148 善意の愚者(ネタバレ注意)
プッチ神父を論破するのは簡単だ。
彼は難解な思想を理解したつもりの愚か者でしかない。
「永劫回帰を理解した私と違い、他の人間は底辺を蠢く下衆の集まりだ。しかし、この私が皆の精神を高みに引き上げてくれようぞ。」
これが彼を動かす動機であり、我こそ正義だと信じて疑わない。そんな彼を表す言葉は次の一言。
中二病。
「俺は他の奴らと違って優秀なんだ。」
「我こそが人間の羊飼いとなり、愚民どもを導かねばならない。」
ニーチェとか引用して勘違いしちゃった訳だな。しかも勘違いだけに留まらず、変に行動力があるお陰で、多くの人を巻き込むもんだから始末に負えない。
先ずは、前提を確認しよう。
僕自身は永劫回帰について否定的意見を持つが、漫画の中では正しい理論とされるので、これを正しいものとして話を進める。
前回説明した通り、永劫回帰は同じ事実を繰り返し経験しているという考えだ。詰まり現在進行形で起こっている出来事は、過去に存在したワンシーンという事。
ビデオで言うリピート再生のイメージに近いが、明確な始まりと終わりの区切りは無いと考えてもらいたい。
永劫回帰の思想には、ビッグバンの様な始まりの神話は存在しない。時間は環の如く永遠に循環するだけ。それが永劫回帰だ。
次に、プッチ神父の主張に耳を傾けてみる。
「世界を一巡させ、未来で経験する事になる出来事を魂で覚えてもらう。どんなに辛い未来が待っていようとも、魂に耐性が備わっているので、覚悟を持って立ち向かえる。心頭滅却すれば火もまた涼しと言うではないか。心次第で地獄すら天国へと変えられるのである。」
彼が永劫回帰を理解していないのが明らかだ。永劫回帰が真実と言うのならば、神父の願いは既に叶っている。
お分かりだろうか。
神父が強制するまでも無く、既に世界は同じ時を刻んでいるのである。詰まり、彼の行動は全くの無意味だ。
今この瞬間が最初の一歩だと思い込む、傲慢さと愚かさに気付いていない。
彼こそが精神を運命の環に繋がれた虜囚である。
神父の考えは、輪廻を永遠に廻り続けるという事が前提にある。これが意味するのは、生きる苦しみから永遠に逃れられないという事である。人により考えは違うだろうが、終わりが無いと言うのは、とても辛い事の様に思う。
だからこそ、お釈迦様はその苦しみからバイバイした訳やな。輪廻を苦行と捉える仏教の最終目標は、輪廻からの解脱だ。
プッチ神父の考えを仏教で解釈するなら、こんな感じだろうか。
「あらゆる快楽と苦難に溺れながら、永遠に地上を彷徨うがよい。全てを受け止める覚悟さえあれば、業火でその身を焼かれようとも天国を感じられるはずだ。」
そこに真の救いはねえよ。僕なら御免だね。
ジョジョの悪役に共通するのは強烈過ぎる独善だ。俺こそが、否、俺だけが正しいという身勝手な思考。これは7部のラスボスも共通する中二病的思考。
7部では並行世界という設定が登場した。
こちらのラスボスも、自己中心的さでは神父に負けていない。
数多の並列する世界の中、自分が存在する世界こそ、オンリーワンの中心点だと言い切る独善的思考。こんな奴等と共生するのは難しい。だからこそ争いが起き、主人公達とのバトルに発展するのだろう。
少し話は変わるが、ジョジョは6部以降、時間を操る能力に加え、何らかの思想をストーリーに絡ませてくる気がする。
6部では永劫回帰、7部では並行世界。8部は不明だが、どんな理論を取り入れる心算なのだろうか。根拠は無いが、二重スリット実験が関わってくるかなと予想している。
話を6部に戻そう。
6部のボスは己の行動が人類の為になると、心の底から信じている。誰しも当てはまる事だが、人は自分の信じたいものを信じる傾向にある。
プッチ神父は自分が間違っているとは微塵も思わない。
彼にはソクラテスの「無知の知」という言葉を送りたい。自分勝手な思い込みで自己完結すれば、浅い知識しか得られない。
当然だが、これは僕自身も噛みしめるべき教訓だと思っている。
「お前こそ未熟者だ。墓穴を掘っておるのに気が付かぬとは哀れな男よ。」
気を付けよう、人を呪わば穴二つだ。
さて、僕は6部で語られる永劫回帰の解釈には賛同できないが、僕が感じた物語の本質はそこじゃあない。僕が考えさせられたのは、善意の愚者についてだ。別の言い方をするなら、無能な働き者と言ったところか。
良かれと思った行動が、とんでもない事態を招く。
過去にサリンを撒いた狂信者の中にも、善意でテロに加担した者がいたと言う。良心からの行いが地獄を生む事だってある。
偉そうに批評する僕自身が愚かという自覚は持っているが、謙虚な愚か者でいたいと思う。愚かさを自覚すればこそ、慎重を心掛ける事も出来るだろう。
ところが、プッチ神父は恐ろしいほど盲目的に行動する。
狂信者そのものだ。
彼の主張には一片の理すら見つける事が出来ない。例えるなら狂人が核ミサイルの発射ボタンを握る怖さに似ている。
神父と似た犯罪者を挙げれば、障害者は不要だと主張し、知的障害者施設で虐殺を行った植松死刑囚だろう。神父の思考は植松死刑囚と同じだ。
本人は自分の死を受け入れる覚悟があるかもしれないが、巻き込まれた犠牲者や遺族の方々にとっては理不尽極まりない。
僕がモヤモヤするのはこの辺なんだよね。
ただの愚か者が、平穏な生活を搔き乱す。
身近な例で言えば、パンデミックが起きているにも拘らず、自分だけは大丈夫と考えウィルスを撒き散らす人達がいると聞く。
どんなに注意をしていようが罹る時は罹る。生活の為には、ある程度のリスクがやむを得ないケースもあるだろう。
だけどさ、ニュースで見聞きする限り、それは違うやろってのもある。
行動する前に良く考えろ。
ウィルスに感染し、被害を受けるのは貴方だけではない。
貴方の無責任な行動が原因となり、家族や友人、恋人が感染して死亡する可能性を考えて欲しいと思う。
今が頭の使いどころやろ。一つ間違えれば取り返しが付かない事になりかねん。
自分を守る事は、大切な人を守る事と同じ意味を持つ。
自分は特別な存在では無いと自覚すべきだ。
自惚れたらあかん。
当然だが、この戒めは自分自身への言葉でもある。