三章
ぼんやりと目が覚めた時、嗅ぎ慣れぬ香の衣に包まれている気がした。このような上衣、持っていたかしら・・・そこまで考えて、桜ははっと気がつき飛び起きる。かけられていた男物の上衣が、桜の体から滑り落ちた。
「ん・・・?目が覚めたか」
低い声がかけられ、桜は思わず胸の襟をかき寄せた。くっくっと笑い声が聞こえる方を恐る恐る見ると、クロが文机に片肘をつき、綺麗な顎をその手に乗せた格好で笑っている。
顔がはっきりと見えるのは、文机の横に蝋燭が灯されているからで、机の上には何か書き物をしていたらしく、紙と筆が見えた。
桜は慌てて姿勢を整え、両手をついて頭を下げた。
「お・・・おはようございます!・・・申し訳ありませぬ、思いのほか寝過ごしました!」
頭の上に、また笑い声が降ってくる。
「いや、まだ夜も明けておらぬ。早すぎるくらいじゃ」
「えっ?」
桜は外に通じる障子を見た。確かに空気は夜だと伝えてくる。まだ夏になりきれない、ひんやりとした空気が静かにただよっていた。
「でも・・・黒の宮様はお仕事をなさっていたのでは?」
「まあの。そなたの寝顔を見ながらでは、あまりはかどったとは言えぬが」
笑いを含んだ声が、桜の頬を上気させた。
「あの・・・私はなぜ・・・ここに」
「うん?覚えておらぬのか?・・・まあしこたま酔ったところに、わし専用の特製の酒をあおったのじゃ、それもそうかもしれぬの」
そう、宴会の席までは覚えていた。次に意識が戻ったらここにいたのだ。
「そなたは、白湯と間違えてわしの酒を飲んだのじゃ。あれは非常にきつい酒でな。しかしいきなり倒れたときには驚いたぞ。声をかけてもまったく目を覚まさぬので、わしの部屋に連れてきた。さすがにこの夜中に幼い鈴に面倒を見よというのも酷だしの。かといって一人で寝かせておいて、いきなり具合を悪くしては大変と思うたのでな」
「それは・・・申し訳もございませぬ」
桜は恐縮して深々と頭を下げた。
「いやわざとやったわけでなし、気にするな。それより気分はどうじゃ?」
「はい・・・それがいつもより快調なくらいで」
その答えに、クロがくっくっと笑った。
「そうか。やはりそなたは強いのじゃなあ。それに、一族特製のあの酒も、そなたの体には合ったようで何より。実はあれには、霊力を補充する力もあるのだ」
桜は合点がいったようにうなずいた。
「それでなのですね。・・・申し上げておりませんでしたが、実は朝の浄霊の際、私は非常に消耗しておりました。あのような大量の霊を祓った時には、夜は死んだように眠っても朝は大変体が辛いのですが、今はもう一度やれといわれてもすぐに祓えるくらい、霊力が充実しているようでございます」
「おう、そうであったか。では間違えて飲んだとはいえ、ちょうどよかったわけじゃな」
クロがニコリと笑うのを、桜はまぶしそうな顔で見つめた。
「まあ、少し残念ではあるが」
「・・・?」
桜が首をかしげるのに、クロが笑って説明する。
「霊力を過度に補充すると、かえって苦しくなるのじゃ。そういう時には、空気を抜くように霊力を抜いてやらねばならぬ。そなたが苦しむようであれば、わしが接吻で抜いてやろうと待ち構えておったのじゃがな」
「せ・・・っ!」
桜はいきなり一月前のクロとの接吻を思い出していた。カっと顔が火照り、思わず袖で顔を隠す。
「お、おからかいは無用に願います!」
クロは楽しそうに笑った。
「さて、体が大丈夫なのであればもう少し寝た方が良いぞ。朝から早速に朝廷に乗り込み、調査を開始する。部屋に戻るか・・・それともこのままわしとここで夜を過ごすか?」
クロの好む香の匂いがすぐそばで漂っている。桜が驚いて顔を上げると、意地の悪い顔をしたクロが目の前に座っていて、思わずのけぞった。
「ここにおるというのなら、寝かせるわけにはいかぬがの。・・・一族特製の酒を飲んで体力も回復しておるのなら、別に寝ずとも問題はなかろう?」
目を覗き込まれ、低い声で囁かれて硬直する。昏倒した時に脱がされたのだろう、桜は自分が白衣しか着ていないことに今さらながら気づいてかっと身が熱くなるのを感じた。
