下
※暴力的な描写があります。苦手な方はご注意ください。※
途中で他者視点に切り替わります。また匂わす程度ですがファンタジー的な不思議要素もあります。
轟音と粉砕されたレンガの粉に“アレ”こと処刑者の周りは覆われた。視界が悪い。追跡していたネズミの安否がわからない。だったらもう一度同じようにやるまで、そんな論理で“アレ”はおもむろに肉切り包丁を持っていた腕を振り上げる。と、ある違和感に気がついた。“アレ”にとっては素早く行動どうしているつもりだが、他人から見てとてもゆっくりとした動作で包丁を目の前に掲げると、今振り下ろしていれば必ずあった色が包丁にはなかった。まだもうもうと舞う粉塵を“うで”で払う。幸い“うで”は色んな場所に沢山あったからすぐに“アレ”の視界は晴れた。
だがそこには“アレ”が作ったレンガの破壊跡以外は何もなかった。
* * * *
俺はまだ生きていた。
はぁはぁと呼吸を全身で整えて壁に寄り掛かった。先程の路地のブロック塀と同じようにひんやりとしていたが、不思議なことに今はじんわりとぬくもりも伝わってくる。
あの路地で“アレ”と対峙したときまだ俺は狂っていなかった。他人なら自暴自棄になって正面突破を図るか絶望して死を受け入れるかの2択を無意識に選ぶだろうあの状況下で、俺は冷静になることができたのだ。幸運だった。
まぁ一番の理由は俺があの路地へ“アレ”を自らの意思で追い込ませるように誘導したからなのだが。
ずっとおかしいと思っていた。
俺はずっと“アレ”から逃げ切るように走っていたのだが、いつも先回りされていた。それが有り得ない。
俺の住んでいた街は最近発展してきたばかりの新興町の部類に入る。だからロンドン中央であるような流行を行くセンセーショナルな店や人は増えてはいるものの、創業50年やら81年やら経つ店やもうロンドン中央ではお目にかかれない1世紀前の家や施設はまだ多い。今俺がいる聖堂もそのうちの一つ。道ですらメインストリートが整備されたばかりで細かい路地はまだ残っている。だからメインストリート周辺以外はまだ複雑で、地元の人間でない限り迷子になる。そんな道を俺は“アレ”と走っては対面し、走っては対面しを繰り返した。一度や二度ではない。何故道がわかるのか。
簡単なことだ。知っているだけだ、“アレ”が街の構造を。
「クソがッ!!」
感情に任せて俺は大きな声で毒づいた。見当違いも甚だしい。何が確実に逃げ切れるだ。何が俺の庭だ。何が楽勝だ!
道理で姿を見せなかったはずだ。そりゃそうだ、だって街の観察をしていたのだから。俺がどこへどう逃げても追いつき、場合によっては先回りするためには必須条件だろう。おかげさまで振り切れず逃げ切れず、何度も命の危険に遭遇させられた。とはいえ。
教会の窓から外を盗み見る。特に物音もなければ姿も見えない。室内も同じだ。とりあえずは“アレ”から逃げ切れたのだろう。
この街には隠し通路のようなものが数か所ある。何年か住んでいる人間は大体知っているのだが、隠し通路の周辺まで来ても目印は皆無だからか初見ではまずわからない。俺も前任の司祭から教えてもらってから隠し通路の場所を覚えるのに半年もかかった。つまり“アレ”が把握しているのは街の表面的な構造のみ。全てではない。もっとも逃げている間は確信できなかったのだが、一か八か隠し通路のある路地の一つに誘導してみて正解だった。
ほぅと息を吐き出す。良かった。あのまま追いかけっこが続いていたら、焦りと苛立ちから俺はいよいよ狂っていただろう。いや、それよりも体力が尽きていたかもしれない。いずれにせよ“アレ”の手にかかって今頃ゲームオーバーになっていたのは明らかだから、“アレ”の詰めが甘くて本当に良かった。
だが、もう先程の行動は効果がないだろう。“アレ”が隠し通路を見分けることができなくても手当たり次第に探せば追跡できるものだし、二度目なら学習して反応スピードは増すだろう。究極隠し通路を利用してもすぐに通路が破壊されて余波で俺も一緒に大破、なんてことも有り得るから目も当てられない。だったらどうするか。
建物やクローゼットの中に隠れるか。
考えが浮かんでからすぐに首を振った。駄目だ。隠れたら見つかったときに逃げ切れる確率が皆無になる。家ならクローゼットよりは望みがあるかもしれないが、所詮は五十歩百歩。室内で肉切り包丁を振り回されたらどうなるかわからない。家具ごと俺が細切れに、ということも有り得るから困る。
“アレ”のことを思い浮かべながら聖堂の中央にある祭壇を見る。半分以上なくなった蝋燭が錆びた燭台に立っている。白いはずのそれは赤黒い月夜の所為でほんのりと薄桃色になっていたが、昨日と寸分変わらず同じ形をしている。
昨日、と思い浮かべてハッとした。
思い出した。俺は“アレ”を見たことがあった。紙の上で。
* * * *
あれは市場で買い出しをしている最中のことだった。ジョージ3世の生誕祭を間近に控えた街中では、国内外からモノというモノが生誕祭に合わせて盛んに流通していた。だからか普段は週1で街の各所にぽつぽつと開かれる市場が連日場所を変えて開催されていた。ここまでなら大歓迎だった。
昨日はいつもより多い人ごみの中をかき分け、食料の入った紙袋を抱えて歩いていた。生誕祭前後は街全体が華やぐ。つまり、人が多くなるということだ。人ごみにもまれるのが嫌いだからまだ暗いうちに聖堂を出て、日が昇った頃に帰るのが習慣づいていた俺は人ごみに酔いつつうんざりしていた。何しろ人が多すぎる。歩いている最中に何度か足を踏まれた。わざとでないこともわかるし、実際俺も何度か見知らぬ相手にぶつかったり足を踏んでは謝ることを繰り返していた。一々腹を立ててはいられない。とはいえ、少し疲れてしまった。
