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クロと桜  作者: けいりゅう
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四章

 牛車はしずしずと御所の中を進んでいく。桜は御簾越しに政務が執り行われる朝堂院と、その裏にある清涼殿を見て身震いをした。思わず腕で自分の体を抱く。

「なんじゃ。なにか感じたか」

 クロが静かに声をかける。

 桜はじっと外に目をやったまま、無意識に首を横にふった。

「何・・・というわけでもないのですが・・・言うなれば・・・妄執の込められた視線・・・でしょうか」

「うん?」

「この御所全体が一つの命を持ち、私たちを見つめ嘲っているかのように感じます」

 クロは笑った。

「ふむ。そうかもしれぬの。ここはおなごにとっては華麗なる牢獄、男どもにとっては権力争いの決闘場。牢獄に押し込められ、存在を忘れられたおなごの妄執や嵌められ失脚していった男の無念な思いなどが凝り固まって形作っても不思議とは思わぬよ。ここに足を踏み入れる者が、この度は成功するのか、凋落するのか、それを見極めようとしておるのやも」

「では黒の宮様はご成功された方としてこの化け物にも認められておられるのでは?」

 桜の問いに、クロはふふんと笑った。

「生きている人にとっては、わしのような存在はうっとおしいことこの上ないであろ。なにせこの類稀な美貌でもってまず相手を圧倒し、微笑むだけで世のおなごどもを骨抜きにしてしまうからのお。男どもにはさぞかし面憎い相手であろうが、これまたわしは奴らの手の届かぬ高い地位におるでな。だからなんとか足を引っ張って引き摺り降ろそうとあやつらは必死よ。その全体を見て、化け物はわしが落ちるか、落ちぬかと面白がって見ておる気がする」

 ぬけぬけと、とはこのことである。しかしクロが言うことは全て事実であったので、桜は苦笑するにとどめた。外でもマシロがわざとらしく咳き込んでいる。

「長」

 すぐ外からマシロではない、低い声がかけられた。人が近づいてきた気配を感じなかったので、桜はビクリと震えた。森に囲まれた小路に牛車が静かに止まる。

「カゲか」

「はい・・・。皇后が、ぜひ内密に清涼殿にもお寄り頂きたいとのことでございます」

「なぜに清涼殿の奥深くにお住まいの皇后に、わしの参内が知れておるのじゃ」

 クロは忌々しそうに舌打ちをする。

「今宵は帝に呼ばれてのこと。遺憾ながらそちらにお寄りする時間はないかもしれぬとお伝えしてくれ」

「おいでいただけるまで寝ずに待つ、と仰っておられます」

「カゲ」

 クロの声に怒気が込もる。御簾を乱暴に開け、そばに控えている男を睨みつけた。頭を下げているため桜からは男の顔は見えない。しかし桜は、その体から立ち昇る青い炎にハッと息を呑んだ。

「お前は誰に仕えている」

「・・・長でございます」

「そうであれば、お前は言われたことを伝えるだけでよい。そもそもなぜそなたが皇后の伝言なぞ持ってくるのじゃ。そなたには帝の警護を任せてあったはずじゃが」

「その帝より、是非にと請われて先日より皇后のお話相手をさせていただいております」

「マシロ」

「はっ!」

「わしはその報告を聞いておらぬが」

 マシロが恐縮し、頭を下げる。

「申し訳ございませぬ。私も今カゲ様よりお聞きして驚いておるところで・・・」

「ではそなたの独断じゃな、カゲ」

「・・・はい。昨日のご要望でしたので、本日長がおいでになった際の報告で構わぬかと」

 男はようやく顔を上げた。桜は驚きのあまり声を出しそうになって思わず袖で口を覆った。

 その顔は、クロに瓜二つだった。しかし印象は全く違う。桜はカゲの顔から目が離せなくなってしまった。

 深い怒りと孤独、そして恨み。マイナスな感情が凝り固まってカゲの目の中に潜んでいる。見ているこちらが陰鬱になってしまうほどの深い絶望。

 いかにクロと同じ類稀な美貌があっても、その一種殺気立っている雰囲気が人を寄せ付けない。ゆらゆらと立ち昇っていた炎は絶望と怒りの陰気だったのだ。

 クロの猫の本性の目は陽気な金色。そしてカゲもまた漆黒の黒猫だがその目は冷たいブルー。猫に変化してしまえば目で判別するしかないくらい二匹はそっくりだったが、一方では全く違う存在だった。