じわじわと後ろににじり下がりながら、叫ぶように言った。
「ああああのっ、部屋に!部屋に戻ります!」
心臓が破裂しそうなくらい激しく打っているのを感じ、桜は胸に手を当てる。
「そうか、それは残念じゃな。では案内しよう」
クロはいつもの表情に戻ると、ついと立って障子を開けた。
案内された先は隣の部屋だった。いっそ拍子抜けしてクロを見る。
「それはそうであろ?そなたはわしの女房なのだから。しかし桜が知らぬだろうから教えてやったまで。何か問題でもあるかの?」
「いいえございませぬありがとうございましたおやすみなさいませ」
一息に言うと、馬鹿丁寧に頭を下げ、クロの鼻先でぴしゃりと障子を閉める。向こう側から、すでに聞き慣れたくっくっという笑い声が聞こえ、余計に腹立たしく思いながら横になった。
この屋敷に来ることになった俥の中から、クロに振り回されっぱなしで自分を保つのが難しい。それがどうしてなのか、まだ桜にもわかっていなかった。
「桜様、おはようございます!」
元気のいい声に桜は思わず微笑む。障子を開けた鈴は、桜を見て驚いて杏の形をした目を見張った。
「桜様・・・何をなさっておいでなのですか?」
「ああ、ちょうどよかった。鈴、ここに井戸はあるでしょうか」
桜はきりりと額に鉢巻をし、白衣に緋袴をはいた巫女装束で座っていた。
「ええ・・・こちらのお庭にもありますが」
「案内を頼みます」
鈴は首をかしげながら井戸へと案内する。桜は確認すると、にこりと笑ってつるべを落とし、水を汲むといきなり頭から被った。
「さ・・・桜様っ!」
夏が近づいているとはいえまだ朝は寒い。鈴の悲鳴のような声を聞きつけ、正面の障子が勢いよく開いて半裸のクロが飛び出してきた。
「何事じゃっ!」
桜は気にせず、なおもざぶざぶと頭から水を被る。
「これも朝のお勤めの一つなのです。どうぞお気になさらず」
「どうしたのです?!」
駆けつけたマシロが見たのは、庭にいる水浸しの桜と、その傍で両手をもみしだいている半泣きの鈴と、それを廊下から眺めている上半身裸のクロだった。呆れてため息をつく。
水浸しのまま、桜は静かに目を閉じ、両手を合わせて祝詞を唱えている。彼女の体から青い炎が立ち上るのが見えた。
「ほう、なるほど。毎朝そうやって霊力の修練をしておるのだな」
クロが感心したように腕組みをしながら呟く。
「で、あなたはどうして裸なのです、長」
マシロが冷たく聞く。
「おう、桜に体を拭いてもらおうと思うて、衣服を脱ぎかけたところじゃった」
桜はゆっくりと目を開けクロを見たところでいきなり硬直してしまったようだった。青い清廉な炎は途中で立ち消え、代わりに顔が赤くなっていく。
「ふむ。朝もやの中の水浸しの美女というのも絵になるな。白衣が透けて体に密着しておるのも何やら艶めいておって、これはこれでよろしい」
クロがニヤニヤしながら言った。その言葉で我に返った桜は思わず体を自分の腕で抱き、クロに背を向けた。
鈴が急いで桜に乾いた衣をかけてやり、二人は足早に部屋へと戻っていった。
「長」
マシロの声に雷雲を感じる。
「体なら私が拭きます」
桶と布巾を用意したマシロが怖い顔で立っているので、クロは仕方なく部屋へと戻った。
「い、痛い痛い!もう少しやさしく擦れと言うにっ!」
「あなたにはこれくらいで十分です!」
「なんじゃ、そんなに怒らなくても・・・」
着物を着せてやると、マシロは厳しい顔のままクロの正面に座る。
「長」
「なんじゃ。ここで話すと隣の桜に聞こえるぞ」
「いいえ、あの方は人間。おそらくは聞こえませぬ」
クロはふてくされたように脇息にもたれ、そっぽを向いて座る。
「桜様は、この任務が終わればまた巫女に戻られる方です。庶民にとってあの類稀な霊力は本当に力を発揮することでしょう。その貴重な力を我々はあの神社からお借りしているのですよ」
クロたち一族の力は、貴族のためにのみ利用されてきた。庶民などまったく縁のない高みにいる一族なのだ。
「わかっておる」
「いいえ。わかっておられないからこうして話しているのです。あなたは何かにかこつけて桜様を手元におこうとなさっておりますが、それはつまり、庶民たちの救いの手をなくすことに繋がるのですよ」
