166 リモートワーク
リモートワークという名前は新しいが、これって従来の在宅勤務と何が違うの?
基本的には何も変わらん。双方とも自宅、または社外で仕事をしているだけだ。
これまでもフリーランスや営業職など、自宅から取引先への直行直帰、仕上げた書類はメールで報告、自社にあまり顔を出さないと言う働き方は以前からあるが、コロナ過を機に全業種の働き方が見直され、その辺りからリモートワークと表現し始めた様に思う。
なんで昔からの言葉を使わへんの? 大事なのは言葉じゃなくて中身やろがい。同じようなテレワークって言葉もあるし、ややこしくなるだけやろ。
「これからはリモートワークがスタンダードとなる時代です。」
「在宅勤務なんて昔からあったやんけ。カッコ付けて横文字を使っても、年配の人が混乱するだけやぞ。」
そりゃアレやな、ほれ、印象操作っちゅうヤツよ。
呼び方を変える事で、意識も変えようとする試みなのだろう。古くからあるものでも、看板を新しく架け替え、新装開店をするように。
クールジャパンってのも同じようなもんだ。
話は変わるが、僕はクールジャパンって名前はあまり好きじゃない。
何故って?
クールジャパンよりも前にあった、ネオジャパネスクのほうがカッコええと思いませんか?
分かり易さってのは大事であり、キャンペーンのターゲットを広げる目的なら、クールジャパンのほうが正解な気もする。しかし、ネオジャパネスクと比べれば、精神年齢がグッと下がった気がしてならんのよ。
僕としては、ジャパネスクのアカデミックっぽさが好きなのだが、商業主義的なクールに負けたかという印象を持っている。
まあ、どっちが良いかなんて、個人的な趣味の問題だ。学術的基準はともかく、こんなんは大衆に支持されてなんぼってトコやろね。
政府や広告代理店に作られた、意図的なブームに乗っかるのは釈然としないが、それが真に必要な行為で、舞台を整えてくれると言うなれば、下手は下手なりに、踊って差し上げようではありませんか。
で、ちゃんとした舞台は出来上がっとるんやろな?
「ネット上に舞台をご用意いたしました。存分に踊りくださりませ。」
前からあった既存の技術だが、使えるものを有効活用しようと言ったところか。舞台は整ったが、問題は中身だ。
気持ち良く踊らせてくれるの?
令和2年時点、ネットのリモート環境について、僕なりの評価は以下の通り。
【メリット】
・移動時間と交通費の削減
・自分のペースで仕事をこなせる
【デメリット】
・情報量の不足
・情報漏洩の恐れ
・プライベートと仕事の線引きが難しい
上手く使いこなせれば時間と金が節約できるが、実際に現地に足を運ぶケースと比べれば、情報量が圧倒的に少ない。
取引先の会社を訪問する際は、単純に契約書を交わしたり、挨拶の為に顔を出す以上の意味がある。
注意深く観察していれば、社内の雰囲気、どんな会社と取引しているか等を窺い知る事が出来るかもしれない。
なんか何時もと違う気配がするなと感じていたら、後になり、その会社が不渡りを出したとの情報が伝わってきた事もある。現地に足を運ぶのは確かに面倒だが、新鮮で活きた情報を得られるのだ。
直接顔を合わせれば雑談に花を咲かせる事もあり、他愛もない雑談から、思ってもいなかった知識が得られる事もある。
これは僕の考えだが、仕事で一番大事なのは信頼だと思っている。相手が信頼に足る人物かどうかを見極めねばならないが、肩書やカタログスペックだけでは判断できない。
ネットにある情報のみを信じていると、いつか足を掬われるかもしれん。
それを考えると、インターネット環境によるリモートワークは、どこでもドアに遠く及ばない。見られたくない情報を、カメラに映す馬鹿はおらんからね。
とは言うものの、ネットを使ったリモートワークに、病気の感染防止以外に意味は無いとするのは早計だ。
上手く活用すれば、時間と金が圧倒的に削減できるし、コンタクト先に直接訪問しても、それに見合った成果を毎回得られると思ったら大間違い。むしろ、空振りに終わる事が多い。
要は、使い方次第やと思いますよ。
海外との取引で、普段はメールの遣り取りで済ましているが、大切な判断を求められた場合には、現地へ飛んで確認するとかね。
令和2年現在のリモートワークは、都市部と田舎の格差をそれなりに埋めてはくれるが、完全に無くすのは難しいと感じている。
「それは時代に付いていけへん田舎もんの考えそのものや。ネットがあれば田舎に居ながら全世界に情報を発信できる事を知らんのか。」
虚業ならそれが可能となるケースもあるだろうが、全てをオンラインで処理するのは難しい気がしている。
そもそも、都市部と田舎の格差はどこから発生するのか? 何故ゆえに経済格差が生まれるのだろう。貴重な資源がある事や地理的問題も無視できないと思うが、僕が考える最大の理由を挙げてみよう。
2. 密度
数は力なり。
数が集まれば、それに伴い質も高まってゆく。文明の発展を促した産業革命も、大量生産の効率を求めたからこそ生まれたものだろう。
モノの密度だけでなく、情報の密度も忘れてはならない。都市と田舎は得られる情報にも格差がある。
「情報だけなら、それこそネットで解決できるんちゃうの?」
確かに、インターネットの登場で格差が縮まったのは事実だ。オンラインなら、地方に居ながら質の高い講義を受ける事も出来る。
だが、僕は思うのだ。
イエス・キリストが言ったとされる次の言葉がある。
求めよ さらば与えられん 新約聖書
逆説的に言うなら、求めなければ得る事は出来ない。先ずは知識ありきなのだ。例えば江戸時代の人間が、キンキンに冷えたビールを飲みたいと思うか?
思わへんやろ? だってさ、冷蔵庫もビールも知らんからね。
実は、幕末の横浜に外国人向けのビアホールが在ったらしいが、一般人には縁が無かったという。知識が無ければ、求める事すら不可能だ。
それと同じ様に、ネット情報は己の意思でアクセスするものだ。ウィルスや広告を除き、自分が検索し、選び、クリックした情報でしかない。
ネットで調べ物をするにも、何を調べるかという前提が先だ。当たり前の事だが、これって大事やと思うわ。
知らんかったら、調べられへんと思う訳ですよ。
田舎では、自らが求めないと何も始まらないが、様々なモノが溢れる都市においては、気を抜くと溺れてしまう程の情報に晒されている。
一見して自分とは全く関係が無いと思える事から、何らかのインスピレーションを閃くケースだってある。
人生でやりたい事が見つからなければ、とりあえず都会に出てみようってのは、合理的な選択と言えるかもしれない。
人間は社会という集団を形成する事により発展した。都市とはそれがより大規模となったもので、小規模な田舎よりもアドバンテージがあるのは明らかな事実だ。
これは都会が田舎よりエライと言ってる訳ではない。都市が持つ経済的メリットを説明しているだけだ。
で、メリットがあれば当然デメリットもありますわな。
人が集まる事による伝染病の広がりである。パンデミックの際には3密を避けよと言われるが、集団が密集する事こそ、社会が発展したキーワードだったはずだ。
パンデミックで社会的距離を密に出来なくなった結果、世界各国のGDPが激減したのは、如何に密接な人との繋がりが大事だったのかを思い知らされた気分だ。
伝染病もいづれは収束するのだろうが、ワクチン開発、または集団免疫の獲得が何時になるのかは誰も分からない。
それまでに密が生むメリットを捨て、新たなスタイルを確立できるのだろうか。
人類の叡智とやらが試されとるかもしれん。