通路から離れてブロック塀に寄り掛かった。聖堂に帰れば併設している孤児院の子供の世話もある。何人か聞きわけの良い子供もいるがまだ幼い。その子らに更に下の子供たちの世話を全て見られるか、と他人に問われたら俺は首を横に振れる自信がある。だからこのまま消耗しきった身で帰れば間違いなく日没まで持たない。休息は大切だ。そう悟ってふと横に張り紙があることに気がついた。
それで俺は初めて“アレ”を見た。
「――様、ニコール司祭様」
自分を呼ぶ声で我に返った。声のする方を見ると、いつも懇意にしていた商店の店主だった。慌ててたたずまいを正して向き直った。
「リュードさん、おはようございます。何度か呼んでいらしたようなのに、気付かずにすみませんでした」
「いえいえ、滅相もありません!私が市場で偶然司祭様をお見かけしたのでご挨拶をと思っただけです。むしろお休みのお邪魔をしてしまったようですみませんでした」
安心させるように微笑むと店主、リュードはぺこぺこと頭を下げた。邪魔、確かに何かを考えていたような気がするから邪魔にはなった。だがそろそろ聖堂に帰らなくてはいけない頃合いになっていたことも事実。
リュードに人の良さそうな顔を見せることにした。
「顔をあげてください、ご挨拶をと思ってくださっただけでも嬉しいですから。それに私はただ、あの紙の者を見ていただけですよ」
手で張り紙の方向を指すと、リュードは苦々しい顔で壁を見た。
「紙、あぁあの指名手配書の。Tetragrammaton Labyrinth of the Heaven(天の断罪者)、ですかね」
「Tetragrammaton Labyrinth・・・ええと、なんですかそれは?」
「Tetragrammaton Labyrinth of the Heaven(天の断罪者)ですよ。殺しをしている者だそうですが、いつも犯行現場に血でTetragrammaton Labyrinth of the Heaven(天の断罪者)と書いていくので。あまりにも多岐に渡るから特定ができないらしくて、最近噂になっているんです。でもやっと手配書ができたんですね」
「多岐にわたる、とはどういうことでしょうか?」
「殺された者がバラバラなんですよ。強いて言うならそのほとんどが庶民な点でしょうか・・・若い男や老婆、中には年端もゆかぬ少女にまで手にかけていて。もっとも被害者の中には窃盗や刃物沙汰を起こしたことのある者も数人いたらしいですが。だけど犯罪者が清廉な審判者を、ましてや天の主の名を騙るなんて」
とんだ悪魔ですよ。
リュードはそう吐き捨てた。俺はもう一度指名手配の張り紙を見る。目の位置の空洞と中央に丸い吸収口があるだけのおどろおどろしいマスクで、頭全体を覆い隠しているからか容姿はわからない。しかも肩から上だけしかない。人相書きは捕獲にほとんど機能をしていなかった。
「殺された者はみんなバラバラに切り刻まれているらしくて、この前殺されたジョブンなんて腰を境にぶった切られて壁に磔のようにされていたとかッ」
リュードは段々と早口になって張り紙の指名手配の男のことを語る。興奮しているのが目に見えたが、その目は恐怖に彩られていた。俺はリュードの肩を優しく叩いた。こんなときは目を合わせて話すのが肝心だ。
「落ち着いてくださいリュードさん。ちゃんと手配書が出たということは、警察もきちんと捜査をしている証拠ですよ」
俺の言葉にハッとしたリュードはすぐに表情を引き締めて真剣な面持ちになる。持ち直したようだ。良い傾向である。このままたたみかけるように俺は口を開いた。
「どんな形であれ手配書が出たんです。きっとすぐに犯人も捕まりますし、私たちも様子がわかるので出かけ先で用心ができます。だから自衛しながら待ちましょう」
また微笑むとリュードはコクリと頷いた。そして短く挨拶をするとまた市場の雑踏の中に消えていった。
俺はため息をつくとまた指名手配の張り紙を見た。体格の良い大男で肉屋にあるような包丁を持っていたらしい。体格の良い大男なんて腐るほどいるし、凶器の包丁だって珍しいものでもない。いくら少ないからとはいえ、こんな情報だけでよく指名手配をすることにしたものだ。特に最初に疑われたであろう近所の肉屋の亭主には同情を禁じ得ない。傭兵上がりの彼は指名手配書の項目を、マスク以外はクリアしているからだ。人当たりが良く、優しくて信仰深い人物なだけに大変だろう。
良い話が聞けたがどっと疲れた気がする。今度こそ帰るか。
しかし。
「上手く書けていないな」
無意識に呟いた言葉は市場の喧噪で霧散した。
* * * *
「そうだった、“アレ”は・・・!!」
何故今まで気がつかなかった。昨日見たばかりだったからか。違う。様子がおかしかったからか。合っているけどそうじゃない。
心に余裕を持てなかった。だから判断が出来なかった。だが、まさか街に実在していた殺人鬼と同じ者がいるなんて。殺人鬼が処刑者。ジョークにしてはつまらなすぎる。
目の前が少し霞んだ。倒れそうになるのを必死でこらえる。ここで気を失ったら、間違いなく待っているのは死のみ。耐えなくては。だが。
逃げるのも駄目、隠れるのも駄目。
なら一体どうすればいいのか。
処刑者だが断罪者だが今更どっちでもいい。相手は俺を殺す気で来ている殺人鬼なことは変わりない。このままでは殺され、る?
