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輪廻の果てへ  作者: 葉和戸 加太
三章 アルジャーノン計画
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97 暴力の正当性

 後出しのカウンターが何故当たるか、理由の一つは個人の能力の違い。


 もっとも、そこまで力に開きがあったらカウンター以前に勝負にならんだろう。大事な事は沢山あるが、基礎能力は無視できんっちゅう話ですよ。


 では、次いってみよう。



2. 攻撃を読む洞察力


 パンチは様々な種類がある。最も速いものはジャブであり、それに続くのは同じ直線的なストレートだ。


 サウスポーの右構え(右足前)の場合、右手で繰り出すものがジャブだ。ジャブが最も速いパンチな理由は、単純に拳が相手に近い為である。


 ストレートは半身で構えた後方から繰り出すパンチで、威力が最大のパンチだ。相手までの距離が遠い為に速さではジャブに劣るが、距離を上手く使う事により、パンチに力を乗せるテクニックが使えるからだ。


 幅跳びを例にすると、助走が無い立ち幅跳びがジャブ。助走を付けた走り幅跳びがストレートパンチだと考えれば分かりやすいだろう。


 ストレートを打つには、半身に構えた身体を反転させ、相手に対して正面を向く動作が入る。この時に腰と肩を回転させるのだが、この回転の力を上手くパンチに上乗せする事がストレートのコツだ。


 ジャブとストレートは純粋に速さと威力を追究した攻撃だが、動作が直線的な為に読まれやすいという欠点がある。


 読まれてしまえば、余程の実力差が無い限りは防がれてしまう。読みを外す為、横のフックや縦のアッパーを使い、攻撃のバリエーションを増やすのだ。


 相手のパンチを読み、自分の攻撃は敵の意表を突く。これこそカウンターに必要なものだ。多様性がミソなのですよ。


 カウンターを成功させるには経験を積む必要があるが、僕にとって経験といえるものは空手の組手くらいで、実戦経験、暴力を伴う喧嘩は皆無である。


 だだし、人間としての経験は無いが、人外に生を受けた時には、それこそ生死が掛かった闘いを繰り広げてきた。生き残るにはそれが不可欠だった。


 仏教で言うところの畜生道に堕ちとったのかもしれんが、仕方ないやん。実際に畜生やった訳やし。


 生命を受け、どの様な行いをしたかで来世の運命が変わると言うが、畜生に生まれたのなら、畜生として生を歩むしか無い。肉食獣に生れれば、他の生命を喰らう以外に生きる術は無いのだ。


 では肉食獣に転生したなら、次の転生先は哺乳類以下になるんか?


 昆虫や爬虫類? それとも魚類?


 そう考えると百獣の王と呼ばれるライオンはカッコ良いが、転生先としては外れなのかもしれない。


「アナタの来世はライオンです。しかし、来来世はプランクトンです。」


 どうなんや、コレ。食物連鎖の上位になるほど転生条件がシビアになる。


 そう考えると、どんな善行を積んだのか、我ながら良く人間まで這い上がってこれたもんだと思う。


 かつてオウム真理教を言う集団が、無差別テロを行った理由付けで、ポアという考え方をしていた。



(問1)

 ここに一人の悪人がおり、今後も更なる悪事を重ねるであろうと思われる。彼を救うには如何にすれば良いでしょうか。


(解1)

 彼を殺害します。死ねば更なる悪行を積む事はありません。未だ悪行が少ないうちに輪廻へ送る事こそ、彼にとっての救いなのです。


(問2)

 悪事とは何ですか。


(解2)

 我らの教義に反する事。教団と相容れぬ者こそ悪である。



 これが彼らのポアである。殺人について理論武装をしたのだ。


 ムチャクチャや。


 冷静に考えたら、こんな思想に感化されるのは頭がおかしい。しかし、入信した信者たちの中には教養の高い者達が多くみられた。勉強が出来てもどこか残念な人の典型だろう。どう生きるべきかという問題に明確な答えなど無い。


 信教の自由という権利がある。原則として、どんな宗教でも認められるべきだと思うが、ならばオウム真理教も認められるべきだろうか?


 僕は認めるべきではないと思う。何故なら、彼らは己と異質なモノを認めない。暴力により排除しようとするからだ。これでは共存する事など出来ない。


 事件を知ってか知らずか、オウム真理教の後継団体に入信する者がいると聞く。


 闇が深いぜ。


 現代日本なら、調べようとする意志さえあれば、当時の所業を幾らでも知る事が出来る。実行犯達と組織を引き継いだ人間に、どこまで関係があったか分からないが、根本にある思想に違いはあるのか。


 オウム真理教に限らず既存の宗教にも、その長い歴史の中で虐殺ジェノサイドが行われたのは事実としてある。あくまで異端とされる少数派に限るが、現代でも自分達と考えの異なるものを暴力で排除する問題は克服されていない。


 また、中世のような暴君に対しても非暴力を唱え、家畜の如く従う他ないのかという疑問もある。時には自由を守る為、力の行使が止むを得ないケースもあり得ると思うが、これはテロを肯定する事になりかねないので、慎重になる必要がある。


 オウム真理教のテロ行為を、感情論を排し客観的に見つめ直した時、例えわずかでも同情できる余地は残っているのだろうか。


 答えは断じて否である。


 民主主義の法治国家の場合、選挙制度を利用して自分の意思を国政に反映させる手段がある。事実、オウムは選挙に候補人を立てたが、民意がこれを拒否した。


 拒否されたオウムが取るべき道は、地道な布教活動を行い多数の信者を獲得し、再度の挑戦をすべきだった。


 ローマ帝国から壮絶な迫害を受けたキリスト教徒は、地道な活動の末に自由を手に入れた。合法的に信仰が認められていたにも関わらず、更なる現世の利権を求め暴力を選んだオウムとは、同じ宗教として比べるのも失礼な話だ。


 所詮しょせんカルトの悲しさか。


 今も残る後継者達がどのように思っているのか分からないが、彼らが再び宗教として認められるには、何世代にわたる地道な活動実績の評価が必要となるだろう。

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