94 心の枷
何だか話が難しくなってきたが、社会問題まで発展すると僕の手に余る。難しい問題は大人に任せ、出来る事だけやっていこう。
とりあえず良かったのは、キュウ一家を敵に回しても実害が無い点だ。将来的にどうなるか知らんが、学校にいる間を除き、日常生活には何の影響もない
そうと分かれば取れる対策にも幅が出てくる。
最優先となるのは家族の安全、特にハナ姉だ。わんぱく少年のケン兄についてはよっぽど大丈夫だと思うが、念には念を入れたほうが良いだろう。
剣道場の先輩たちに事情を話し、彼らが絡まれたりせんように注意して欲しいとお願いすると、快く引き受けてくれた。
「分かった。俺らに任せとけ。」
「すげぇやっ気になっとっな。」
「女の子に良かトコ見せたいんだろ。」
「悪かか。わいは引っ込んどれ。」
うーむ、このヒトら送り狼にならんやろな。頼むでしかし。
まあ、考えてみたら男の子にとってやる気になるシチュエーションかもしれん。
・正義は我にあり
・お姫様を守る英雄役
大義名分があり、女の子の前でカッコ付けられる。張り切るのも分かりますな。
因みに、キュウ一味である武家の子は旧権力者サイドに属しており、剣の道場も別流派である天地自在流を学んでいる。
天地自在流か、立派な名前しとるやん。
その剣の奥儀は敵との間合いを制し、戦いの空間を自在に操る事にあるという。相手の心理を読んで繰り出される返し技に重きを置いている。
先日の僕との試合ではカウンターの取り合いとなったが、相手の得意分野で戦わされとったっちゅう事やな。そら負けるわ。
僕が学んでいる自顕一刀流はカウンターではなく、己が至上の一撃を敵に先制し叩き込む事に神髄がある。
自が顕ると書いて自顕流。
己の敵は自分自身と考え、敵の動きに呼応するのではなく、自分の力を最大限に発揮する事を良しとする。力及ばざるは死ぬまでよという、達観した死生観が垣間見える。
そのスタイルの違いもあり、お互いの事を道場剣術で実践では役に立たんとか、田舎剣術で優雅さに欠けるなどと批判し合う事があるという。
さて、剣術談義はともかく、残る問題は僕自身がどうするかだ。
心は決まった。先生に言い付けるのである。
ええぇ~⁉
ここまで来てそれか、ヘタレ野郎め。
いや、これば僕なりの決意表明のつもりだ。平和的解決の為の手段は尽くすが、これ以上手を出して来たら許さんという、最後の一線がここだ。この最終ラインを割ったらぶちのめすと心に決めた。
喧嘩がしたい訳じゃない。たとえ自分と意見が違うにせよ、相手の全てを認めないのは心が狭い。ただし、自分に害がない範囲においてはである。
今回は自分だけではなく、家族にまで手を出しやがった。
物事の解決に暴力は最終手段だが、話し合いが通じない時に必要となるかもしれない。または、力があるからこそ対話に持ち込める場合が殆どだ。前世の国際情勢を振り返れば枚挙に暇がない。悲しい事やけどね。
力こそ全てとまでは言わない。前世でも今の世界でも、殆どの人は善良で良い人ばかりだ。しかし、話が出来んヤツってのはどこの世界にも存在する。魔術契約で望んだ事と矛盾する考えではあるが、全ての問題が話し合いで解決する程、世界は単純ではない。
そして、ついでと言っては何だが、自分の心の枷を取れるかを試してみたい。心の枷とは、他人に暴力を振るわないという良心である。
他人に対して暴力を使い、自分の意に従わせるのは最悪だ。そんな事をするヤツとは共存できないとも思う。だが、自衛に暴力が必要な時が出てくるかもしれん。
今の世界は前世と比べると治安が悪い。僕たちの暮らす北区は陸軍の駐屯地で、ワカやゴンの親たちのような侍(軍人)が規律を保っている為、他地区よりは安定している。
しかしながら外に目を向けると、魔石採掘を目当てに集まった地方出身者が多い西区では、気性の荒い者が多く盗賊が現れる事もあると聞く。
運悪く盗賊と対面した時、身を守る為とはいえ人を傷つける事が出来るのか?
前世で格闘技を習っていたとはいっても、喧嘩で人に暴力を振るった事はない。そんな事は無い方が良いのは当然だろう。
しかし、そんな事を言っていられない事態に陥った時、ある程度の経験がないと冷静な判断が出来ない。パニックになってしまう。
何時か述べた事のある、マイク・タイソンと同じような経験だ。特に成功体験は大きな経験値が稼げる。やり過ぎるのは良く無いと思いますがね。
変な自信を付けるのも考えもんだが、この機会に経験を積ませてもらうぜ。怪我をしても木属性魔法で治療してやりゃ大丈夫やろ。
勿論、逆に負ける可能性は十分にある。勝てるならそれに越したことは無いが、勝敗よりも大事なモノが有る。
それは理不尽な事には従わぬという意思表示だ。
この世は思い通りにならない事ばかりで、常に正義が勝つというものでもない。正しき者が必ず勝つというのなら、人は宗教に救いを求めただろうか。
これを哲学では不条理と呼び、この不条理とどうやって向き合うのかが、究極のテーマのひとつである。




