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クロと桜  作者: けいりゅう
2/8

一章

「長。またなにをお考えで?」

 低く、よく響く声をかけたのは、整った容姿を持つ色白な男だった。手に書状を持っている。

 皇后の事件からはや一月、クロはそれからずっと、正体をなくしたかのようにぼんやりと過ごしていた。

「マシロか。なんじゃ」

 クロはだらしなく脇息にもたれた格好のまま返す。それでもその姿は絵にかいたように美しく、どこか儚げでそして魅惑的だった。切れ長の目はずっと、庭を見つめて動かない。どんな美しいものにも一向に頓着しないマシロは呆れたように言った。

「いくら暑いからといって、そのように胸元をはだけたままでは、長として示しがつきませぬ。皆の前に出るときには、きちんと整えてくださいましね」

「ここまでは限られた者しか来られぬだろうが。たまにはくつろぎたいのじゃ、わしも」

 マシロは長であるクロの傍にあり、秘書のような役目を果たしていた。有能な彼がいるおかげで、クロはこうして日中から呆けていられる。端整な容姿と柔らかい物腰、そして有能で利発なマシロは、実は一族中の女性陣の中でも人気があった。しかし彼自身はクロの世話のみをこなし、他のことには目もくれない。

 一族の女性は、世の人間の男達にもその美貌で絶大な人気があり、彼女たちが粉をかけた男で落ちない男はいないというくらいの粒ぞろいだったが、唯一落とせないのが長とその傍にいるマシロだというのがもっぱらの噂だった。

「いつもくつろいでばかりのくせに、働き者のようなセリフを言わないでください」

 マシロは長であるはずのクロに対し、つけつけと言う。本来ならば絶対的な権力を持つクロにこのような口をきくものなどいないはずだが、マシロの日ごろの献身ぶりとクロのいい加減さを比べれば、どちらに非があるのかは自明の理だったので、マシロはそれでよいと一族の中でも認められていた。

 クロは面倒くさそうに髪の毛をかき回す。直毛の艶やかな髪は、多少乱れたところで、すぐに元に戻るのだが。

「あ~もう、うるさいのう。用があるのならさっさと言え」

「はいはい。帝より書状が届いております」

 自堕落な格好のままそれを受け取り、面倒そうに開く。さらさらと読み下していくうちに、姿勢がどんどんまっすぐになっていき、最後に勢いよく立ちあがった。

「マシロ!」

「は、はい!」

「湯浴みじゃ!今すぐに用意せいっ!」

「は・・・?」

「急げよっ!」

 言い捨てるなり、大股で浴場へと向かう。マシロは首をかしげながらも急いで念話を飛ばして湯浴みの準備をさせた。

 クロは雅な香を焚きしめた水干を用意させ、念入りに身支度を整える。

「どうじゃ?」

 クロは周りの男達の呆れた表情と、出口までに出会った一族の女性たちの頬を赤らめた反応を満足げに確認すると、

「桜神社まで頼む」

「はは~ん、なるほど」

 登庁するには正装でないとならないが、今クロが用意させたのは簡易な水干だ。その割には念入りに香を焚き染めたり、湯浴みをしたり、一体どこに行くつもりだろうと首をかしげながらその様子を見ていたマシロだった。行き先を聞いてようやく理解した。

「な・・・なんじゃ?」

「いえ別に」

 別にと言いながら、笑顔でクロを見る。クロはわかっていながら赤面し、むきになってしまう。

「なんじゃと言うておる!これはな、帝からの命令なのじゃ!勅命をもってしては、その・・・行くしかなかろうて!」

「さようでございますねえ。湯浴みをし、素晴らしい水干を着て、ね」

「そ、それは当然じゃろ?勅命なのだから、それを伝えるには相応の支度というものが・・・わしは大臣じゃしな」

「はいはい、まことにもってその通りでございます」

「ではその含んだような笑いはやめよっ!」

「もともとこういう顔でございますよ、長。どうぞお気になさらず」

 マシロはにこりと笑い、正面を向いた。クロは口をパクパクさせたが、それ以上継ぐ言葉が見つからず、むっつりと黙り込む。それを感じたマシロがまたクスリと笑ってクロをムッとさせた。