「殺される、そうか」
俺の頭の中で光りが瞬いた。
殺される前に俺が殺せばいい。
簡単なことだった。先手必勝というものだ。“アレ”を殺してしまえば捕まることはない。つまり逃げ切ったもの同然。そもそも“アレ”は犯罪者だ。天の名を騙った殺人鬼。しかも今は俺の命を故意に狙っている。これでやり返したとしても正当防衛になる。俺は悪くない。
そうと決まれば話は早い。俺は窓の外の様子と周囲を確認する。外は静かだった。勿論“アレ”が聖堂に侵入した形跡もない。深く呼吸してから孤児院へ足を進めた。
孤児院と聖堂は同じ建物の中にある。聖堂を入って左奥の扉を開けるとそこから先は孤児院だ。ここの孤児院では大人は司祭の俺一人だけで、代々司祭が院長も兼任している。幸せなことに寄付やお布施で聖堂の維持をしたり子供を育てていったりするのには事足りている。が、カツカツの生活をしているため他の者を雇う金はない。子供を養うだけで精一杯だ。
子供は一番上が13~14歳。下は際限がない。孤児院の子供たちが道で捨てられている赤ん坊まで拾ってくることもあるからだ。俺も捨て子や迷子は進んで保護するように言い含めてあるから、別に咎めていない。上が13~14歳までしかいないのは、そのくらいの年になると孤児院を卒業して貴族へ奉公に出たりして独り立ちするからだ。途中で養子縁組みして出ていく子供もいるが、大体はそんな理由で俺の孤児院では他と比べて低年齢化が加速している。
時間の流れが同じなら今頃子供たちは静かに寝静まっている頃だろう。元々遅くなるから先に寝ておくように伝えてあったので、外へ俺を探しに出歩いてくることもないはずだ。それに今の街は危ない。いつ例の殺人鬼が出てくるかわからない。
孤児院の子供がバラバラになる姿を思い浮かべて、思いきり首を横に振る。駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。そんな目に合って死なせるために、俺はあの子供たちを育ててきたわけじゃない。けして死なせるものか。俺の大切な子供たちを!
そのためには、“アレ”を消さなくては。
俺は台所で武器になりそうなものを探す。鍋は硬いが振り回すには動作が大きくなりすぎる。木製の丈夫なまな板を見つけた。野菜や魚を切る際に使っているもので、振り回すのもやり易い。だが、使い古し過ぎて所々朽ちている。“アレ”が一度殴っただけで死んでしまうような者に見えないし、一撃でまな板自体が大破しそうだ。耐久面が酷く心配だから別のものを。
探すこと幾分。台所のテーブルには武器になりそうなものは全て出されていた。フライパンもだめ、木ベラもだめ。カボチャは論外。そして不思議なことに探しても探しても何故か包丁の類いが見当たらない。台所なのに何故なのか。わからない。
でも諦めるわけにはいかない。本物の街に徘徊する殺人鬼と同じ者が、例え模造品でも俺の住む街にいるのは許されない。刺し違えても“アレ”を始末しないと。子供たちが危険だ。
そうだ。
もしかしたら俺の部屋になら何か頼りになるものがあるかもしれない。確信はないが探してみる価値はある。
このまま外へ出て、武器になるものを探している最中に“アレ”に見つかって追いかけっこを再開するよりは数段良い。自然と俺の足は二階の自室に向かっていた。
自室は木の匂いで充満していた。本物の街と変わらないことに驚きつつも、更に涙しそうになっている自分にまた驚いた。今は感傷に浸っている場合ではない。涙を我慢し、武器の捜索に専念する。
部屋には木のベッドと壁時計、机と椅子にクローゼットと簡素なつくりになっている。聖職者なのだから過度な贅沢は必要ない。ベットサイドを探す。枕元に聖書があった。重たいし手軽だから武器としては最適だろう。本の角を勢いよく頭にぶつけるととても痛いから。
まじまじと聖書を見た。読み古されたあとが各所に見受けられる。武器として扱うには躊躇した。そもそも俺は聖職者だ。聖職者が聖書を武器として扱うのはどうだろうか。聖書は読むものだ。とはいえ今は非常事態。見つからなかったときの最終手段として聖書を残し、他のものを探すことにした。
クローゼットを開けた。麻のシャツや黒のズボンや司祭のローブがある。司祭のローブは1着しかないから大切に使っている。今の俺は麻のシャツにズボンという簡素な服装だった。教会の用事以外の理由で出掛けていたから、そのままの装いだったのだろう。そういえば“アレ”も同じ格好をしていた。繋がれた肉塊の所為で破れたり汚れたりしていたが。庶民の普段着だから目新しくはないが、“アレ”は庶民だったのか。そう思っていたときだった。
指先に痛みを感じた。右手の人差し指を見ると浅く切れて血膨れが出来ていた。その瞬間、期待が胸の中から沸き上がった。急いで怪我した指先があった場所に手を入れ、怪我を引き起こした元凶を取り出して、驚愕した。
台所で必死に探していた包丁があった。
赤黒い空と月は何故か昼間のような明るさがあったから視力に不便を感じなかったが、俺は手探りで薄暗いクローゼットの中を探していた。だからまさか刃物が、しかもクローゼットの中にあるなんて思わなかった。
俺は包丁を見つめていたが、自然と口角が上がっていくのに気がついた。笑い声が出そうになるのを口を塞いで抑え込む。やった、やった!これで対抗手段ができた!