 カゲも桜の存在に気がついた。死んだような目が大きく見開かれ、そしてすっと細められる。殺気はまっすぐに桜の胸を射抜き、桜は物理的な痛みを感じて思わず胸を押さえた。

 それは本当に一瞬の出来事で、いらいらとしているクロは全く気づかなかったようだった。

「もうよい、そなたと話していても埒が明かぬ。これから帝にお会いするのじゃ、勝手なことはしてくれるなとわしの方から言うておく。そなたはすぐに戻って皇后へさきほどの伝言を伝え、これから先の話し相手はできかねぬことを申し上げてこい」

「・・・承知」

 カゲはざっと木立を揺らして森の中へと消えていった。

 桜は大きく深呼吸する。そこで初めて、自分が息を詰めてカゲを見つめていたことに気がついた。

「あの・・・方は?」

「あの方はカゲ様といってクロ様の双子の兄にあたられます。一族にあっては、朝廷の警護を任されていて、長の次の地位におられるお方です」

 マシロが丁寧に教えるのをぼんやりと聞きながら、桜はなおもカゲが消えた小立をみつめていた。

「なんじゃ・・・あいつの方が好みか?」

 クロにからかうように言われて、桜は呆然としながら口を開いた。

「・・・まだ・・・わかりませぬ」

「なんじゃと?」

 冗談半分に聞いたのに思わぬ反応が返ってきた。クロは思わず気色ばみ、マシロはニヤリと笑う。

「ほう、桜様は冷静沈着な方がお好みなのですか。なるほど」

「なにを?!わしが冷静沈着でないと申すのか、マシロっ!」

「おや、いつ長が冷静沈着な時がありましたでしょう?」

 二人がギャーギャーと言い合っている中で、桜がポツリと呟いた。

「申し訳ございませぬ・・・少し・・・混乱していて・・・」

 桜は、まだ痛む胸を押さえながら深く物思いに沈んでいった。

 

 牛車はようやく止まった。そこからまた苦労して降りた桜は、ほうと息をつく。

「まことに・・・参内はできうる限り避けたいものです」

 クロが声を出して笑った。

「白衣と緋袴が恋しいか。まあ、まだ始まったばかりじゃ。そのうち慣れるというもの」

「そうでしょうか・・・」

 それだけは全く信じることができない。そう思いながらも、桜は黒の宮の女房であるという仮面を上手に被り続けた。しずしずとクロの後ろを控え目に歩き、クロが優雅に公達と挨拶を交わす間は微笑みを絶やさず静かに見守り、別れる時には目礼する。

「いやいや、もう朝廷中の噂ですよ黒の宮様。なにやら眩しいのうと思えば、黒の宮様とそのお連れのマシロ様じゃというのは有名な話なのに、更にこのたびは光り輝く女房を連れておられると言うて。どれだけ朝廷の噂を集めてしまわれるのですかな、黒の宮様は。それにしてもまあ本当にお美しい。・・・その女房殿には、もう決まった婿はおありなのですかな?」

「実はこの桜は少し前まで巫女であったのですよ。それを還俗させたので、しばらくは行儀見習いということで私の女房をしております。婿取りはもう少し先の話ですね。まあ私の女房ですから、いずれはしかるべきお方を世話してやろうと思うております」