 そうこうするうちに、牛車はゆったりと神社の敷地内へと入っていった。普段、身分の低い者は敷地内の俥の乗り入れはできない。そこは大臣、天上人なだけあってクロは悠々と社殿の奥へと俥を入れた。

 庫裡の中から転がるようにして神社に務める禰宜(ねぎ)が出てくる。桜の巫女に用がある旨を伝えると、彼女は今、社殿の庭園で除霊の真っ最中だという。

「ちょうどよい。巫女がどのように除霊を行うのか前回は見損ねた。少し見学させてもらうとしよう」

 クロがそう言うと禰宜はかしこまって前に立ち、クロとマシロを案内していった。

 少し進むと見事な庭園が見えてきた。その真ん中の地面に緋毛氈(ひもうせん)を敷き、その上に座る男と、脇に立つ巫女装束の女がいた。

「おやおや、これはすさまじいの」

「ええ・・・憑き過ぎて、顔が見えませぬな」

 クロの呟きにマシロが小さく答える。二人が思わず感想を漏らしてしまうくらい、座っている男の背中には大量の霊が覆いかぶさっている。

「一体どんなことをすれば、あのように大量の霊を憑けることができるのやら」

 クロが言った言葉を受けて、マシロが問う視線に、禰宜が答えた。

「あのお方は裕福な商人でいらっしゃいます。体の不調を訴えられてこちらにお見えになったのですが。・・・お二人には見えるのですか?あの方に憑いている霊が。桜様は一目見るなり、すぐにあそこへお連れになられて」

「そなた、ここで修行をしている禰宜であろ?あれだけすさまじい霊が全く見えぬのか?・・・それは才がないぞ。この道は諦めた方がよかろう」

「は・・・あの・・・申し訳もございませぬ」

 禰宜が恐縮して頭を下げる。

「まあよい。案内ご苦労。あとはこちらでゆるりと見学して、桜の巫女とともに戻ろう」

「さ、さようでございますか。では私はこれにて・・・」

 禰宜は飛ぶようにもと来た道を戻っていった。マシロが申し訳なさそうな顔をして頭を下げる。

「クロ様。あのような厳しいことを」

「しかし事実じゃ。ここにおるだけでも瘴気が大量に流れてきて気分が悪くなるくらいじゃというに、あやつは見えぬというのじゃからの」

 実際クロは、流れる瘴気に顔をしかめ、扇子で口元を覆っている。

「さて、お手並み拝見といこうかの」

 巫女は見学者にも気づかぬ風に、桜の枝を両手に持ち、静かに目を閉じて祝詞(のりと)をとなえているようだった。男に憑いている霊たちは、物欲しげに巫女に手を伸ばすが触れる寸前で何かに弾かれたようにひっこめる。

 巫女が目を開き、枝を男の上で右から左に動かした。シャン、と澄んだ音がする。

「む・・・?鈴の音・・・?」

 クロがいくら目を凝らしても、それはただの枝だった。ついているのは葉だけである。それが巫女が左右に振るたびに、シャンシャンと涼やかな鈴の音がするのだった。

 霊は鈴の音と共に薄くなり、男から離れていく。やがてすべての霊が消え去った。

 空気は清浄なものとなって、かえって清々しい。

 巫女はポンポンと男の両肩を枝で叩く。両手でうやうやしく枝を目の高さまで持ち上げ、軽く頭を下げる。それが最後の合図だった。

「ほう。綺麗さっぱりなくなりましたな」

 マシロが感心したように小声で囁いた。クロは無言でうなずく。

「終わりました」

 巫女が静かに男に声をかけた。

「しかし、これであなたの業がなくなったわけではありませんよ。また人に恨まれるようなことをすれば、次には命も落としかねませぬ。大いに反省し、周りの方々に今まで受けたご恩をお返しすべく働かれてはいかがですか」