包丁だから上手く近づかないといけないのが難点だが、あるだけでも心強い。これで後は“アレ”を待つだけだ。窓から外の様子を見てみよう。そう思って窓の方向を向いた。
手が見えた。
べっとりと赤の手形が窓についた。そして手は窓の枠を握り、ゆっくりと持ち主の腕と身体が引き上がった。手形の主は先程見ていた、俺を追いかけていた“アレ”にそっくりだった。いや、同じ、同じ者だ。直接二階の俺の部屋へ上がってきたッ!
がたがたと身体が震える。それは窓も同じだった。顔をガラスに張り付け、ガンガンと“アレ”は窓を殴り付けている。しかも殴り付ける度に肩や首に縫い付けられている肉塊が脆い部分がボロボロと落ちていく。窓ガラスのひび割れる音とぐしゃりとした窓越しからも肉塊の落下音が聞こえて、緊張は一層高まる。あぁ割れてしまう!
そう思うが否か。けたたましい音をたてて割れた窓ガラスと共に“アレ”が部屋の中へなだれ込んだ。同時に腐臭が鼻を刺して、無意識のうちに俺は前に包丁を構えた。ゆっくりと“アレ”は起き上がる。割れた窓ガラスの上へ倒れ込むように侵入した所為で、身体は破片であちこち擦りきれていた。それは縫い付けられている肉塊も例外ではなく、特に肩にある少年のようなものの死体にはまだ破片が刺さったままだ。いくつか欠陥していても苦悶の表情を浮かべているのがわかるからか、痛々しくて見ているのも辛い。俺は思わず後ずさった。
“アレ”は近づく。破片を気にもせず歩く。だから“アレ”が近づく度に強くなる鉄の匂いが鼻についた。
トンと軽い音がして、俺は壁際に着いてしまったことを悟った。まるであの路地の再現だ。俺の部屋に隠し通路はないこと以外は、全く同じ状況だ。“アレ”が肉切り包丁を振り上げる。やっぱり同じだ。でもそれなら――好都合。
俺は“アレ”が包丁を振り上げた瞬間、突進して胸に包丁を突き刺した。“アレ”はぐらりとよろめくと、包丁を落として仰向けに倒れ込んだ。俺はすぐ“アレ”の上に馬乗りになると胸に刺した包丁を抜き取り、また勢いよく刺した。ぐしょりと嫌な音がする。我慢してもう一度抜いて、また刺す。噴水のように赤色の水が吹き出す。気にも止めずに更に抜いて、また刺す。抜いて、刺して、抜いて、刺して、抜いて刺して抜いて刺して抜いて刺して抜いて刺して。
始めの頃こそ“アレ”は、刺す度にぐぉあ゛ぁと声を上げていたがしばらく繰り返すと声は出ずにヒューヒューと荒く息を出すようになった。気にせずに繰り返すと声は出なくなり、遂には2度痙攣すると動かなくなった。死んだ、のだろうか。
脈を測る。全くなかった。呼吸は聞こえない。人肌程はあった“アレ”の体温も今は金属よりも冷たくなっている。
やった?俺は“アレ”を、殺人鬼を倒した?
未だに信じられないが、目の前の光景が真実だと訴えてくる。視覚に捉えれば捉える程、だんだんと俺の胸の中には幸福感が充満してきた。やった。やった、やった!俺は倒した。俺の命を狙っていた者を、指名手配書の殺人鬼を、悪を倒した!
