまま何かを引き絞るようにすると、今にも前脚で目の前の兎音一族の仲間へ襲いかかろうとしていた猫又の動きが不自然に止まり、怒りの咆哮を上げる。

「もう少し下がれ!」

 クロが屋根の上から叫ぶと、ザッと輪が広がる。

「長、これ以上抑えきれませぬ、(はよ)う始末を!」

 周りを取り囲む男達は、見れば汗を滴らせている。

「全く、一体何人喰ろうたのだ?」

 クロが苦々しげに呟いた。

「黒の宮様」

 桜がクロを見上げた。

「私を下へ下ろしていただけませぬか?」

「どうするというのじゃ?」

 クロの手がキリキリと猫又を縛る。猫又がまた吠えた。

「あの娘を説得いたします」

「説得?桜、残念じゃが、あそこまで猫又の形も取れぬような状態だと、もう人の言葉を理解することも叶うまい。そなたの言霊が効くとは思えぬ」

「いいえ、きっと伝わるはず」

「何故言い切れる?」

「黒の宮様には見えませぬか?あの娘の周りを、先程から小さな者達が心配気に囲んでいるのです」

 クロはすいと目を細めた。黒々とした影にともすれば飲み込まれそうになりながら、小さな猫達が薄く見えている。

「恐らくあれは、生まれてすぐに殺されてしまった子ども達でしょう。あの子たちが囲んでいるということは、あの猫又がまだ母としての意識を持っているから。私はそう信じています」

 クロはしばし桜を見やり、そしてヒョイと片腕に抱き抱えて、猫又を取り囲む輪の中へ降り立った。

「長っ!」

 一瞬弱まった呪縛の隙をついて、猫又の黒い前脚が2人に襲いかかる。

 マシロは思わず悲鳴のような声を上げた。

()ぅ・・・」

 クロは背後に桜を庇い、片手で猫又の攻撃を防いだが、少し頭をかすったようで、額からつう、と血を流した。

「このわしの顔に傷がついたら、世のおなごどもが泣くではないか、この痴れ者め」

 と言いつつ軽く腕を払うと、猫又が後ろへ倒れそうになってたたらを踏んだ。影の割に地響きがする。

「黒の宮様!大事ございませぬか?!」

 桜が回り込んで怪我を確かめようとするのに、クロはニヤリと笑いかけた。

「後で手当てを頼む。しかし今はこやつじゃ」

 桜はクロを見上げ、そして猫又を見上げた。次の瞬間青白い炎が桜の体を包む。あまりの勢いに、桜の長く束ねられた髪も上へと舞い上がった。

「おう、いつもより凄まじいな」

「・・・少し黙っていてください。気が散ります」

 クロは声もなく笑い、桜のために少し後ろに下がった。印を組み、結界を張る。どっと兎音一族の者たちがその場に倒れた。それだけ必死で猫又を抑えていたのだろう。

「静まりなさい」

 凛と声が響くと、猫又はピタリと動きを止めた。そのままグルルル、と威嚇の声を上げる。言霊が通じた事で、桜は内心大きく胸を撫で下ろした。

「この方のお名前は?」

「チヨだ」

「・・・チヨさん、静まりなさい」

 猫又が吠えた。ビリビリと空気が震える。

「チヨさん、お子たちがあなたを心配しています。この世に生まれてすぐにまた旅立つ子どもたちを、心残りのまま逝かせるおつもりですか?」

「ゴ・・・」

 影から不気味な声が出た。しかし桜は猫又が何を言いたいのか正確に理解したようだった。

「そう、あなたのお子たちです。見えませんか?ちょうどあなたの正面にいるのですが」

 白く光る目らしきものが、ゆっくりと足元へと下がり、そして細められた。小さな猫たちの姿は、最初よりだいぶん薄くなっているようだが、辛うじてまだ見えていた。

「お子たちが最後に見る母の姿が、それで良いのですか?」

 問われると、猫又の影は大きく揺らいだ。そして唐突に暴風が吹き荒れ、周りのものが一斉に吹き飛ぶ。

 桜の体も一瞬浮きかけたが、背後から逞しい腕がしっかりと抱きとめた。

 自分の袖で目を庇いながらも、桜は猫又が人間の姿へと収縮していくのを見ていた。

「・・・暴走した猫又が、また人形(ひとがた)に戻れるとはの」

 黒が驚いたというように桜の後ろで呟いた。

 そして支えていた腕を解くと、桜に軽く頷きかけ、暴風の中心地で倒れている女性へと近づいていった。

 歩きながらバサリと自分の狩衣を脱ぎ、チヨを優しく包んでやり、片膝をついてその腕に抱き起こす。

「お・・・さ・・・」

 全ての霊力が抜け去った体は、声を出すだけでも精一杯のようだった。

「も・・うし・・わけ・・」

「そうじゃな。そなたは夫を喰い殺し、何事かと駆けつけた人を喰い殺し、更に兎音一族の者たちをも殺した。仲間を殺した者は死罪。掟は知っておるな」

「は・・い」

「えっ?!待っ・・・!」

 桜が抗議の声を上げたが、マシロがすいと桜の前に立ち、静かに首を横に振った。

「これは一族の掟。それにあそこまで霊力が抜けてしまっては、チヨはどのみち・・・」

 マシロの顔が蒼白なのを見て、桜は何も言えなくなってしまった。

「すまぬ、チヨ。そなたを守ってやれなんだのはこのわしの不甲斐なさのせいじゃ。恨むならわしを恨め」

 チヨは弱々しく微笑み首を横に振って目を閉じた。

 クロが力のないチヨを抱き締めると、すうとチヨの魂が抜けたのが見えた。

 それは本来の姿である美しい白猫で、駆け寄ってくる子猫たちを愛しげに舐め、身を擦り寄せていたが、やがて足元にじゃれつく子猫たちと共に空へと昇っていき、見えなくなった。

 誰もが静かに空を見上げていた。どんよりとしていた雲と空気が祓われ、清々しいまでの青空だった。

 やがてクロは立ち上がって恭しく狩衣で包まれた白猫を一族の者に渡し、複雑な印を結ぶ。

 クロを中心に突風が吹いた。

「この辺り一帯の記憶置換を行った。兎音一族の者だというところだけ人と置き換え、狂気に陥った母が周りの者たちも殺して回ったという事にしてある。後の始末は・・・」

 そこまで一息に告げたクロは、いきなりその場で倒れそうになり、マシロが素早く支えた。桜も駆け寄り、反対側から支える。

「後の始末は隠密隊が行え。チヨの家族はすぐに屋敷へ来るように伝えよ」

 マシロはそう告げると、意識を失ったクロを右の肩に抱え、桜を左手で抱き抱えて屋根へと飛ぶ。桜は思わずマシロの首にしがみついた。

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