「・・・」
「桜様がご自分で還俗なさるとお決めになったのならそれはそれ。しかし長が桜様を汚すことで強制的に還俗させるのは明らかに間違っています」
「わかっておるというに」
しかし、桜を見ておるとどうしてもからかいたくなるし、あの細い体を抱き寄せたくなるのじゃ・・・クロは内心で呟いた。
「ご自分の手の届かない距離をお保ちなさいませ」
口に出していない思いに返事をされ、クロはギョっとしてマシロを見た。
「ほれ、そうして念話がだだ漏れになっておると申しておるではないですか。長は桜様のことになると、どうしても自制の箍が外れてしまわれるようで」
マシロはため息をついた。
「とにかく、私もなるべく間に入るようにいたしますから気をつけてくださいよ。・・・こんなお役目、私だってしたくありませんけど」
(私も長の二の舞になりそうで怖いんですが・・・)
利発なマシロは、その気持ちをクロに汲み取られるようなヘマは絶対にしなかった。
一方、桜は桜で鈴に泣かれて困っていた。
「あの・・・ごめんなさい、鈴。驚かせてしまったのですね」
鈴は泣きながらもかいがいしく桜の世話をする。濡れた髪と体を丁寧に拭き上げ、衣装を着付けて髪を整えていく。
「驚いたも何も・・・あのような修行をなさるのなら、おっしゃっていただければちゃんとした場所にご案内いたしましたのに。申し訳ございませぬ、辱めを受けるようなことを・・・」
鈴は、すでに心酔している自分の主が嫌らしい目で見られたことが許せないのだった。しかもその相手が長とあっては、その怒りは持って行く場もない。
「いいえ、鈴のせいではありませんよ。確かに私が考えなしでした。昨日から穏やかだった神社での暮らしが一変したものですから少し混乱していて・・・少しでも一昨日までの日常を取り戻そうと焦ってしまいました」
「とにかくマシロ様にお願いして、明日からは誰の目にも触れない井戸をご用意いたします」
泣きはらした目に決意を込めて桜を見る。桜は思わず微笑んでしまった。
「はい。よろしくお願いしますね、鈴」
二人が微笑みあったところに、外から声がかかる。
「桜様。ご準備はお済みでしょうか。朝餉を一緒にと、長が申しておりますが」
マシロだった。桜は笑って鈴にうなずきかけると返事を返す。
「はい、すぐに参りますとお伝えくださいませ」
桜は立ち上がり、部屋をあとにした。
後ろからついてくる桜を確認し、マシロは黙って廊下を先導していく。それに桜はおずおずと言った。
「あの・・・マシロ様」
「はい、なんでございましょう」
「あの・・・どうぞ今朝の件はお忘れくださいませ」
マシロはいきなり裸同然の水浸しの桜の姿を鮮明に思い出し、思わず立ち止まった。ぶるっと頭を一振りし、慌ててまた歩き出す。
「あ・・・ああ、はい。あの・・・はい」
動揺を隠し切れないマシロの後姿を見て、桜は赤面し小さくなった。
「申し訳ございませぬ。何も考えないまま、日常のお勤めをしてしまいました。こちらにはたくさんの男の方がいらっしゃるのに」
「いや・・・あの庭に入れるのは数少ない者だけですから。これからもあの場所でお続けいただいてよろしいですよ。今日、早速にも四方に衝立を置くように手配いたします」
「ありがとうございます」
案内されたのは桜の部屋と同じくらいの大きさの部屋だった。中にはすでにクロが座っている。
桜の姿を認め、笑って目を細めた。
「おう、朝日と共に入ってくる様は、まるで女神のようじゃの」
桜は赤面し、部屋に入ったところに座って両手をついた。
「おはようございます、黒の宮様」
「ふむ」
「さきほどは、あらけない姿をお目に掛けてしまい大変に失礼いたしました。なにとぞお忘れくださいませ」
クロはくっくっと笑った。
「おかげではっきりと目がさめたぞ。たまにはああいう艶めいた風景もいいものじゃな」
「黒の宮さま・・・」
桜は穴があったら入りたいとでもいうように身を縮める。
マシロも微笑みながら膳を用意する。クロの正面に来るように桜の座を設け、自らはその端に座った。
膳を見て、桜はためらった。