床はすっかり赤くなってしまっていた。木製の床だから濡れたままにしておくと腐ってしまう、などと思いながら立ち上がると包丁が視界に入った。包丁の刃も真っ赤だった。とりあえず包丁を洗おう。いくら模造品の街の物だとしても、放っておくのは聖職者としてどうだろうか。
部屋の中の時計を見る。針は11時23分を差していた。条件の時間まで近かったことに俺は驚いた。余裕とはいかなかったが条件はクリアできた。あとは時間まで待つだけだから、包丁を洗ってしまい込む時間は十分取れる。台所へ行こう。
取っ手に手をかけて扉を開けようとしたとき左肩に二度、軽い刺激を感じた。怪訝に思って振り返ると。
「はい。ちょっと待とうかニコール君」
今回の騒動の張本人、仮面をつけたフードの男が俺のすぐ後ろに立っていた。
「な、な、お前、どこからッ!?」
「え、今更?今更驚くのかよお前?いいけどさ。それより包丁を洗う前にちょっと話そうぜ、な?」
朗らかな声で手招きをする男に素直に嫌悪感が沸いた。ふつふつと。胸の奥から何かが生まれてくるのがわかる。この男。
「――の所為で」
「え?」
「お前の所為で!俺は、死ぬかもしれなかった!死んでしまっていたかもしれなかった!お前の所為で!お前の所為でッ!」
俺は持っていた包丁で男に向かって切りかかった。だが男はおおっと、と間の抜けた声を出してすんなりと避ける。何度も振り回しても男の余裕綽々な態度は変わらずに、更に俺はむしゃくしゃした。もう一度と右から左に振って避けられたとき。
「はい、そろそろやめような?」
男はいつの間にか俺の横に立っていた。と思ったら手首に衝撃が走った。痛みに驚いて包丁が手から滑り落ちた。大きな音を立てて落ちたそれを拾おうとかがむと、男は足を器用に使って部屋の隅へと包丁を蹴った。そして俺の頭をつかむとベッドへ投げる。
「ぐぁっ」
「落ーちー着ーけーよ。言い分はわかる気がしないでもないけどよ、話があるからまずはそれを済ませようぜ」
どっちだよと言いたかったが上手く声が出せない。ずっとムカムカしているからだろうか。声にならない声が出るだけだ。俺の様子を見た男は“アレ”の元へ近づいた。
「脈ナシ呼吸ナシ体温マイナス。うん、やっぱり機能は完全に停止したな。おめでとうニコール、まさか条件の盲点を突いてくるとは思わなかったぜ。すごいわお前」
腕を組んでうんうんと頷く男に苛立ったが同時にほっとした俺もいた。何せ主催側の判断だ。もう追う者はいない。これで確実に帰れる。
「では、さっさとお話に入りますか。俺も暇じゃあないし」
男は“アレ”の顔のすぐ近くの位置にしゃがみこんだ。そしてそこから俺の顔を見上げる格好になった。
「ニコール、お前は悔い改めたか?」
「は?」
「お前は自分の悪行を悔い改めたか?」
意味がわからなすぎて怒りすら凪いた。この男は、何を?
「俺は悪いことをしていない。“アレ”を倒したことなら正当防衛だ」
「違う、そうじゃないだろ。俺が言っているのは、お前がここの本物の街で起こした悪行についてで」
「だから、何度も言ったが、俺は悪いことをしていない!」
思わずベッドを叩いていた。全く理解ができない。何を言っているんだこの男は。
確かに俺は“アレ”を殺した。だってそうするしか方法はなかったし、“アレ”は殺人鬼。指名手配書の犯罪者だ。しかも俺を殺そうとしていた。立派な正当防衛だ。本物の街でなら尚更俺は聖職者として、神に仕えるものとして相応しい行動をしている。断じて悪行なんて起こしていない!
憤慨して叫ぶ俺を、男はずっと見ていた。仮面の奥の感情はわからなかった。
だが、もし仮面を外していたら。男の瞳が表情がニコールを取るに足らないものとして、冷ややかに見ていたことを気づいていたかもしれない。しかしニコールはそこまでわからなかった。わからない程に逆上していた。
鬱憤を全て吐き出すとニコールはぜいぜいと肩で息をしていた。すると男はため息をついた。
「気が済んだか?」
「なっなんだと」
「あーあ、こんなやつのために俺時間割いてたわけ?はーマジ絶望的にやるせないわー、はー」
「馬鹿にしているのかッ!」
「馬鹿にしているのはそっちだろ」
いきり立って立ち上がるニコールに、男は冷水をかけるようにそっけなく言葉を放った。
「だってそうだろ、ニコール=フリューゲン」
言葉を続けてつつ、男は“アレ”が被っていたマスクを剥ぎ取った。
「いや、 Tetragrammaton Labyrinth of the Heaven(天の断罪者)だったか?」
マスクの下には今ベッドの側に立つニコール=フリューゲンと、瓜二つの顔が世にも恐ろしい形相で存在していた。
☆ ★ ☆ ★
俺は立ち上がってニコールという男の方へ歩いた。覆面を外した瞬間こそ凍りついたように動かなかったニコールだったけど、もう気にも止めていなかった。それどころか目の前に立った俺を睨んでくる始末。初対面からそうだったけど目付き悪いな。本当に聖職者かよ、暗殺者じゃねぇのか?やってることは聖職者より暗殺者に近かったし。
仕事中にあるまじきことを考えていると、沈黙に耐えかねたのかニコールが口を開いた。
「それは俺じゃない」
「はい?あぁ、確かに身体のデータを元にしただけで“アレ”はお前とほぼ違う個体だけ」
「違う。そういうことではない!」
「えっ、じゃあなんだよ?」
反射的に俺は自分でまとめた資料の内容を思い出そうとした。
「俺はTetragrammaton labyrinth of the Heaven(天の断罪者)じゃない!」
ん?
「でもお前何人も何人も殺してたよな?泣きながら逃げまどったやつも命乞いしたやつも、みんな仲良く平等にブッた切ったよな?」
「殺しではない、相応の罰を与えただけだ。刑罰として身体の部位を切断するのはありふれたことだ。特別なものではない」
んん?
「壁や柵に被害者を磔にしてたよな?口と手のひらと両ももに鉄杭打ち付けて」
「罪人は磔にされて何日か堪えることで神の救済を得て天使の元へ行けるのだ。俺はその手助けをした、それだけだ」
んんん??