「ほう、それはそれは」

 男の笑顔が固まり、ぐっと詰まるのがわかった。

 クロはにこやかに笑いながら、男の地位では、准大臣のクロ付きであった女房など分不相応だろうと遠回しに伝えているわけである。

「まあしばらくは、おっしゃる通り灯り代わりに連れ歩く所存。ただ困るのは変な虫まで寄ってきてしまうことで。ははは」

 ここでクロはとびきりの爽やかな笑顔を見せる。

「ええ・・・ゴホン・・・ところでお連れのマシロ様はとんと浮いた噂を聞きませぬが・・・実のところどうなのですかな?陰では男色なのかとも・・・黒の宮様のお手もついているとか。よろしければ、私がおなごをお世話いたしましょうか?私が一声かければ、それはもう、よりどりみどりですよ」

 あまりにも直接的なもの言いに、普段は冷静で顔色も変えないマシロがムっとした顔をした。

「ははは、それはありがたいお申し出ですな。こやつにも困ったものです。あまりにも色々なおなご衆から文が届くので、迷っているようでございましてな。これは内密に願いたいのですが、実は中には内親王のお一人からの文もあるのです。しかしそこで結ばれてしまっては、主である私の地位を脅かすことにはならぬかと懸念しておるようで・・・いやこれは本当に内密に願いますぞ」

「な・・・内親王・・・」

 相手はすっかり毒気を抜かれてしまったようだった。内親王といえば帝の娘の呼称である。その夫ともなれば栄達は間違いない。

 マシロがごほんと咳払いをする。

「やや、これはいかぬ。帝からのお呼び出しの途中でございました。それでは先を急ぎますので」

 光り輝くばかりの笑顔で会釈を返し、クロは颯爽とその場を後にする。

 マシロと桜は慌てて相手に会釈しクロの後をついていった。

「長。あれはあまりにも・・・」

 マシロはほとんど口を動かさず、クロと桜にしか聞こえぬような声で囁いた。

「あいつは好かぬ。陰でこそこそと、わしは見てくればかりで夜伽の際にはおなごを悦ばせることが下手だの、灯りを消してしまえば自分の方がおなごに悦ばれるだのと言って廻っておるのじゃ。さっきのマシロとわしが云々というのも、他でもない、奴が広めておることはわかっておる」

 クロはブスっとした口調で答える。

「まあ・・・」

 桜は顔を赤らめる。

「実際おなごどもからはろくなことを聞かぬ。無理無体にねじ入れてきて気絶しそうになっただの、盛り上がってくるとおなごを叩いたり首を絞めるだのと。おなごが痛がって悲鳴をあげると興奮するのだとか」

「奇特な趣味をお持ちの方ですね」

 マシロが苦笑して返す。

「桜はあのような男には指一本触れさせぬ。泣くおなごを見て興奮するなど、男として最低じゃ」

「それは構いませぬが、私まで巻き込まないでください。あの物言いだと明日から私は内親王の想い人だと噂されてしまうではありませぬか」

 マシロが抗議する。

「嘘は言うておらぬであろうが」

「・・・なぜご存知なのです」

 認める言葉に、桜が驚いて前を歩くマシロを見た。色白の顔に朱が上ってきている。

「わしの情報網を甘く見てもらっては困るの、マシロ」

 チラリと隣を歩くマシロを見やると、クロはニヤリと笑った。

「正直そなたを手放すのは惜しいが、帝の一族の中に親族がおるのは心強い。そなたさえよければ受けても構わぬのだぞ」

 マシロは赤くなったまま、無言で首を横に振る。

「・・・カゲはもう、役に立たぬかもしれぬしの」

 クロの呟きは、マシロの足を止めさせた。

「長。それは早計に過ぎます」

 思いのほか厳しく響いた言葉に、クロが苦笑した。

「そうであった。そなたはカゲに心酔しておったのよの。・・・まあもう少し様子を見ようではないか。まだ調査は始まったばかりじゃ」

 桜はこの先に漠然とした不安を覚えた。巫女である自分の予感は普通の人より当たる確率が高いことを、今回だけは信じたくない気持になっていた。

 