「・・・はい・・・はい」

 男は涙を流し、ただうなずいている。

 巫女はにこりと笑いかけた。

「どうぞ、感謝の心を忘れずに」

「はい・・・」

 ようやく巫女は、クロたちに気づいた。男も振り返り、クロたちの身なりでそれが相当な身分の者だと気づくと、慌てて深く頭を下げ足早に去っていった。

「黒の宮様。お久しゅうございます」

 巫女はやんわりと笑い頭を下げた。クロは赤面し口ごもる。

「いや・・・そう・・・じゃな。・・・久しいの、巫女」

「はい。今日はどうなさったのですか?」

 巫女はクロの身分などまったく意に介さないように自然に受け答えをする。話しながら使っていた枝をそっと脇の地面に刺した。

 不思議なことにこうして巫女が地面に刺しただけの桜の枝から、翌年には花が咲く。故にこの神社は通称、桜神社と呼ばれていた。

「ああ・・・あのな、勅命がくだっての」

「勅命」

 巫女はまっすぐにクロを見て首をかしげた。

「そのような上の方々の話が、私と関係のあることなのでございますか?」

「ああ。そなたと共に、事に当たれというのじゃ」

「私と?」

 巫女は先に立って庫裡の方へ案内していく。

「先日の皇后の一件で、帝はそなたを大変お気に召したようじゃ。今回の問題に際し、わしと組ませるのが一番よかろうということでな」

「詳しくお聞かせくださいませ」

 庫裡の中で、巫女は二人に白湯を手ずから入れてもてなす。

 クロは脇息にもたれ、巫女に事情を説明した。

「実はの、帝の呪殺計画があるとか」

「・・・」

 巫女の表情が引き締まる。驚きの声を上げるだろうと予想していたクロは、むしろ感心した。

「それでわしに隠密に調査せいということなのじゃが・・・帝いわく、わし一人では頼りないというのじゃ」

 巫女はかわいらしく首をかしげ、先を促した。

「今回の相手は相当に身分が高いという噂があるゆえ、わしのような無粋者ではもし相手を間違った場合に政争になりかねぬと。まったく失礼な話じゃが、確かにわしは直接に動いてしまうでな。先触れじゃ、方違(かたたが)えじゃとのらりくらりするのは好きではない」

「しかし、私も政などにはまったく縁のないところにおります。お力にはなれぬかと・・・」

「それがの、帝の前で結果を報告しに参内した際の、そなたの落ち着きと要領よく説明した姿が印象に残ったらしいのじゃ。美しいだけでなく、大変利発で気が利いたおなごである、とな」

「そのようなことはございません。私も大変緊張いたしましたし」

「いや、まったくそれは表には出ていなかったぞ。周りの公達たちもそなたの美貌と落ち着きに相当興味が湧いたようでの。わしはあの後、参内するたびに囲まれてそなたのことを聞かれる始末」

「まあ」

 巫女は困ったようにやんわりと笑った。

「それで、私に何をせよとおっしゃるのですか?私はここで育った身。とてものこと、清涼殿でのお勤めは無理でございますよ」

 清涼殿は、皇后を筆頭とする帝の妻たちが住む、女の園である。その世話をする女房として清涼殿に勤めることは女性として最高のステータスであり、将来の伴侶もよりどりみどりである。

「清涼殿とは言わぬ。わしの女房として共に働いてもらいたい」

「・・・黒の宮様のお屋敷でですか?」

 巫女が美しい目を見張った。

「当然仮の立場ということになるが、とにかく帝はそなたを傍に置いて共にことに当たれとおっしゃるのでな」

「しかし、私にはここでのお勤めが・・・」

「それについては心配無用。・・・マシロ、呼べ」

「もうここに着いておるはずですが・・・」

 マシロがキョロキョロとあたりを見回す。

「わあっ!」

 クロが声を上げた。それもそのはず、ストンとクロの膝の上に女が降ってきたからだ。

「な・・・なっ!」

 あまりのことに言葉も出ない。クロは反射的に首に回される女の腕から逃れようとした。

「長。とうとう私をお呼びくださいましたのね。・・・ああ、ミイロは本当にこの時を待っていたのでございますよ・・・長・・・」

「ま・・・待て待てミイロ!とりあえずお前、衣を羽織れ!なんで裸なのじゃ!」

 クロの厚い胸にぴったりと寄り添い、ミイロはうっとりと目を閉じた。その裸身は見事なプロポーションで、黒く長い髪が体の一部を隠すのがいっそう艶めかしい。

「だって急なお呼び出しなのですもの。猫になってここまで全速力で駆けてまいりましたのよ。ああ・・・長」

「こらっ、人の胸元に手をしのばせるなっ!マシロ、早う衣を用意せぬか!なにをそこで笑っておるのじゃ!」

 最初はあっけに取られて目を見張っていた巫女も、ついにはこらえきれずくすくすと袖で口を覆って笑い出した。

 ミイロは渋々クロの膝から降り、衣を羽織った。

「このような場所での交合(まぐあ)いとは、長もなかなか趣向に富んでいらっしゃると楽しみにしておりましたのに」

「お前・・・俺の呼び出しがそれだと思うとは」

 クロは思わず額に手を当てた。

「だって長、私が長のことをお慕いしていることは常々申し上げておりますでしょう?一族のおなごが皆、日々精進を重ねて美しくしておるのはすべて長と結ばれるため。なのに長ったら最近は全く・・・」

