6 心的外傷後ストレス障害(PTSD)
暫しこちらの様子を伺っていた気配だが、何もせずに立ち去ったようだ。緊張が全身を駆け巡る。
このまま戻ってこないのか、偵察の後に襲ってくるのか?
狼だと思ったのは、ただの直感であり根拠は無い。害のない小動物なのかもしれないが、万が一、襲われたらひとたまりもない。今やるべき事で出来る事は何だ。
この場から立ち去ろうか。しかし、方角も分からぬまま進めば、さらに山中に迷い込む事になるのは間違いない。そうなれば日が昇っても帰れる自信が無い。目前の危機に対応するか、明日へ備えを維持するか、正解はどちらだ?
木に登るのはどうだろう。木に登れる動物だったら詰んでしまう。しかしながら逃げるにしても、灯りの無い山道では、とても逃げ切るイメージが湧いてこない。
よし… 決めた。
覚悟を決めて木に登る事にした。鎌を腰に差し上へと登る。太い枝ぶりの場所を見つけると、安定する体勢が取れるよう調整する。
例え獣が木に登れるにせよ、登ってくる間は動きが制限される。こちらの攻撃が当たり易くなるはずだ。なんとか凌いでみせる。
こちらの武器は草刈鎌と投石だ。練習として、木に登る前に拾った石を、風呂敷から取り出し、2,3個ほど力一杯に下へ投げ下ろしてみた。心許ないが威嚇程度にはなるだろう。追い払うだけでよく、仕留める必要は無い。
もしかしたら選択を誤ったかもしれないが、ここまできたら腹を括るしか無い。未熟ながら精一杯に考えた結果だ。
選択を誤るといえば、すでに幾つかの間違いを犯している。
誰にも行き先を告げず、遠出した事。
自分の足を考えず、山に入った事。
帰りの時間を忘れていた事。
知識だけで利口ぶりこの様だ。僕は肉体だけでなく精神も未熟だと思い知った。そこは後で反省しよう。今は出来る事をするだけだ。もしも、ここで死んだのなら、この記憶が来世で蘇えるのだろうか。トラウマとして。
トラウマ……! トラウマだって?
ここで、とある考えが頭に浮かんだ。生命を脅かされるような精神的衝撃が原因により、発生する症状がある。それは心的外傷後ストレス障害(PTSD)と呼ばれるものだ。
PTSDの特徴に反復的追体験がある。通常では、生命の危機に瀕するような出来事がトラウマとなり易い。
耐えきれない程の経験をすると、人はそれを忘れることにより自身を守る。忘れることは自分を守る正常な反応なのだ。逆に忘れる事が出来ない時、フラッシュバックにより苦しむ事となる。
僕に起こった、前世の記憶を追体験する現象は、フラッシュバックなのではないかと思えた。だが、PTSDと決定的に違う点がある。
通常、フラッシュバックされる記憶は、衝撃を受けた瞬間そのものとなるはずである。だが僕の場合、蘇える記憶は、日常の記憶である事が多い。
それとも、僕の前世は全てがトラウマだとでも……?
勿論、良い記憶のみでは無いが、最近では逆に、非日常の体験を楽しみにさえしていた。楽しくなってくると、フラッシュバックが殆ど無くなってきたのが、残念に感じるほどであった。つまり、前世の記憶はトラウマでは無いと感じる。
では、前世の記憶がある原因は何なのだろう。答えは出ないが、考える事で時間潰しにはなる。どうせ今夜は眠れまい。
少なくとも、前世の記憶を持っている事は普通では無いだろう。何らかの異常な出来事が起こった結果だと思う。
おそらくは、一つの生命が終わり、次の転生までの間に、起きた出来事だろうと推測する。死の間際や、生命の誕生の瞬間については、覚えているものもあるが、死後から生まれる前の記憶、この世ならざる世界の記憶は一切ないからだ。
前世の記憶を振り返ってみると、衝撃的な体験は勿論ある。しかし、それは想像が出来る範囲内であるように思う。
何かが起こったとするなら、輪廻の狭間、この時に起こったものであるように思えた。魂に障害を与える程の衝撃。
霊的外傷後ストレス障害(Post Traumatic Spiritual Stress Disorder)PTSSDとでも呼ぶべき状態が発症したと仮説を立てる。
前世の記憶持ちが病気の一種なら、治療が必要だ。これは病気なのか?
記憶の混乱があった初期の頃なら、病気といえなくもないが、今はそれを脱していると思う。混乱が再発する事はあるのだろうか。
出来る事ならば、転生の狭間で何を経験したか知りたいと思うが、その記憶に耐え切れなかった為、その出来事を忘れることにより、自分自身を守っている可能性がある。
記憶に留めたいと願うのは正解なのか。精神、魂が正常を保つことができるのだろうか。ただ、何をもって正常といえるのか分からん。
山中で一夜を過ごす事になり、緊張で精神が昂っているのを感じる。これまでの考察についても、軽いパニック状態の影響で、思考に飛躍がある事は認めざるを得ない。
しかし、だからこそ、普段は出来ない発想が生れたのではないか?
暗闇の中、少しだけ前へ進んだような気がした。