何言ってんだこいつ。
俺はふらふらとデスクに近づいた。デスクには三段の小さなチェストが備え付けてある。その二段目の引き戸を開けると、中には先程“アレ”が被っていた覆面と同じものが入っていた。俺は覆面を取り出すとニコールの前に持ってきて、ひらひらとかざした。
「被害者の血液でTetragrammaton labyrinth of the Heaven(天の断罪者)って書いたよな?こんな感じの頭がすっぽり覆われるマスク被ってさ」
「天の代行をしたのだから、証を記すのは当たり前だ。だがそれは俺の名前ではない。マスクも被っていたが、断罪者は顔を見られてはいけはいのだから当たり前だ。やはりマスクも俺の顔ではない。よってTetragrammaton labyrinth of the Heaven(天の断罪者)は俺ではない、そこに寝そべっている“アレ”が本物のTetragrammaton labyrinth of the Heaven(天の断罪者)だろう?」
「いや指名手配の人相書なら確かに今は“アレ”が近いし、Tetragrammaton labyrinth of the Heaven(天の断罪者)なんて通り名になってる。けど、結局指名手配書で書かれるはずだった殺人鬼の正体はお前だし、何人も何人も殺してきただろう?」
「お前こそ何を言っている?俺はならず者に裁きを下した断罪者であって、なりふり構わない殺人鬼ではない。殺人鬼は己の快楽のために人を殺しているようだが、断罪者は天の声に沿って裁きを下して悪人を救う。神聖なものだ」
「そんなわけがあるか!」
思わず叫んだ。だが俺が叫んだ後でも、どうだと言わんばかりにニコールは胸を張る。むしろ俺の言動が全て間違っていると言わんばかりの態度に、くらくらとする頭を右手で抑えた。監察官を幾度もやってきてはいたけど、久々に面倒なやつを担当しているかもしれない。何故ならこの男、ニコールは自分の殺人を全て美化している。本気で自分が天の代行として、断罪してやったのだと思い込んでいる。殺してきた被害者たちを勝手に悪と見立てて。疑おうともせずに。
「ニコール=フリューゲン、現実を見ろ!お前のやっていたことは天啓を受けた断罪なんかじゃない、ただの人殺しだ。お前は自分の都合の良い解釈をしているだけだ!」
「違う。俺は天に従って断罪した、人殺しではない!」
「なら兵士志望の勇敢な青年を殺したのは?毎日礼拝に来る敬虔な老婆を殺したのは?学校に通う真面目な少女を殺したのは?何故殺した?一体彼らに何の罪があった?」
「青年は鍛練を怠って酒場にいた。老婆は聖餐式に遅れては物をこぼす。少女は十字架を亡くしたと言ってもう一つせがんできた。怠惰で傲慢で強欲な者たちだった。断罪されるべき者たち、断罪が必要な者たちだった。彼らも天直々の断罪を受けられて幸せだと言っていた」
「違う!そのとき青年は友人の祝杯を上げるために一緒に飲んでいただけだった。老婆は足を悪くしたばかりで、杖を上手く使えずに苦労していた。少女なんて本当に十字架を亡くしていて、殺される直前にやっと見つけ出したくらいだった!それを怠惰で傲慢で強欲?ふざけるのもいい加減にしろ!」
彼らは毎日を彼らなりに精一杯生きていた。他の被害者たちもそうだ。
中には窃盗歴のある人間もいた。でもその人間は既に刑期を終え、心を入れ替えたように力仕事に精を出していた。自分の過去を恥じて、二度と繰り返さないように未来を歩もうとしていた。
「殺されて当然?断罪されて本望?幻聴も大概にしろよ、そんな人間がいるか!お前がブッ殺してきた人間は皆、お前なんかより清らかで正直に生きていたよ!」
「嘘だ!懺悔すらしなかった、それどころか無責任に命乞いをしてきた!あいつらは薄汚れた欲の塊だった!」
「いきなり意味わかんねぇこと言われまくって自分を殺そうとするやつに、命乞いしても懺悔なんてするかよ!薄汚れた欲の塊はお前だよニコール!」
「違う、違う、違う!俺は断罪者だ、天の断罪者だ!悪魔などでは、穢れた存在では!」
「じゃあこの少年はどうした?」
「少年だと?」
俺は“アレ”の肩口に縫い付けた肉塊を指差す。顔を上手く残せるように移植していたはずだったが、眼球はなくなり右頬は顎にかけてごっそりとなくなっていた。乳歯が覗く口からまだ甘えたい盛りの年頃だったことが伺える。
ニコールは少年だったものを見たが、興味は無いようですぐ視線を移した。
「断罪した者の中にはいなかった少年だ。見たことがない」
「だろうな。この少年は“断罪”の被害者じゃねぇから」
「お前が売った孤児院の子供だもんな」
ニコールは聖堂に併設された孤児院で子供の面倒を見ていた。子供の数は普通の孤児院より倍以上多く、そのほとんどは5,6歳の右も左もわからない幼子だ。13か14になると独立をさせるので他の孤児院と比べて早熟だが、かなりの頻度で捨て子を保護していたから人数が大きく変動することはなかった。決して楽な暮らしぶりではなかったが例え赤ん坊だったとしても拾ってきては一人前に育て上げていたニコールは、街で正義感の強い人格者として伝えられていた。
年長者がいない。ニコールが意思をコントロールしきれなくなるから。