「わぁかった!もうそれ以上は申すな、神聖な神に仕える巫女の前じゃぞ!」

 そこで初めて、ミイロの視界に桜の巫女が入ったようだった。改めて検分するように上から下まで眺める。

「・・・人間、ですね」

「お初にお目にかかります、ミイロ様」

 巫女はやんわりと微笑みを浮かべ、すっと湯呑を差し出す。ミイロは警戒するように目を細めてなおも観察を続ける。

「長・・・。このところの不調の原因は、このおなごですね」

「何を申すか。不調などと・・・」

「確かに美しい。それは認めましょう。ですがこのおなごは、まだ生娘でございますよ?一旦交合いとなれば、それは私の方が絶対に・・・」

「だ~か~らっ!」

 クロは真赤になりながらミイロの演説を止める。

「交合いのためにそなたを呼んだわけではないわいっ!人の話を聞け、ミイロ!」

 マシロがくっくっと後ろで笑うのを、クロは腹立たしそうに睨んだ。

「お前、わざと説明せずにこやつを呼んだな?」

「わざととはまた、とんでもございませぬ。長がお急ぎのようでしたので、ご命令通りすぐに来いと伝えたまで」

 マシロは澄ました顔でそう言う。クロはまたマシロを睨むと、ごほんと咳払いをして巫女の方へ向き直った。

「ええ、紹介が遅れたが、これがうちのミイロじゃ。まあこのような破天荒な性格ではあるが、除霊はことのほか上手い。こやつをそなたの代わりにここに置いておく」

「ええっ?私が巫女になるのですか?」

 ミイロが不満そうに声を上げた。

「そうじゃ。せいぜい精進せい。くれぐれも言うておくが、ここの禰宜や訪問客などを食ってはならぬぞ」

「え~?・・・では、あちらから言われた場合はよろしいですよね?」

「ならぬ。そなたは加減というものを知らぬからの。男の精をとことんまで絞り尽くしてしまうゆえ、並の男では足腰が立たなくなってしまうであろうが」

「それでも、世の男たちはそれが好きなのですよ?それはもう、泣いて喜んで・・・」

「最後にはもう勘弁してくれと泣くのであろうが」

「・・・ではその一歩手前でやめるようにいたしますから」

 クロは大きなため息をついた。

「巫女様。長の命とあらば仕方ありませんから、私は今からあなたの代わりにここで面白くもない除霊を引受けますけども、その体は清純であらねばなりませぬか?」

 ミイロはきつい目で巫女を睨みつけた。巫女は柔らかく笑って首を振った。

「いいえ、そのようなことはございませぬよミイロ様。あいにくと私は未熟者なので、身が清らかでないと浄霊が出来ないのでございます。能力の高いお方には全く関係のないお話ですから」

「巫女、そう言うてしもうたら、ここはミイロの情事の場所となってしまうぞ」

 クロの懸念にも笑って首をふる。

「私がここで行っていることは、困っている方々の手助けでございます。ミイロ様にはミイロ様なりの人助けの方法がおありでしょうから、私の不在中はミイロ様にお任せしてかまわぬかと」

 ミイロは満足げにうなずき、ここは任せろと胸を張った。クロは苦笑し、それ以上何も言わなかった。


 牛車は巫女とクロを乗せ、ゆるゆると進み出した。二人乗りの俥であったため、マシロはその隣を徒歩(かち)でついていく。

「初めに申し上げておきますが」

「うん?」

「私は物心ついたときからずっとあの神社で育ってまいりました。相談においでになる方々の手前偉そうな顔はしておりますが、実は外の世界はほとんど知らぬと言うても嘘ではないのです」

