二章
宴会場はすでに百人以上の人でざわざわとしていた。上座にクロが現れるとざわめきが止む。後ろに続いて桜が現れると会場がどよめいた。
霊感の強い桜は、皆の熱い視線を物理的な圧力として感じてしまい、思わずよろめく。クロはさりげなく桜の背中に手を置いてその体を支えた。
「も・・申し訳・・・」
「よい。・・・恐れるな。こやつらは今日からそなたの仲間ぞ」
小さく囁かれた言葉が、桜を力づける。桜は顔をあげると、ゆっくりと人々を見回し、微笑んだ。また会場がどよめく。
「みな集まったか。今夜はこのおなごを紹介する。今日からわしの女房となる、桜じゃ」
「長、そのおなごは人間ではありませぬか」
「この屋敷に人間を入れるのでございますか?」
その不満げな声は、端の方に固まっている女性陣から上がった。桜から見てもみんな美しい。その目はつり上がり気味で、勝気な光を宿している。それが一族の者の証のようだった。
「その通り、桜は人間じゃ。しかしこの者の霊力は、そこらの一族の者よりも高いぞ。いつぞやは桜の一声で我らの正体が暴かれたのじゃからな」
それを聞いて男たちが頷きあった。一月前神社で起こったことは、本来ならあり得ないことだったのだ。その術者が目の前にいると知り、桜は視線に尊敬の念が混じったのを感じた。
桜はまた微笑んだ。そのたびにざわりと会場が揺れ、人々の視線が和らぐ。
「桜でございます。縁あって、このたび黒の宮様の女房をさせていただくことになりました。前職が巫女でありましたため、少しばかり浮世離れしておりますことをどうぞお許しくださいませ」
静かに頭を下げる。
「ここであらかじめ言うておくが」
クロが声を張る。
「桜はわしの女房だ。手を出したら殺す」
一瞬場が静かになった。次の瞬間、どっと男達が沸いた。
「それはそうですわなあ。なにせ長の想い人だし」
「わしらが手を出す前に、長がさっさとモノにされてしまうだろうよ」
「いやいや、意外に本当の想い人だと、なかなか手が出ないものなのでは?」
「そうじゃな。長はああ見えてオクテな部分がおありじゃし」
口々にはやし立てられ、クロは真っ赤になって反論した。
「ちょ、ちょっと待て!いつから桜がわしの想い人になっておるのじゃ!」
「おやおやあ?それを言わせるんですかい?」
男達がニヤニヤと笑う。
「ごほっごほっ!・・・とりあえず、宴会開始じゃ!」
クロは咳き込み、急いで上座に座った。桜は鈴に連れられ、脇の上座に近い席へと案内される。
「さあさ、桜様。今日はどんどん食べて飲んでくださいませね」
鈴が張り切って膳を整えてくれた。
「じゃから違うと言うにっ!」
上座では男達に囲まれて、クロが真っ赤な顔でまだ言い募っているようだった。絶対的な力を持つ長ではあるが、従える一族との距離はとても近いようで、桜には好ましく思えた。畏れられる君主より、下の者が言いたいことを言わせて許す君主の方がはるかに良い。
しばらく宴を脇から黙って見ていた桜は、鈴が目を眠そうに擦っているのに気づき、自室に戻って寝ているようにと帰した。それを見計らって傍にやってきたのはマシロだった。
「桜様。お食事に制限はおありだったでしょうか。我々の食べ物は、お口に合いますか?」
見知らぬ者たちの中で残されることを少し不安に思っていた桜は、マシロの心遣いを正確に理解し、感謝した。
「はい、大変おいしくいただいております。もともと我々は、生きているものの命を頂いて生きているという教えでございますから、いつも残さずいただくということを一番大事にしておりました」
「そうですか。では酒もいけますか?」
にこりと笑って差し出された徳利から猪口に注いでもらう。
「ありがとうございます。・・・実は大好きなのです」
桜は少し赤くなりながら答えた。
「ほう、それは頼もしい」
マシロがニコリと笑う。当人は白湯の入った湯のみを持っている。
「マシロ様はお飲みにならないのですか?」
「ええ。私は長の護衛も兼ねておりますので」