 帝との面会の場は、四本の太い柱に囲まれた広い板張りの部屋だった。一番奥の御簾の中に人の気配がする。横にはずらりと重臣が居並んでいた。

 クロは大股で颯爽と広間の真ん中まで進んでいき、優雅に袖を広げて座る。マシロと桜も少し下がったところに座った。

 居並ぶ重臣たちの熱い視線が三人を取り囲む。クロはその視線など、当然だとでも言うように気にも止めていない様子だった。

 手を軽く握ったまま、すいと床につけて静かに頭を下げた。

「主上におかれましては、ますますの万歳 万万歳をお喜び申し上げまする」

 マシロと桜も併せて頭を下げた。クロの堂々たる公家の姿に、桜は少し誇らしい気持ちになる。

 やがて御簾の中からか細い声が聞こえた。

「いやいや、壮観じゃな。そなたたちの姿を見るだけで、寿命が何年も延びるような心持になる」

 クロは顔をあげ、ゆったりと笑った。

「それは苦労して来た甲斐がございましたな。この桜、着なれぬ十二単が嫌じゃと言うのを引きずるようにして連れて参りましたもので」

 桜がぱっと赤くなった。恨めしげにクロの背中を睨む。それがまた可愛いと重臣たちが笑った。

「桜、見違えたの。巫女姿もなかなか清廉で美しかったが、そうして着飾り化粧を整えるとまるでかぐや姫じゃな」

 桜は畏まって頭を下げる。

「おう、かぐや姫。まさしくその通りですなあ」

 重臣たちが深くうなずく。

「では私は竹取の翁というわけですか」

 クロがおどけて言うと、またどっと沸く。

「そなたは間違いなく源氏の君であろうよ。おなご遊びにかけても引けを取らぬ」

「またそのような根も葉もないことを。主上にそのような告げ口をなさったのはどこのどなたですかな」

「遊んでおることに間違いはなかろう。そなたと同時代に生まれた男どもこそ不幸じゃの。何かと言えばそなたと比べられるのだから。このわしでさえも」

 重臣たちは笑ったが、クロは薄く微笑みながら注意深く光る目で御簾の中を見つめる。

「さて、今日はどのような趣向なのですかな?まさか我々を灯り代わりにしようと?」

「その通り。桜を還俗させたと聞いたので、早速にそなたたちを並べ、愛でながら食事をするつもりじゃ」

「それはまた、史上最高に贅沢な食事でございますぞ。主上でなければお断りをしていたところです」

「ふむ。権力があるというのはたまには良いこともあるものじゃな」

 その一言で食事会の準備は始まった。

 