 クロが笑う。

「ほう。そうなのか?」

「はい。・・・あの神社は皇后様にごひいきにしていただいておりますから相談者の中には女房もおいでです。そのお言葉のはしばしより女房の働きは少しは理解しておりますが、正直詳細なことはわかっておりませぬ」

「ふむ」

「そもそも、このように一つの俥に、主とその女房が乗ってよいものかどうか・・・」

 クロはそこまで聞いて、改めて巫女を見つめた。

「・・・つまり、そなたは今緊張しておるのだな?」

 よく見ると、巫女は狭い俥の中でぎゅっと端に寄り、衣でさえクロに当たらないように小さくなっていた。日頃人々に頼りにされることに慣れているためか、表情は全くいつもと変わらなかったが、注意して見れば、顔は少し紅潮し体を硬直させているようだった。

「それは・・・そうでございましょう・・・黒の宮様は成人した立派な男の方で・・・なのにこのような狭い場所で・・・きゃっ!」

 あまりの可愛さに、クロは思わず巫女に手を伸ばしていた。ついと引けば、たおやかに細く柔らかい体が自分の胸に倒れ込んでくる。

「な・・・何を・・・っ!」

「よいか」

「・・・!」

 巫女の耳元で低く囁くと、巫女はびくりと体を震わせた。

「女房というものは、こうして密室にいる間は主の好きなようにさせるものなのじゃ」

「えっ・・・!」

 驚きのあまり顔を上げたすぐそこに整ったクロの顔があり、巫女は慌てて目を伏せる。

「知らぬのは仕方のないこと。これからゆるゆると覚えればよい」

 震える巫女の肩を満足気になでていると、すいと御簾が開かれてマシロの憮然とした顔がのぞく。クロは思わず飛びのいた。

「長。世間知らずの巫女様に、ご自分の都合のよい嘘を教えないでくださいませね。・・・巫女様、今回のことは任務遂行のための仮のお立場。終わればまた巫女様に戻られるのですから、どうぞ屋敷内では今まで通りにお過ごしくださいませ。うちの長が無理無体を言うようでございましたら、どうぞ遠慮なくこのマシロにご相談ください。私が神主様に代わって鉄槌をくだします」

「は・・・はい」

 巫女は真赤になりながら身づくろいをし、マシロに頭を下げた。

「どうぞよろしくご教示くださいませ、マシロ様」

マシロは苦笑しているクロを睨みつけて御簾を下げた。


 屋敷に着いて、巫女は改めてクロの身分の高さを思い知った気がした。見上げるような巨大な門を、牛車は静かにくぐっていく。そこから広大な庭を抜けてようやく到着したのは、朱塗りの大きな柱が支える御殿だった。

 黙って俥を降りるクロの後についておずおずと巫女も足を下ろす。通常地面のはずなのだが、そこには柔らかい緋毛氈が敷いてあり、裸足のままで直接屋敷へ上がれるようになっていた。

 すたすたと廊下を歩いていると、クロが何かに気付いたように巫女を振り返り少し見つめた後、近くにいたマシロへうなずきかける。マシロも了承したかのように笑顔で頷き返すと、巫女の方へと歩いてきた。

「巫女様、お疲れ様でございました。お召替えの準備ができておりますので、どうぞこちらへおいでくださいませ」

「は・・・はい」

 案内されたのはとても広い部屋だった。思わず廊下に立ち止まり、外からつくづくと中を見廻す。衣紋掛けにかけられた色とりどりの衣装。その下にはこれでもかというほどのたくさんの籐でできた衣裳ケースが並ぶ。

 庶民ならば、それを売れば三年は優に暮らしていけるだろうと思われるほどの螺鈿がほどこされた瀟洒な文机に文箱。

「こちらが巫女様の私室になります。急ぎ取り揃えさせましたので、足りぬものがございましたらご遠慮なくお申し付けください」

「足りぬものどころか・・・これは私には、豪奢過ぎます」

「そう言うとは思うたのだがな」

 後ろから不意に声をかけられ、巫女は飛びあがった。

「く・・・黒の宮様!」

 本性が猫である一族は歩くときにも音をたてない。長であるクロはなおさら、気配さえ相手に感じさせず近づくことができるのだ。

 今さらながらに思い知って、巫女は心臓を宥めるのに苦労した。

「ま、わしはこれでも准の大臣なのでな」

「はい・・・えっ准の大臣?!」

 クロは巫女が驚くのを見て満足そうに目を細めた。

「知らなかったであろ?わしは意外に偉かったのじゃ」

「は・・・あの・・・失礼しました」

 その返答は、明らかにクロをもう少し下の位だと思い込んでいたという失礼極まりないものだとマシロは気づいていたが、それくらいの扱いで十分だと思っていたので敢えて黙っていた。クロは巫女の動揺が可愛くて仕方なく、まったく気づいていない。