「まあ。それは大変でございますね。四六時中でございましょう?」
「ま、実際長の身になにかあっても、ご自分でなんとかしてしまわれる方なのですが」
「黒の宮様にお会いしたのは、これで数度くらいですけれど」
桜が考えながら言う。
「あの記憶を変えてしまうというお力はとても凄いものですね。自らにかけられた呪詛も跳ね返しておしまいになるし」
マシロが笑った。
「ええ。ああいった術になると、この世の中でも長の右に出る者はおりますまい。それを鼻にかけているところが困りものなのですが」
「そうなのですか?」
「正直、桜様が来てくれて私はとても嬉しいです。どうぞいらっしゃる間に、あの方の鼻っ柱を叩き折っていただきたいもので」
「まあ。私にそのような力など」
「ふふ。あなたがいらっしゃるだけで十分なのですよ」
マシロがにこりと笑う。
「あの方は、今まで何でも手に入りすぎたのです。思い通りにならないということがなかった。あなたの存在が長の初めての挫折になるやもしれません。そのことで起きる長の変化が、私は今から楽しみでなりませぬよ」
次に浮かべた笑いは、悪魔の笑いだった。正直桜は何を言われているのかさっぱりわからなかったが、とにかく歓迎されているのだなと理解した。
「マシロ様、ミイロ様、そして黒の宮様。みな猫の毛色なのですね。鈴は違うようでございますが」
つまり、マシロは白猫、ミイロは三毛猫なのだ。
「ああ、あなたには本性が見えるのでしたね」
マシロが微笑む。
「私もミイロも、そう名づけたのは長です。以前は別の名を名乗っていたのですが、お傍に上がる時にそう呼ぶと宣言されまして。呼び名に色が入っている者たちは、何かを取りまとめる役を持つ者ですね」
「ああ、なるほど。それは一つの習わしであるわけですね」
「いや、単純に長が名を覚えられぬだけですよ」
マシロがばっさりと切り捨てる。
「おかげで私は、お傍にあがると同時に名の通りの毛色の猫たちを必死で探す羽目になりました」
「ほほほ・・・それはご苦労さまでございました」
「以前、茶色の猫が二匹お傍にあがっていたのですが、長は悩まれたあげく、チャとチャチャと名づけられたのです。しばらくして、どちらがチャでどちらがチャチャかわからなくなり、最終的に二人を地方へ飛ばしてしまいました」
「ええ?どういうことでございますか?」
「安芸のチャ、肥後のチャと呼び分けるためでございます」
これには桜も笑ってしまった。
正面にどっかと男が座った。桜は驚いて目を見張る。しかしその男がにこにこ笑っているのでとりあえず笑い返した。
「このような美女をマシロに独り占めさせるのは惜しい。まあ一献」
体格の良い男だったが、顔はやはり整っている。彼が徳利を持つと、オモチャのようにも見える。桜は微笑んでそれを受けた。
「いやいやしかし美しい。一族のおなごといえど、うちの長と並ぶとやはり見劣りがしたものだが、桜様は全くひけを取りませぬな」
目を細めてそう言う男にやんわりと笑いかけた。
「そのようなことはございませぬよ。ここに来て思ったのですが、こちらの一族の皆様は、本当にお美しい方ばかりですね。男の方も、おなごの方も、皆様お綺麗でいらっしゃる」
また男が寄ってきて、桜の猪口に酒を注いだ。
「そうですな。我々は、代々面食いばかりです。見目かたちの良い者がおなごどもに好かれ、自然と美しい者たちばかり残ったということでしょう」
「まあ、そうなのですか?」
また別の男がやってきて、桜の猪口を取りあげ、湯呑みを置いてたっぷりと酒を注ぐ。
「外見が美しいというのは、我々一族にとっても大事なことなのですよ」
「それはどういうことでしょう?」
「我々の本当の正体は、絶対の秘密です。たいていのことは外見に惑わされ、我々のことを深く追求する者はおりませぬ。ちょっと冷たくすれば、たちまちにあちらの方が謝ってくるくらいですからね」
「除霊など、実際胡散臭い商売ですよ。しかしこの外見をもってすれば信用を得やすい」