 準備ができるまでの間、三人は別に部屋をあてがわれて待っていた。

「やれやれ、愛想笑いも肩が凝るわ」

 クロが大きく伸びをし、とんとんと肩を叩く。

「まことにご立派でいらっしゃいました。昨日までの黒の宮様とはまるで別人」

「ふむ。惚れたか?桜」

 クロはニヤニヤと笑いながら白湯を入れている桜の元へと体を寄せる。また間にマシロが割りこみ、白湯の入った湯呑をクロに押し付けた。

「はいはい、これでも飲んで大人しくしていください」

「なんじゃマシロ。全くお前も気がきかぬ。少しは席を外すなりなんなり・・・」

「絶対にしません」

 憮然として白湯をすするクロを見て、桜がくすくすと笑った。

「あの・・・もし」

 外から控え目な声がかかった。三人は目を見合わせ、マシロがすっと立ち上がって障子を開けた。

「おくつろぎのところを大変申し訳ございませぬ」

 廊下に頭をくっつけんばかりにして座っていたのは、一人の女房だった。

「これは、桐の女御の」

 クロが相手に気付いて微笑む。

「清涼殿にお住まいのあなたが、こんな所までどうなされたのかな?」

 マシロが中に入るように勧めた。桜が白湯を用意してやる。

「あの・・・本日は黒の宮様がお見えだとお聞きし、お願いに参ったのでございます。あの・・・どうか、桐の女御をお救いくださいませっ!」

 頭を下げる女房に、三人はまた顔を見合わせた。

「それはどういうことでしょう」

「ここのところ、桐の女御は夜な夜なお苦しみなのです。お顔にもひどい痣ができ、痛くて眠れぬご様子。でもどうしてそれが出来たのかわからぬのです」

「桐の女御といえば・・・」

 マシロが言いかけて、当の女御の女房がいることに気付き口をつぐんだ。

「はい。マシロ様が何をおっしゃりたいのかよく分かっております。このところ、桐の女御は、とある更衣に主上の寵愛を取られてしまい、欝々とお過ごしでございました」

 大臣の娘を女御と呼び、大納言以下の家柄の娘を更衣と呼ぶ。当然女御の方が更衣より地位は高いのだが、こと男と女となると、位とはあまり関係がなくなるのは仕方のないことだ。帝は今や萩の更衣にぞっこんであるというのは周知の事実であった。

「しかし、それと私とどのような関係が?」

「はい・・・このようなことを言うべきではないのかもしれませぬが・・・」

 女房はそれでも顔をあげて必死に言った。

「実は霧の女御は、黒の宮様をお慕い申し上げておりました。入内なさった後には叶わぬ恋とお諦めになられたのですが、きっと黒の宮様のお姿を一目なりとも見れば少しはお気も晴れるのではないかと。それにあの痣は、薬師が見ても原因はわからぬというのです。私はあのお苦しみを傍で見ておりまして、恐ろしい呪詛なのではないかと」

 マシロは、クロが無表情になったことでクロの内心が手に取るようにわかった。

 それくらいのことでわしを呼び出そうとするのかと今にも言い出すのではとハラハラしながら見守る。

「かわいいあなたの頼み、聞いてあげたいのは山々なのですが」

 クロはわざと困ったような笑みを浮かべて相手を見る。女房は気絶しそうな顔をした。

「今は主上からのお食事に誘われておりまして、準備ができるまで待機しておるのです。それに清涼殿は主上のお館。おいそれと簡単に入ることなど、恐れ多くてできませぬ。ましてや美しい女御とお会いしたがために、万が一にも私との下世話な噂など立っては申し訳がない」

 行けない理由ならスラスラ出るんですね、と内心で毒づきながらマシロは冷ややかに会話の行く先を見守る。

「女房様」

 あまりにもしょんぼりと肩を落とす女房を見かねて、桜が呼びかけた。

「確かに主の申します通り、私の主が伺うのは難しいかと。はばかりながら私、先々日まで巫女をしておりました手前、今のお話にお力になれるものがあるやもしれぬと思いました。よろしければ一度、桐の女御様にお目通りをお願いできませぬでしょうか」

「あなた様が、ですか?」

 女房は胡散臭そうに桜を見た。あまりの美形に、いっそ反感を覚えたような目である。それににこりと安心感を与えるような微笑みで答えた桜は、続けて言った。

「せめても痣が痛くて眠れぬというお苦しみだけでも、少しはやわらげられるのではないかと」

「本当ですか?」

「何にしても一度お目通りを願わぬことにははっきりとはいたしませぬが、一度そのような事例を体験しておりますが故に」

「でも・・・おおっぴらに診てもらうわけにもいかぬのです」

「なるほど。その痣のことは内密になさっておられるのですね」

 マシロが指摘する。

「はい。何と申しましても器量の良いものばかりが集まる清涼殿のことですから、お顔に痣ができたなどと知れた日には・・・」

「そういうことでしたら」

 クロが思いついたように言った。

「近日中にお茶会を開いてくださいませぬか。清涼殿のみなさまを招いての大きな茶会とするのです。それであれば特定の噂も立ちませぬし、私もお伺いすることができます」

 えっ、行く気なんですか?マシロが驚いたようにクロを見る。クロはとびきりの笑顔で女房を蕩かしていた。

「その際に、少し悪いものが憑いているようだと言って全体に除霊を施しましょう」

「はい・・・はい!よしなにお願いいたします!」

 女房は大喜びで帰っていった。笑顔で見送っていたクロは、障子が閉まったとたんにぶっすりとした顔をする。

「・・・まったく、なんでわしが・・・」

「私が伺うと申しましたのに」

 桜はとまどったように言った。

「そなたを一人であんな伏魔殿に行かせるわけにはいかぬわ。おなごだけの世界の怖さを、そなたはまったくわかっておらぬ」

「・・・まあそうですね」

 マシロも同意した。

「桜様は表向き長の女房ですから、どんな恨みを買っておるやもしれません。大切な御身を預かっているのですから危険の可能性があるなら少しでも排除しておくべきです。ですから桜様、自ら危地に行くような真似は今後はくれぐれもお控えください」