「あの・・・食事の時は、女房は主人のお世話をするものではないのでしょうか。昨夜はいきなりの宴会でしたので、私も勝手がわからず失礼してしまったのですが」
「ああ、気にするな」
クロが鷹揚に言う。
「後で案内するが、屋敷の中には大きな扉が存在する。そのこちら側までは、わしと数人の男達、おなごではそなたと鈴しか入れぬ。我々しかいない場所では、そなたは賓客として扱うように言うてあるでな」
「はあ・・・」
桜はマシロに勧められ、箸を取った。
「おなごの手がないので、そなたの世話には少々不自由をかけてしまうが勘弁してくれ」
「長は、特定のおなごを作られることを良しとされません」
マシロが代わって説明する。
「それは・・・悋気を生まぬためですか?」
「その通り。わしは可愛がるときには、まんべんなく可愛がるようにしておる。それでもあのおなごは何回、こちらは何回じゃと喧嘩が絶えぬのじゃ。まったくおなごの悋気というものは果てが無いの」
桜が苦笑する。
「黒の宮様、本当に治める気がおありなら、特定のどなたかを伴侶として公表なさったほうがかえって落ち着くのではございませぬか?」
「む?」
「まだ自分にも可能性があると思えばこそ争いもするのでしょう。寵愛の相手が決まってしまったと知れば諦めがつくというもの」
「その通り。私も常々、そろそろ身を固めてくださいませとお願いしておりますのに、長はいっこうに聞き入れてくださらず、毎夜毎夜別のおなごのもとへ通い続けておられたのですよ。おかげで私の元には恨みつらみの文がひっきりなし」
「まあ、それも大変でございますね、マシロ様」
「ええ、ええ、それは大変ですとも。長は無意識に呪詛を跳ね返してしまわれるから余計に始末が悪い。私は文が届けば、そのおなごの具合が悪くなっていないかとすぐに飛んで行って確かめねばなりませぬからな。呪いがかかっていればその解除も私の役目なのですから」
「そなたもそなたに懸想したおなごから、生霊を連れて帰ってきておったではないか。それを祓ってやったのはこのわしぞ。お互い様じゃろうが」
クロが箸を振りながら抗議する。
「あなた様がむげにされなければ恨みを買うこともなかったし、呪いが返ったのではと心配した私がその方にお会いすることもなかったのですよ。そうなれば変な恋慕をされることもなく、お互い幸せでおられたことをお忘れなく」
マシロはクロと桜に白湯を入れてやりながら平然と返す。
桜は二人を交互に見て、ついには吹き出してしまった。
「美しくあるというのも、なかなかに常人ではない苦労がおありなのですね」
マシロとクロは呆れたように同時に桜を見た。
「そなたが言うと、著しく説得力に欠けるの」
めずらしくマシロが大きくうなずいてクロの意見に同意した。
「まあそれも、桜様との出会いまでの話。おなご遊びも今はすっかり沙汰止みになられておりますが」
「そうなのですか?それは何よりでございますね」
桜がニコリと微笑む。
「人の恨みなど、買わぬに越したことはありませぬし」
クロは何か言いかけたが、まったく裏のない桜の笑顔に、諦めたようにため息をついた。
「・・・そうじゃな。まったくもってその通り」
マシロは笑いをこらえきれず、無言で下を向いたまま肩を震わせた。
いざ参内となると支度は大変である。のんびりと朝餉を取って部屋に戻ると、鈴が手ぐすねを引いて待っていた。
「す・・・鈴、まだ着る・・・のですよね」
「はい、あとは裳と唐衣を・・・桜様!お気を確かに!」
十二単は重量も並ではない。じっと立っているだけでも体が重く、少し体勢を崩して倒れでもした日には、起き上がるのは一人では不可能なのではないかと桜を不安にさせた。
「本当は、これに髪を大きく膨らませて結うのが今の流行なのですが、膨らませるのにまた大量の鬢付け油を使用しますし、更に身動きが取れなくなってしまいますからやめておきましょうね。・・・桜様は化粧をしなくても十分にお美しいですし」
「これを毎日やっているという清涼殿の女房のみなさまには、頭が下がります」
辟易と言う桜に、鈴が笑う。