「護衛もこの顔のおかげでたくさんの依頼が入ります。それはやはり、守ってもらうにも見目の良い者を傍に置いておきたくなるのは自明の理ですし」
「なるほど。皆様が人の中で生き残るための手段だったのですね、その美貌は」
桜は深く感心しながら聞いていた。男達が次々に注ぐ酒を空けるのも忘れない。
「でも桜様くらいの美貌の持ち主には、我々のこの武器は通用しませぬよなあ」
「そうじゃそうじゃ」
「対抗できるとすればうちの長くらいで」
「実際いかがですかな桜様」
男達が身を乗り出してくる。
「な・・何がですか?」
「決まっておりますでしょう。うちの長ですよ。正直、どうお思いで?」
桜は困ってやんわりと笑った。
「どう、と言われましても・・・それはお美しい方だと思います・・・」
「それで?」
「え・・・?ええと、他には、並外れた術者でいらして、高貴なお方で、皆さまを上手く取りまとめていらっしゃって、でも慕われておいでの方だと」
男達は大げさに落胆してみせた。
「ああ、報われぬのお、長の想いは」
「なにが報われぬのじゃ!」
大きな声で乱入してきたのは、当のクロだった。大きな徳利と茶碗を持ったまま、桜の横にどっかと座る。
「お前ら、手を出したら殺すと言うてあったよなあ?」
ぎろりと男達を睨む目は、すでに酔って据わっている。
「手など出しておりませぬよお、長」
「そうそう。桜様が長のことをどう思っていらっしゃるのか聞いていただけで」
「お前らに心配されるいわれなどないわっ!桜は女房じゃと言うておるじゃろうが」
「はいはい、さようでございますねえ」
男達がニヤニヤと笑う。
「マシロ。最近の長の様子を桜様に話して差し上げろ」
「なっ・・・?!べべべべ別にわしは普段と変わったところなど・・・っ!」
「長には聞いておりませぬ」
「さようですね、異変を感じたのは、一月ほど前のことでしょうか」
マシロは澄ました顔で話し始めた。
「一月前といえば、なにがありましたかの、桜様?」
「えっ?ええと・・・ああ・・・皇后様のご不調でしょうか」
「そうそう、それからです。長はたびたび牛車を呼ばれるくせに、準備ができるとやはり行かぬと仰せられて」
桜が首をかしげる。
「どこに行かれたかったのです?」
それを聞いて、周りの男達が大げさにため息をついた。
「ああ・・・長・・・ほんとうに報われませぬなあ・・・」
「あのなお前ら・・・」
「それからどうなったのだ?マシロ」
「ただでさえ出不精の長は、すっかり引きこもられてしまって。ただぼんやりと庭を眺めてはため息をつき、ぽつりぽつりと呟かれ・・・」
「なんと呟いておられたのじゃ?」
「『ああ、会いたいものよ・・・』と」
「う、嘘を申せっ!そのようなこと呟いた覚えはっ!」
「念話でも、考えておられることがだだ漏れであることさえもお気づきにならず」
「ええっ?!」
「『なんと美しいおなご・・・しかし立場上手を出すわけには・・・』などと」
男達はニヤニヤと笑い、クロの必死の問いかけの視線にその通りだとうなずき返す。クロは思わず頭を抱えた。
次に男達は、桜の反応を様子見た。桜は上気した頬に手を当てて下を向いている。男達は顔を見合わせ、ニヤニヤと笑って桜の言葉を待っていた。
「少しわからぬことがあるのですが・・・」
桜はようやく顔を上げ、マシロに聞いた。
「はいはい、どのようなことでもお尋ねくださいませ」
男達が身を乗り出す。
「念話・・・というのは?」
「えっ、そこ?!」
男達が驚愕するくらい、桜は自分の話だということに全く気づいていないようだった。上気した頬は、単純に酔ったためだったのだ。
「ね、念話というのは、我ら一族に伝わる術です。お互い一度会えば、口に出さずとも思うだけで会話ができるのですよ」
「まあ、それは大変便利な術でございますね。私にもご教示願えるのでしょうか」
ぱっと桜の顔が明るくなる。
「い、いや、それは無理かと。人との念話は過去にも試したことがあるのですが、いずれも失敗に終わっておりますゆえ」
「まあ・・・それは残念です・・・」