「申し訳ございません」

 桜は小さくなって頭を下げた。

「まあそう責め立てずとも良いではないか。桜は困っている女房を見かねて声をかけたのじゃからの。桜の優しさじゃ」

「・・・」

 マシロはギロリとクロを睨んだ。

 その時、食事の用意ができたと呼びに来た。

 

 くれぐれも堅苦しくしてくれるなとクロが願った成果なのか、案内されたのは御簾の中にいる帝とその護衛に二人がいるだけの静かなこじんまりとした部屋だった。

 膳と酒はすでに用意してある。

「ご苦労じゃった。あとはわしが見る。そなたらは隣の部屋に控えておれ」

 クロが重々しく護衛に声をかけると、二人は黙って頭を下げ部屋を出ていった。

 部屋の周りに誰の気配も感じなくなると、クロは印を組み、パンと手を叩いた。とたんに外から聞こえていた音が一切止んだ。クロが結界を張ったのだ。

 術の具合をたしかめると、クロは御簾の向こう側に声をかけた。

「もうよかろう、惟清(これきよ)。こちらに出て来い」

 桜はあまりの不遜さに目をむく。

「く・・・黒の宮様・・・そのような・・・」

 マシロが恭しく御簾を上げると、小柄な男が苦笑しながら出てきた。

「まったくこの男は他の者がおらぬといつもこうじゃ」

「なんじゃ、名を呼べと言うたのはそなたではないか、惟清。ああ桜、心配するな。ここでの会話は一切外には漏れぬ」

 クロは帝が席に座るより早くどっかと座って膳の中を覗き込む。これは完璧に屋敷に居る時のクロのままだ。

「それよりの、そなたには言いたいことがたくさんある」

 クロが帝を睨みつけるのを見て、桜は卒倒しそうになった。

「まあ待て。少しはわしにそなたらを鑑賞する時間くらい与えてもよかろう。わしは先ほどから御簾越しにしか見れず、とても残念に思っておったのじゃから」

「まったく、人を見せ物みたいに扱いおって」

 クロは魚を手づかみで取り、頭からガブリとかじりつく。

「く・・・黒の宮様っ!」

「なんじゃ桜、食わぬのか?さすがに帝が食うものとあって、どれもうまいぞ」

「そういう問題では・・・」

 ハラハラしながら両手をもむ。

「ああ、気にせずともよいぞ桜。今宵のわしは帝ではなく、単なる惟清という男じゃと思うてくれ。ここな黒とは(むつき)が取れぬ頃からの遊び仲間。気心の知れた者なのじゃ」

 マシロは黙ってクロと帝の膳の世話役に徹している。

「は・・・そういうことでございましたか」

「わしは惟清と会った時にはもう褓は取れておったが、こやつはいつまでもしておった」

「何を」

 帝は楽しそうに笑った。

「桜、わしはの、日頃とても孤独な所におるのじゃ。同じ立場の者など、この世の誰ひとりとしておらぬ。たまにはこうして友と呼べる者と愚痴の一つでも言うてみぬことには生きては行けぬ」

