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輪廻の果てへ  作者: 葉和戸 加太
三章 アルジャーノン計画
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138 表現の自由

微妙な問題なので、異論があるのは百も承知です。

 アニメや漫画の過激表現ってのは、青少年に悪い影響があるんだろうか。


 作中で殺人描写があっても、同じ事をやりたいと思うヤツはおらん。


 普通ならね。


 しかし、世の中の一部には、思考回路が普通じゃない者が居るのも確かであり、過激な表現の創作物が、全く影響を及ぼさないとも言い切れない。


 語弊があるかもしれんが、セクハラに似ているように思う。要は受け手次第。


 R15などの表現は作者側の自己防衛でもある。



「ウチの子がこんなハレンチなもん読んどったぞ。コレ書いたんアンタらしいな。もし痴漢などの犯罪行為に走ったら、オマエ責任とれんのか?」

「おとーさん、これ成人指定あるでしょ? 子供は禁止されとるんよ。」

「お… おぅ。それがどうした。」

「子供がコレを読んどるのは、お宅の家庭環境に問題があるのでは?」

「なんやと?」

「自分が子供を管理できとらんからって、こっちの責任にされてもねえ。」



 いくら異世界転生ものが流行っても、転生したくて自殺するなど馬鹿げた話だ。猟奇的なホラー作品を書いたからといって、内容を真似されても責任は取れない。


 年齢制限をするのは、読者を絞るデメリットもあるが、同時に保険でもある。


 また、言うまでもないが、たとえ保険をかけたとしても、越えてはならぬ一線は存在する。表現の自由と言えば、何を言っても良い訳では無い。


 僕が考えるその一線とは、事実に基づかない誹謗中傷をしないという事。その為には、何が事実なのか見極めるのが重要だ。


 この事実の見極めってのが非常に難しい。解釈が人により異なるケースもある。その難しさ故、過去の偉人も次の言葉を残した。



 事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。  ニーチェ



 何が事実なのかは知らん、ワシの言っとる事はワシが考えた解釈じゃ。アンタの事実はアンタ自身で見つけるんやでってトコか。


 科学の進歩により、これまで正しいとされてきた理論が覆る事は珍しくない。


 ニーチェ先生よ、逃げましたな?


 哲学者なら、わしゃ分からんと認めるだけで良いかもしれんが、科学者はそこで終われない。


 事実に到達できるかは分からない。


 しかし、


 いつか辿り着いてみせるという気概と努力が、人間の歴史なのではなかろうか。


 いまさら未知への探求を諦めるなら、エデンの園から出た意味が無い。


 ニーチェの言葉を借りるまでも無く、何が事実かを見極めるのは難しい。だからこそ幅広い意見が求められ、言いたい事を言うという表現の自由が大事にされるのである。


 しかし、自由とはいえ根拠なく他人を誹謗中傷するのは許しがたい。ただの悪口になってしまう。公共の場では気を配るべきだろう。


 特に、政治が絡むと面倒くさい事になる。


 「あいちトリエンナーレ」で起こった問題を例に見てみよう。


 問題となったのは二つの展示物だ。


 ひとつ、天皇の肖像を焼くような動画。


 ふたつ、慰安婦像の展示。


 先入観を持たず、自分なりに評価してみたい。


 先ずは肖像を焼く行為。作家に最も欠けているのは責任と覚悟だ。


 写真はコラージュ(合成)であり、本物ではないとしているが、そりゃアンタ、逃げ道を用意しとるだけちゃうの?


 コラージュとはいえ、本物の一部を切り取って燃やしているのだから、言い訳にもならない。それどころか作家の保身が透けて見えるようだ。


 ただし、その気持ちは分かる。それは保険を掛けたいという心の弱さ。


 個人的な意見としては、国の運営において天皇制は非常に有益なものだと思っているが、それを否定する意見があるのも知っている。


「変な事を言って怖い人が出てきたらどうしよう。ちょっと保険かけとくか。」


 あえて退路を断つ覚悟に心が揺れる事もあるのだが、脱出パラシュートを用意していると分かれば騙された気分だ。当然ながら作品の価値も下がる。ネットにある作家の発言を見たが、逃げているとしか感じられなかった。


 だが、仕方がない面もあるのかなと思う。僕自身を含め、大多数の人間はそこまで心が強くない。この作家も普通の人間だったという事だろう。


 彼にとってこの作品には、逃げ恥を晒してでも伝えたいメッセージが込められていたのかもしれない。


 次に芸術性だ。


 政治的なメッセージを超えた芸術性はあるのか?


 肖像を燃やすというのは、人を侮辱する行為だ。たとえ対象が一般人であっても品性を疑われる。ましてや多くの尊敬を受けた人物の写真であれば、非難されるのは明白だ。


 それを分かっていたからこそ、コラージュという保険をかけてまで作品を展示したのだろう。


 そもそも、芸術家が政治に物申す事を悪いとは思わない。


 僕が最も衝撃を受けた作品のひとつに、ピカソのゲルニカがある。スペイン内戦を描いたゲルニカを見た時、その圧倒的な迫力に戦慄を感じた。


 ゲルニカにも政治的メッセージが込められているだろうが、ピカソはそれを芸術へと昇華させたのである。


 ピカソと比べるのは可哀そうな気もするが、あいちトリエンナーレで展示されたものに芸術性を感じる事は出来なかった。


 公正を期す為に言うが、あいちトリエンナーレの展示物はテレビやネット情報でしか見たことが無く、ゲルニカは本物を目にしたという違いはある。本物に触れることによって、受ける印象の違いが無いとは言い切れない。


 これはあくまで僕の感性で判断しただけだ。違う意見を持つ人もいて当たり前である。芸術品なんてものは、興味がない人にとってはゴミ以外の何物でもないが、感性が合う人には宝物だ。


 お分かりだろうか。


 保険を掛けているのである。

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