しゅんとした顔がまたかわいらしく、男達は思わず目を細める。
「長・・・これは難敵ですな」
「浮世離れしておるとはご自分で仰っておったがまさしくその通り」
こそこそと耳打ちされ、クロは思わずうなずいた。
「い、いやいや!だからの、わしは別に・・・っ!」
「これならはっきりするでしょう!桜様、今日のことです!」
マシロもやけにムキになって言い募る。
「今朝、勅命が届いた後、長は・・・」
「長」
女たちがどっと場に乗り込んできた。クロにベタベタと抱きつく。
「な、なんじゃお前ら」
面食らうクロに、女たちは桜に見せつけるかのように扇情的に絡みつき、ちらりと桜を見る。
「もうずいぶんとご無沙汰ではありませぬか・・・今宵こそ、可愛がってくださいますよねえ?宴会も久しぶりなことですし」
「ええい、やめんか!桜がおるのに・・・」
「あら、桜様は長の女房でしょう?お身の回りの世話をするお仕事でおいでになった。・・・それとも桜様は、下のお世話までなさるのですか?」
「えっ・・・?」
刺すような女性たちの視線に、桜は驚いたように目を見張る。そして真剣に考え込んだ。
「そうですね・・・女房の仕事というのがどのようなものか、正直わからないのですが・・・しろと言われるのでしたら」
桜は覚悟を決めたような顔で頬を紅潮させ、真剣に続けた。
「恥ずかしいですか下履きの洗濯もいたします」
場の空気が一気に緩んだ。クロも思わずガクっと肩を落とす。
「まあ、これが桜ということじゃな」
「はあ・・・これは難敵ですな、長」
「え、どういう事でしょう?何か間違っておりましたか?あの、どうぞご教示くださいね」
オロオロと赤い顔で辺りを見廻す桜を見て、皆が苦笑した。
毒気を抜かれたていの女性陣が退散し、男達は、くいくいと平気な顔で湯のみを空ける桜を面白がって次々に注いだのだが、潰されたのは男達の方だった。
最終的に残ったのは、まったく酒を飲まないマシロと、自分専用の酒を適当に嘗めていたクロ、そして桜だけとなった。
桜がほう、と熱い息を吐く。
「ここまで男達を潰しておいても平気な顔をしておるとは、可愛くないの」
クロがからかうように言うと、桜が笑った。
「いいえ、さすがに酔いました。みなさまお強いのですね」
確かに笑い方が最初より柔らかくなり、頬が薄っすらと赤らみ、目が潤っているように見えるが、その他に変化は見られなかった。
マシロが笑って白湯の入った湯のみを差し出した。桜は礼を言って自分の膳に置く。
「とりあえず紹介はしたが、おなごどもにはよく思われることはないであろう」
「・・・はい」
桜がしょんぼりと返す。
「黒の宮様は、みなさまに絶大の人気がおありなのですね。それはこの宴会でよくわかりました。おなごの皆様から見れば、人間である私がお傍にあることは面白くないのでしょう」
クロが目を見張って桜を見る。
「ほう、そういうことはわかるのか?」
「え?どういう意味でございますか?」
「いや・・・いい」
クロは苦笑して首を振った。
「とにかく、うちの一族は男もおなごも血の気が多い。今はわしの手前大人しくしておるが、いざそなた一人でおるところを見たら、何をしでかすかわからぬところがある」
「・・・」
「おなごと言えど、人間と一緒にしてもろうては困る。あやつらの身体能力は並の人間の男よりはるかに高いからな。そなたのような細首など、簡単にへし折ってしまうじゃろう。男は言うに及ばず。あいつらがそなたを見た時のあの欲情した目といったら。わしの女房でなかったら、即刻どこかへ拉致され、乱暴されておっただろうよ」
桜は真剣な顔をしてクロを見つめる。
「それゆえ、なるべく一人にはなるな。まあそなたの部屋があるところまでは、一族の人間といえど限られた者しか出入りはできぬ。常にわしの傍におるのが一番安全じゃが、わしが居れぬ時には、必ずマシロか鈴をつけるようにしておく。よいな」
「はい・・・」
桜は湯のみを取り上げ、ぐいと空けた。
「あっ、それは長のっ・・・!」
「おいおい・・・」
桜はいきなり昏倒した。