「そうそう。普通の友として接してくれと惟清が泣いて頼むから、わしは仕方なくの」

「嘘をつけ。泣いてはおらなんだだろうが」

「いいや、あのまま主上、主上と呼び続ければ、そなたは絶対に泣いておった」

「・・・まあ、そうかもしれぬが」

 桜は二人に酒を注いでやりながら目を丸くして会話を聞いていたが、クロの無鉄砲さとそれを笑って許す帝との関係がとても微笑ましく思え、ふふと笑った。

「ほれ見よ、そなたがおかしなことばかり言うから、桜に笑われたではないか」

「人のせいにするでないわ惟清」

「それにしても美しいの。黒、お前の一族のおなごもどれも美しいが、その中に入れてもやはり桜が一番であろう?」

 帝は酒はあまり強い方ではないようだった。ほうとため息をつきながら赤い顔でまじまじと帝に見つめられて、桜は困ったように笑った。

「ふむ。それは頭一つ以上抜きん出ておるな」

「そうか・・・ということは、この世で一番美しいおなごとも言えるの」

「ふふん、集めそこなったな惟清」

「うん?」

「およそ帝というものは、この世で一番美しいもの、価値のあるものを集めたがるじゃろうが」

「・・・桜の神社に美しい巫女がおるのはもとから知っておった。しかし還俗させてまで我が清涼殿に囲ってしまうのは、何やら哀れな気もしての」

「それは正しい判断じゃな」

「そうか?」

「今宵はその話をしに来た。もういいか、惟清」

 クロの真面目な顔を受けて、帝も杯を置き姿勢を正す。

「おう、聞こう」

「今日、わしがここに来ることは、皇后はご存知であったのか?」

「いや。誰にも言うておらぬ。そなたには手紙を送ったが、あれは親書じゃ」

 つまり帝自身が書いた手紙ということである。

「なのに、わしはここに来るまでの間に、皇后の使いに止められたぞ」

「・・・」

「それに、さきほど食事の支度を待つまでの間のことじゃ。桐の女御付きの女房がわしを訪ねてきた」

「なんとな?」

「桐の女御は御加減が悪いようじゃ。そなた、知っておったか?」

「・・・いや」

 クロはため息をついて帝を見る。

「一人のおなごを寵愛するのも結構なことじゃが、もう少し他の清涼殿の住人たちも気にかけてやってはどうじゃ。あのおなごたちが頼りにできるのはそなた一人であろうが」

「しかし・・・もう愛はないのじゃ」

「まったく、この正直者め」

 クロはまたため息をついた。

「誰も添い寝せよとは言うておらぬぞ。ただ折にかけ、元気にしておるかと文を送るなり、共に茶を飲んだりするだけでもおなごたちは癒されるのじゃ。愛がなくなったとて放置されるのは一番辛いと思うぞ」

「・・・行けば嫌味を言われる」

「それはそうじゃろ。おなごにしてみれば、ただ一つの心を手に入れたいがためにそこにおるのじゃ。それくらいの苦言、笑って聞き流せばよいではないか」

「お前のように上手くあしらえればとは思うのじゃが」

「お前、光源氏の発言は本音じゃったのじゃな」

 クロはさきほどの面談を思い出してムっとしたように帝を睨んだ。

「とにかく、わしが言いたいのはそういうことではなくだな、なぜに清涼殿の奥深くにおるはずのおなごたちに、わしが来ておることが伝わっておるのかということじゃ」

「それはそうであろ。あのような派手な俥、乗っておるのはそなたしかおらぬではないか。しかも朝堂院の近くまで乗り入れられるのは、それなりの身分の者だけだしの。そもそもそなた、自分がどれだけ朝廷の噂の的となっておるのか自覚はあるのか?そなたが今どこで何をしておるか、ここに詰めておる皆が知っておるわ。ご丁寧に、そなたがあの広間に現れるまでの間中、黒の宮様は今はどこどこの廊下においででございますると報告があるのじゃぞ」

 クロは苦笑した。

「そうなのか?うかうかと女房の尻も触れぬの。・・・まあ、確かに俥は派手かもしれぬしわしは目立つかもしれぬ。しかし清涼殿からはわしの俥が通ってくる道は見えぬはず。朝堂院の者はわしの動向を知っておって当然じゃろうが、清涼殿に知れておるのは納得がいかぬ。どう考えても清涼殿の者が朝堂院に出入りしておるとしか思えぬではないか。まあ実際女御の女房どのはわしの前に現れたわけじゃが」