5,6歳の幼子ばかり。人買いに一番高く売れるから。
お布施や寄付だけで生活できる。子供を売った莫大な金があるから。
一生懸命面倒を見る。子供を傷物にしたくないから。
反吐が出る。
「どっちが強欲なんだか。なぁニコール司祭様?」
「何を言っている!強欲なのは断罪した者たちだろう」
「ほぉ、孤児院の子供を人買いの商人に相場の倍の金で売りつけるのが強欲じゃない?どうしても体裁を整えなきゃいけないとき以外は、子供を売って出来た金を全て自分でため込んで酒やたばこにつぎ込むのが強欲じゃない?ついでに花売りの女に貢ぐために法外な金利で金貸しをするのも?へー」
挑発的に投げかけると、ニコールは乗ってきた。頭がよく回るようだが単純だからやりやすくて助かる。その頭も今は脳みそじゃなくて藁が詰まっているみたいだけどな。
「あぁそうだ!そうだ!俺は何も間違っていない!だってみんな俺のものなのだから!」
ニコールは堰を切ったように続ける。真っ赤な顔を醜悪にゆがめて。
元の街の人間が見たらまず同一人物だとは思わないだろう。それほどニコールは巧妙に猫を被っていたのだから。
俺はただ黙って目の前の男を見ていた。
「赤ん坊の頃から世話してやったのは誰だ?養ってやったのは誰だ?苦労して、自分の時間を使ってあれまで育ててやったのは誰だ?俺だ、それは俺だ!だったら自分の思い通りにして悪いことはない、だって俺が育ててきた、俺のものなのだから」
「思い通りにすることと悪いことは必ずしもイコールにはならないぜ。良いことだってもたらすからな」
「なら俺は」
「でもな」
無理矢理ニコールの言葉をブッた切って続ける。
「それは相手が道に迷っているときに手を差し伸べて案内するような、ささやかで客観的なものだから良いことになる。でも、一歩だけでもその定義から外れたら、もうどんなことをやっても全部自分本位の害悪でしかなくなる。それが“思い通りにする”ってことだ」
ニコールは苦虫を噛み潰したような顔をした。多少思うところがあったらしい。誰かに言われたことでもあるのだろうか。それでも改善しなかったのか、この男は。
俺はニコールに一歩近づく。ニコールは動かない。
「ニコール、お前はやりすぎたんだよ。お前のやったことは一方的に相手を、自分の孤児院にいた子供たちを不幸にすることだ」
また俺は近づく。
「違う」
更に近づく。
「違わない。賢いからもうわかっているんだろ?だけど今までの業が深くて認められないんだろ?だったら償えばいい、時間はかかるかもしれないし大変だろうけど償う意思を忘れなければ構わない」
更に一歩。
「違う」
最後に一歩近づくと俺とニコールの距離は肩幅あるかないかの近さになった。右肩をポンポンと軽く叩く。
「なぁ、だからもうやめようぜ?一生使ってもいいから少しでも償って」
「違う、違う違う違う違うぅぅうッ!」
バンっと中々いい音が部屋中に響く。突然俺は床に背中から叩きつけられた。上手く受け身を取れたから頭を打つことがなかったのが救いかもしれない。
背中をさすりながら俺を押した方向を見ると、最大限目を開いて口をわななかせる男がいた。
「いったいなぁ」
「間違っていない俺は間違っていない、俺は正しいことをした!だって俺は断罪者なのだから、天に認められた断罪者なのだから!ふ、ふふふ、ふひゃひゃふひゃっふひゃひゃひゃははははははははは」
瞳孔を上げきって、不自然に上がりきった口からは泡を吹きつつ奇声を上げながら笑い続けるニコールにため息をついた。盲信する人間の末路はいつもこうだ。人間に限ったことではないけど。
「おお?そこに穢れた魂を持つものがいるな?なんということだ!早速天の断罪を!」
断罪を、と熱に浮かれた瞳で焦点を合わせた先にいたのは、俺。言うが言うまいがニコールと呼ばれていた狂人は床の隅に落ちていた包丁を手にして、一直線で俺に突進し、貫いた。
包丁が俺の体を貫いたのを確認したニコールは俺を床に押し倒すと、“アレ”を倒した時のように馬乗りになった。ニコールは特に抵抗をしない俺を見て気味の悪い笑い声を立て、俺の胸の上に包丁を構えた。
「懺悔の時間を与えましょう。さぁさぁ、懺悔をしなさい。主の目の前ですよ?それとも今まで断罪してきた者と同じように助けてくれとのたまいますか?」
「私を助けてくださいー、死んでしまうのは嫌ですー、お慈悲をくださいー」
俺は命乞いをした。俗にいう棒読みだ、本気で命乞いをするわけがない。特に目の前の殺人鬼のような人間に命乞いなんてしたくもない。全ては煽るためだ。
案の定殺人鬼は口角を歪め、耳障りな声をあげて笑った。ぐるんと天井に向かって頭を上げた。
「あぁあぁ、やっぱり薄汚れた魂だ!傲慢に強欲に暴食に怠惰に嫉妬に色欲にまみれて穢れた存在だ!主よ、天にましわす我らの父よ!私、ニコール=フリューゲンは今ここで、貴方の世界が光り輝くものになるようにこの者を貴方に代わって断罪いたします!」
そしてまた勢いよく下を向いた。恍惚とした表情を浮かべ、全てに酔っている殺人鬼はキッと俺を睨みつけた。
「さぁ、神の元へお行きなさい!」
そう言って包丁を振り下ろした。
「おひょお?」
