表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
輪廻の果てへ  作者: 葉和戸 加太
三章 アルジャーノン計画
131/305

131 時の流れ

 これまでの考えを計画書に纏め、佐助さんに提出しようと思う。実験の目的と、その方法に限って記述する予定だ。


 死者の書へのアクセスキーとか言い始めたら、それこそ中二病やと思われるぞ。オカルト要素は出来るだけ排除するつもりである。


 もっとも、魔力なんてもんがある異世界において、オカルトの定義ってのが良く分からん。理解が及ばないものをオカルトと呼び、誤魔化しとるだけかもしれん。


 理解する努力を放棄してオカルト認定したり、アホは相手にするなと切り捨てるのは簡単だが、未知なるものを追求せねば、知識を高める事など出来ようか。


 今回の実験も、成功は約束されてはいないが、挑戦のしがいは十分だ。


 最後は自分の脳をいじる事になるが、失敗を考えると肝が冷える。覚悟はしたつもりだが怖すぎる。そのリスクを下げる為にも、実験は絶対に必要だ。


 焦って事を急ぐと、とんでもない間違いをしてしまうかもしれない。ゆっくり、そして慎重に計画を仕上げよう。


 暦は年の瀬が近づき、色々とせわしない雰囲気を感じるようになった。年末年始の休みに入れば宿題も出るだろうが、そちらは適度に手を抜く事にした。全てを全力で取り組むと言えば聞こえは良いが、そこまでの余力が無い。


 前世の記憶で、人生のスタートダッシュに成功してると思うが、完璧超人からは程遠いと実感している。



 だって人間だもの。  みつを



 完璧超人どころか、知識以外は一般人も良いところだぜ。


 学校の授業なら、ある程度の先取りが出来ているので、少々の余裕がある。四大属性魔法の基礎と、それらの制御に必要な門の習得は既に終えているからだ。


 残るもので必要だと感じるものは、文字の習得や、歴史などの一般教養だ。他の授業の算数などについては、前世記憶のお陰で十分すぎるほど順調である。


 忘れている部分もある為、学年が上がれば、真剣に取り組まないと落ちこぼれるのは目に見えているが、余裕がある今だからこそ、自由に使える時間がある。


 それに、学校から魔術契約の支援は勝ち取り済みな為、もはや学校の評価を気にする必要もないんだよね。


 やるべき事はやった。後は自分の好きにやらせてもらうぜ。貴重な時間を大事に使わせてもらおう。


 よく言われる言葉だが、お金で時間は買えないと言われる。それはその通りなのだろう。いくら大金を積んでも、過ぎ去った時は戻ってこない。


 直接的な意味で、お金で時間を買う事など出来ない。それが出来るのなら、全ての法則が覆ってしまう。


 しかしながら、間接的に、お金で未来の時間を買うのは可能である。


 例えば、ある場所へ出かける事になった時、徒歩なら半日は掛かるが、タクシーを使えば一時間もかからない状況があったとする。


 この場合、タクシーを使えば時間を節約できる。これは時間をお金で買ったとも言える。当然だが、自動車というテクノロジーの存在が絶対条件だ。


 さて、話は変わるが、地球の歴史を考えてみると、技術力の進歩は近代に入ってから、考えられない速さをみせる。石器時代は何十万年と続いたが、江戸時代が終わって約百年も経つと、人類は月に到着する偉業を成し遂げるのだ。


 万と百、まさに桁が違う、信じられないスピードの差だ。


 何故、文明の進歩がこれ程まで加速したか、思いを馳せてみる。長年蓄積されたものが、一気に花開いたとでも言うのだろうか。


 個人的には、産業革命の果たした役割が大きいと思う。


 手作業が機械化され、大量生産が可能となった。工場制機械工業の誕生だ。更に蒸気機関による交通革命も起こる。エネルギーの大量消費が出来るようになった。


 これにより、人間の生活が大幅にスピードアップした。人の限界を超える機械を使い、生産が効率化された結果、時間的ゆとりが生まれたのだが、人はそのゆとりを娯楽のみに使う事をしなかった。


 新たに生まれた時間を、更なる発展の為に使ったのである。


 楽をする為に効率化し、生産工程が飛躍的に改善された。人間は改善で生まれた時間を使い、新たな試みに挑戦してゆく。


 文明の発達で生まれた時間的余裕が、新たな忙しさを生むという矛盾。技術を求めた真の目的は、余裕ある快適な生活では無かったのか?


 どちらが良いかはともかく、近代と古代人の生活を比べれば、時間の密度に圧倒的な差がある。江戸時代は隣町の往復で一日仕事だったのが、現代は一時間程度もあれば事足りるのだ。


 本来の意味では、時の流れは全てのモノに平等だ。しかし、密度は人により差があるのも事実。産業革命において、この時間的密度が急激に高まった事が、人類の文明が爆発的に発達した理由のひとつだと思う。


 もし量子コンピューターなんてものが誕生したら、人類の歩みは想像も出来ない程の、恐るべきスピードになるかもしれない。


 断っておくが、これは現代人が古代人よりも幸せかどうかは、別の問題である。車の便利さを手放すのは簡単では無い。だが、散歩をしつつ、道中の自然を感じる趣きも捨て難い。


 どっちも大事で、良いトコ取りじゃあかんのかね。


 特に現代社会において、どちらかを切り捨てる事など、不可能に近い。


 さて、前置きが長くなったが、僕が今回行おうとしている実験は、人間革命とでも呼ぶべきものだろうか。成功すれば、人間の脳がバージョンアップする。扱える情報量を増やす事が出来るだろう。


 問題となるのは、他者とのコミュニケーションだ。


 同じ時を共有しながらも、体感する時間軸にズレが生ずる恐れがある。


 野を駆ける兎は、ストレス無く、亀の歩みに付き合えるのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