「・・・」

「奥の者が表に顔を出す。これを放置すればどのようなことになるか、わからぬお主でもあるまい」

「つまり、今回の問題の原因はわしにあると言いたいのだな」

「それは調査が済むまではわからぬよ。しかし今目に見えている問題として、政と奥がくっついておるということじゃ。奥はそなただけのためにあるべきであろ」

「しかしのう・・・」

 クロはまっすぐに帝を見つめた。

「よいか惟清。わしも小さいとはいえ、一族を束ねる長ぞ。その長として言わせてもらおう。一族の者を信じるのは良い。しかし猫の前に皿を置くようなまねはしてはならぬ」

 桜はギョっとしてクロを見た。帝はクロの一族の正体を知っているのだろうか・・・。しかし意に反して帝は首をかしげた。

「どういう意味じゃ」

「猫はの、辛抱とか我慢とか言うことはできぬ。目の前に馳走が載った皿があれば、それを食ってしまう」

 ここでクロは桜を見た。マシロも桜を見た。桜はどういう意味だろうかと目をぱちぱちさせた。

「馳走は食われた。さてこれは猫の罪か?いや違う。猫の前に皿を置いた者が悪いのじゃ。猫とはそういう気質のもの。わかっておいて誘惑するのはそやつが罪」

 ますますわからない。桜は今度は本当に首をかしげた。その反応にマシロもクロも、あからさまにがっかりした様子を見せる。帝だけは何も気づかず、杯を見つめたままじっとクロの言葉を噛み締めていた。

「わかった。明日からは、清涼殿の者と朝堂院の者とは、格別な許しの無い限り出入りすることはならずと触れを出そう。破った場合は謀反の罪として断罪すると」

「ふむ。それでよい」

「長」

 マシロが控えめに口を挟んだ。

「先ほど、女房どのとお約束なさった件は・・・」

 クロは眉をしかめて考え、はたと思い当たった。

「そうじゃった。あのな惟清、清涼殿で茶会を開けと提案しておいたのじゃ。そこにわしと桜も呼べと」

「お前は」

 帝が呆れたようにクロを見た。

「出入りするなと触れを出せだの、自分は行くだのと、まあ本当に勝手なやつよの」

「それもこれもお前が悪い」

「なんじゃと?」

「わしが行くことになったのは、例の桐の女御のご不調の原因を確かめるためよ。それでも清涼殿の他の者たちに知られとうないと言うから、では全体に祓ってやるということでどうじゃと提案したのだ」

「そうじゃったか。世話をかけるがよろしゅう」

「ふむ。そなたも来ると良い。多いに盛り上がって目が逸らせるとわしらの調査もやりやすくなる。あとな・・・」

「まだあるのか」

 クロはくいと杯を空け、また帝を見つめる。

「カゲのことじゃ」

「うむ。皇后があまりに熱心に頼むので、少し話し相手になってもらえぬかとカゲに頼んだ。・・・まずかったか」

「まずい。今の話と同じじゃ。清涼殿には担当の護衛や世話役がおるはず。わしの一族は、全てそなたを護衛するためにある。それがその皇后と通じておるなどと変な噂を立てられては、わしが困る」

「しかし、相手は皇后ぞ?他の女御や更衣の相手を頼んだわけではないのだが」

「そなたと皇后は同じではない。そなたは唯一無二の存在ぞ、忘れるな」

 さすがに一月前の皇后の不調の本当の原因については帝には言えなかった。マシロから見れば苦しい言い訳ではあったが、帝は納得したようだった。

「わかった。つまらぬことを頼んで悪かったとカゲに伝えてくれ」

「やはり理解が早いな。おまえがそうやってわしを受け入れてくれるから言い甲斐もあるというもの。わしは自分より上に立たれるのはほんに嫌いなのだが、お前だけは盛り立ててやりたいと思うぞ。・・・さて、堅苦しい話はここまでじゃ。さあマシロ、桜、お前らも食え」

 クロはにこりと笑うと、徳利を桜に差し出した。

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