「――もういいか」
振り下ろした包丁が俺の胸に刺さることはなかった。俺が右手で刃先を握りしめて止めたからだ。ぶるぶると震えながら殺人鬼の腕はなおも俺の胸を貫こうとしているが包丁が1ミリも、更に言うと1ミクロも動こうとはしない。どんどん殺人鬼の顔が焦りに歪んでいく。
俺は自分の右肩を反らして、右肩があった方向に殺人鬼を引き寄せて体勢を崩させた。思い通りに崩れてくれた殺人鬼を確認すると右手を離し、左足で殺人鬼を蹴った。殺人鬼は“アレ”が壊して入り込んできた窓から外へ吹き飛ばされた。どさりと落ちる音がする。ゆっくりと俺は起きて床を蹴ると宙を舞い、窓の外へ静かに降り立った。
殺人鬼は生きていた。生きておくように力加減を調節したつもりだったけど、どうやら何本か折れてしまったらしい。うめき声を上げながらうずくまっている。俺は通常なら曲がらない方向に変形した殺人鬼の左腕を踏みつけた。
「うぐあぁああ」
「馬鹿だなーお前。あの流れなら普通許してもらえてちゃんちゃん、で終われたはずなのになー?正直なやつは大好きだけど、これはマズいわ。絶望的にマズいわ」
ぐりぐりと力を入れるとぐしゃりと腕が潰れてしまった。つんざくような絶叫に耳を塞ぐ。また力加減を見余ったのかもしれない。ちょっと痛みを与えるだけだったのに。
「俺もさ?情けをかけたつもりだったんだぜ?こんな異世界まで作って、罪を意識してもらうように同じような見た目の“アレ”作って。まさか壊されるとは思わなかったけど、自覚して悔い改めてくれたなら別にいっか、なんて思ってたんだけどさ」
舞台を揃えるのは意外と楽しかった。実際下界を見に行って、市場や酒場やカフェや工場で人の様子を観察して。紛れ込んで一緒に日雇いとして働いてみたこともあった。今の大掛かりな仕事の準備とは言えど、わくわくした。充実していた。
その舞台の街を見渡す。我ながら会心の出来だ。今度あいつらを誘って本物の街へ行ってみよう。同じような趣味を持っているし喜ぶかもしれない。あ、世話が大変だ。
「何故だ」
「はい?」
綺麗なあの街をあいつらと歩く姿を思い浮かべていたら、足元の殺人鬼の存在を完全に忘れていた。そういえば仕事中だったか。でも殺人鬼は俺を認識していないようだった。
「主よ!何故、何故こやつは断罪されないのですか!こやつは穢れて薄汚れた魂です!断罪されるべき人間です!何故、何故この男は生きているのですか!」
上を向いて叫ぶ殺人鬼に少しだけ驚いた。骨が折れて、俺の過失が原因でも腕が一本ちぎれているのにまだ意識が残っていて叫べるのか。少し笑ってしまった。
殺人鬼は上に向かって叫ぶ。天井にはまがい物の月と赤黒い空しかない。どっちもここは異世界なのだと実感させるようにわざと作ったものだった。
「主よ!主よ!私に力を、この人間を倒す力をお与えください!このような悪魔を世界にのさばらせないために!」
「いやいやいやいや、ここ神来れないから。関与とか無理だから」
笑いだしたくなるのを必死でこらえる。そもそもこの殺人鬼がご執心の神は偶像にしか過ぎないし、本物の神はこの殺人鬼の存在すら認識していない。基本的に神とはそういうものだ。
神は我を見捨てたのか!と叫ぶ足元の殺人鬼に教えたくなってきたが教えても結局は問答の繰り返しになるだけだ。やめた。
それに、そろそろ頃合いだろう。
ザッザッと芝生を踏みしめて何かが俺の方向へ近づいてくる。近づいてきた相手に俺はにこやかに手を上げた。
「おーお疲れさん。やっと来たか」
手招きをした相手は“アレ”に酷似していた。いや、酷似しているわけではない。“アレ”そのものだ。しかもその数はどんどん増えて、気がつけば納屋が建ちそうな広さの敷地いっぱいに“アレ”が集まっていた。それでも男はブツブツと上に向かって何かを言っていた。“アレ”がこの場所に沢山いるのは気がついていない。
「んじゃ、頼むな?あんまり時間がないし」
言いながら俺は孤児院兼聖堂の出口に向かって歩き出した。後ろの方では刃物で肉を切る音がする。出来れば正気のままああいう目に合わせたかったけど、仕方ないか。
そういえば最期の言葉は少し面白かった。穢れた魂だのなんだの聖職者じみたことを言ってたくらいにしか思っていなかったけど。いや、むしろ聖職者だからか?
俺は後ろを振り返った。もう“アレ”こと処刑者の姿しか見えないけれど、そこにいるであろう殺人鬼に投げかける。
「七つの大罪、次は憤怒も忘れるなよ」
踵を返した俺の足は聖堂を出ると自然と役所に向かっていた。役所の前に着いて時計を見上げる。もうすぐ12時を指すところだった。
秒針が10秒を切った。心の中でカウントダウンをする。5、4、3、2、1。
0を数えた瞬間、景色が揺らいだ。
これで『嘘のような本当の』は完結です。ご愛読ありがとうございました。
また、今回も予告通りに投稿が行えず申し訳ありませんでした。
この場をお借りして謝罪させていただきます。
-----------------------------
活動報告にてあとがきのようなものを掲載しています。タメ口全開、顔文字ありなふわっふわの駄文しかありませんがよろしければどうぞご覧ください。