「まあよい。そういうことじゃ」

「はあ・・・。でも私は、正式な女房ではございませぬし。仮住まいにこちらをお借りするだけでございますのに、この部屋は少し・・・」

「確かに正式な女房ではない。しかしそれは内密の話ぞ。外には、そなたは還俗し、わしの女房となったということにしてあるのだからな」

 しばらく考えていたが、やがて巫女の背筋がすっと伸びた。

「わかりました。黒の宮様の女房として恥ずかしくないよう、心掛けてまいります。お部屋をいただき、ありがとうございます」

 にこりと笑うと、静かに部屋に入り、一礼して障子を閉める。そして大きなため息をついた。

「・・・もし、巫女様。失礼いたします」

 女の子の声がかけられると、隣の部屋に通じる障子が静かに開いた。八才くらいの可愛らしいおかっぱの女の子がちんまりと座っている。本性が見える巫女には、それが小さな茶色い子猫であることを認識し、思わずにっこりとほほ笑んだ。

「あなたは?」

「はい、巫女様。鈴と申します。これから、巫女様の身の周りのお世話をさせていただきます。どうぞよしなにお願いいたします」

 ペコリと額がつくくらいに頭を下げる。

「鈴様。私はもう、巫女ではないようです。どうぞ、桜とお呼びください。これから女房となる身でございますが、全くの世間知らずなのです。こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」

 桜も鈴に丁寧に頭を下げると、鈴はうれしそうに破顔した。

「桜様。どうぞ私のことは、鈴とお呼び捨てくださいませ。さあさ、早速宴会が開かれるようでございますからお早くお召替えください。本来なら晴れの日でもございますし十二単が正装ではございますが、このお屋敷では形式より実務を重んじます。くれぐれも動けぬようにならぬようにと仰せつかっておりますので、今回はこちらの五衣をお召しになってください」

「・・・これを・・・着るのですね」

 桜が躊躇するくらい豪華な着物だった。本来五衣の上に表着、裳、唐衣とつけていって十二単が完成する。五衣など、ほんの襟しか見えない部分の着物であったが、用意されたものはびっしりと刺繍がほどこされ、これが唐衣でないのがおかしいのではないかと思われるくらいだった。

 鈴はくすりと笑い、内緒話をするように声をひそめた。

「長は本当に、桜様のおいでを歓迎されているのですね。今まで女房を置かれたことはなかったのですが、馴染みのおなごにもここまで豪華な衣装を贈ったことはないと、おなごたちが噂しておりましたよ」

 鈴は言いながらテキパキと桜に着物を着付けていく。これだけの衣装を着るには確かに部屋はこれくらいの広さも必要だと、桜はしみじみ思った。

 奇麗に髪をとかして緩く後ろで結わえ、薄く化粧を施すと、鈴は少し離れて自分の仕事ぶりを検分し、うなずいて満足のため息をついた。

「お綺麗ですよ、桜様」

「そんな・・・鈴のおかげでしょう」

「支度は済んだか」

 声を返す暇もなくがらりと障子が開けられる。桜は思わず袖で顔を隠した。

「長、いきなり開けては無礼ですよ。巫女様は・・・」

 マシロの声が途中で止まる。

 そっと袖を下ろした桜の顔を一目見るなり、マシロの口がぽかんと開いてしまったからだ。クロもマシロも硬直したまま何も言わないので、桜は急に恥ずかしくなり、また袖で顔を覆ってしまった。

「これはこれは・・・予想以上に美しいな。鈴、御苦労だった。そなたも一緒に宴会に来い」

「はい、ありがとうございます」

 鈴がうきうきと答える。

「これは、奴らに紹介するには目の毒かもしれぬの」

 クロが苦笑しながら桜の手を取った。

「さあわが女房どの、一族の者たちが待っておる。そなたを紹介しよう」

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