146 運命は変えられるか
ラプラスの魔物とは実体のない概念だ。仮に、そのような魔物が本当に実在するのなら、それを神と呼んでも良いだろう。
この世は因果で説明が付くと提唱したラプラスが、数学者だったのは興味深い。知恵の果実を手にした人間は、ファンタジーとは違う概念上の魔物を創り上げる事に成功したのである。
剣や魔法でラプラスの魔を祓う事はかなわず、概念の魔物は概念でしか殺す事が出来ない。ニーチェの神殺しと同じ理屈だ。
抽象的な表現になってしまったので、話を整理してみよう。
初めに人ありき。
人はその知性をもって世界の仕組みを知ろうとする。
理解を超えた現象に神の存在を感じて宗教が生まれた。原始のアニミズムだ。
文明の発達で世界の謎が解き明かされてくると、神の概念が変化し始める。
ニーチェは神殺しを成し遂げ、ラプラスが魔物を生み出せたのも、科学の発展があってこそだろう。
宗教と科学は共存できるのか。
個人的意見だが、宗教こそ学術的な裏付けが必要だと思う。ラプラスの提唱は、神という存在の再定義を意味する。
未知の暗闇に文明の光を灯した結果、見えないものが見えるようになり、そこで発見された因果律の象徴たる魔物こそが、ラプラスの魔物である。
因みにラプラスの魔物は最先端の概念ではない。この恐るべき魔物は量子物理学の下に打ち倒されたと言われている。
魔物退治の様子は、いずれ別の機会があれば紹介したい。
さて、ラプラスが生み出した魔物は死んだとされるが、近い将来、新たな怪物が誕生する可能性は否定できない。新たな学説が提唱され、世界の認識が大きく変わる事だってあり得る。
真実が何なのかはともかく、未来を変える事は出来ないよ説ってのは、社会的に良い影響を与えない気がする。ラプラスの説を否定しようと試みた学者さん達も、世界がそうあって欲しくないと願うバイアスが、全く無かったとは言い切れない。
一部の例外はあるだろうが、小説や漫画などで、世界は変えられないと主張する人物は悪役に多い気がする。そして、滅びる運命を受け入れろと囁く魔王に対し、勇者は人間に光あれと雄叫びを上げる。
「いや、未来は変えられる。人はそれだけの可能性を秘めているんだっ!」
夢と希望の為に立ちあがる主人公側としては、これが王道のストーリーだろう。教育的に正しい展開だ。そうじゃないと、小さな子供にトラウマが残っちゃうぜ。
娯楽なら楽しめれば何でも良いが、宗教が娯楽に逃げる訳にはいかない。
これは宗教の存在意義が問われる難問だ。未来が変えられないのなら、神を信仰する事に何の意味があるというのか。お布施で金を納めても坊主の懐が潤うだけ。生産性は皆無だ。
無我と因果の概念を持つ仏教は、どの様に考えているんだ?
宗派によって違うかもしれないが、代表的なのは次の二パターンだろうか。
ひとつ、それでも世界は変えられるよ説。
善行を積めば良い因果が生まれ、その因縁で運命を廻していこうという教えだ。
でもさ、それって無我の概念と矛盾してないか?
行動を起こす為には自発的な意思、自我の存在が必要不可欠だ。これを認めなければ、善行をしたいという気持ちも、ただの反射行動でしかない。これをどう説明するつもりだ?
無我とは、言葉通り完全なゼロを意味するのでは無く、自我の及ばない因果律を意味する、仏教の専門用語という事なら分からなくもない。
誰か正解を知っていたら教えて欲しい。謎である。
ふたつ、運命は変えられないが、受け止め方で幸せになれるよ説。
体験する事柄は同じでも、心の在りようで精神への影響に差がある。運命が変えられないのなら、それを受け止める己の根性を鍛えようぜという発想の転換だ。
非情な現世の現実に耐えれるよう、修行により、あるがままを受け止める悟りの境地を目指そうといったところか。
宗教的な話は、一見すると矛盾する教えが混在している。その理由として、宗派によって解釈が違うのもあるが、過去から伝えられた聖人の教えを否定し辛い事が大きいように思う。
「聖人の言葉を否定するとは悪魔に魅入られたか、異端審問だ。」
恐ろしいぜ。
時代に合わせた柔軟さを持たなければ、原理主義から抜け出せない。この辺の頭の固さが、宗教から人を遠ざける理由のひとつだと思う。自由な発想を持つ人ほど居心地の悪さを感じるのなら、今以上の発展を望む事など出来ようか。
「我らの教義は既に完成されておるのだ。異端の入り込む余地など無いわ。」
さようですか。
未熟者の戯言であります。お耳汚しお目汚し、ご容赦ください。