「何事も慣れなのでしょうね。きっとあちらの方に毎朝水を被れと言えば、悲鳴をあげて倒れられると思いますよ」
「修行より、こちらの方がよほど堪えます・・・」
ようやく準備を整えてよろよろと廊下に出たころには、とっくの昔に昼を過ぎていた。
「おお、これはまた、豪勢な姫の出来上がりじゃな」
笑い声がした方を見ると、クロも正装の衣裳に改めていた。黒く艶やかな髪は烏帽子の中に納めてあって、それはそれで精悍な姿である。
「朝廷に連れていけば、今宵からは誘いの文が殺到するであろうの」
「そのようなことはないかと存じますが・・・もしそうなったら上手にあしらってくださいませ」
「そういえばそなた、巫女でいた時にはどうしておったのじゃ。皇后お抱えの神社じゃ。文は貴族からも届いておったろうに」
「さあ・・・私は見たことがございませぬ」
「そうか。禰宜たちが処分しておったのじゃな。まあ神職でもあるし、そなたを無理矢理に汚すことはさすがに恐れ多かったのじゃろうな」
いつもはスタスタと歩く廊下も、重い着物をひきずりながらだと少しずつしか進めない。着慣れない桜は、苦労しながら移動していた。
それに気づいたクロがさりげなく手を差し出す。桜がためらいながら手を伸ばしたところで二人の間にマシロが体を割り込ませ、桜の手を取った。クロがぎょっとしたようにマシロを見る。
「桜様の誘導は私がいたします」
クロを一睨みし、桜を支えながら庭の石段を降りる。
「あっ!」
体勢を崩し、桜が前のめりになった。マシロは慌てずひょいと抱き上げ、そのまま石段を降りて桜を地面に下ろした。
「あ・・・ありがとうございますマシロ様。重かったでしょう?」
「いいえ。何もできぬ優男に見えるでしょうが、これでも私は長の警護役ですから。桜様くらいの重量なら、三人抱いても倒れませんよ」
そう言ってニコリと笑いかける。クロは憮然としてその様子を後ろから見ていた。
「あのおなご殺しめ。罪の無い顔をしてまんまと桜に取り入りよったな」
その呟きは耳の良いマシロには聞こえたらしく、桜の気づかない所で後ろを振り返り、クロにニヤリと笑い返した。
「くっそ。あいつわしを怒らせて楽しんでないか?」
面白くない気分のクロであった。
「はあ・・・大きな俥ですね」
「それはそうじゃ。参内するのだし、そなたを一緒に乗せるとなるとその着物が嵩むのでな」
庭に乗り付けられた俥は、昨日より数倍大きなものだった。黒く光る漆塗りの俥は、金箔と螺鈿で瀟洒に模様が描かれている。
「あまり街には出ないのですが・・・このような俥が通っているところは一度も見たことがございません」
「ふむ。まあ普通は、もっと朝早いうちに出仕するのが常じゃな。昼前には戻っておるか、そのまま朝廷で遊びに興じておるか、どちらかじゃ」
「まあ!今日はこのような時間から参内してもよろしいのでございますか?もしかして、私の準備が手間どってしまったがために・・・」
桜は両頬を手で押さえて顔を曇らせる。クロは先に俥に乗り込みながら笑った。
「いやいや、今日は出仕の日ではない。昨日帝からお誘いがあっての。夕方から、初夏の趣を感じながら食事を楽しまぬかということであったのだ・・・いやいやマシロ、ここはわしが手を貸したほうが桜は乗りやすいと思うぞ」
桜が苦労しながら俥へと乗り込む。
「きゃっ!」
クロは最後の段をようやく上り終えた桜の手を強くひっぱり、まんまと桜を抱き寄せることに成功した。桜の肩越しにクロがマシロにニヤリと笑ってみせる。
「あの・・・黒の宮様、申し訳ございませぬ・・・着物捌きの要領がまだ難しくて」
「構わぬ。さあ、ここに座るがよい」
俥の中で苦労しながら体勢を変え、ようやく桜は息をついた。
「では、今からお会いするのは帝なのですか?」
二人の無言のバトルには全く気づいていない桜が問うた。
「そうじゃ。そなたを連れてこいとのことじゃったから、今回の密命の詳しい話がきけるのであろうよ」
マシロに向かって舌を出してみせると、クロは勢いよく御簾を下ろした。
「まったくあのお人は、童のように張り合って・・・」
マシロはブツブツと文句を言いながら徒歩で牛車の中の会話を確かめつつ進んでいった。