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嘘じゃない本当の  作者: シヲンヌ
1/2

目を覚ますと知らない場所にいた。




ゆっくりと体を起こすと言いしれない痛みが肩や背中に襲う。どうやら長い間眠っていたらしい。立ち上がりながらコリをほぐしつつ周囲を見渡す。レンガ造りの街並みにガス灯の明かりが壁を床を照らしていた。ぽつぽつと点在するガス灯にかかっているテナントに『God Save the King|(国王陛下万歳)!』と書かれているのを見たとき、俺の頭の中で一筋の光線が走った。

慌ててもう一度周囲を見渡す。夜7時を指す役所の時計。新しく建てられたコーヒーショップ。自称老舗の花屋。やたらかわいいと評判の看板娘がいる美味しいパン屋。やっと最近売れてきたとこぼしていた新聞屋の屋台。間違いない。ここはロンドン、しかも俺の住む街だ。



知っている場所だったという安堵と共にまた一つ特大の、奇妙な疑問が降ってきた。俺の記憶が正しければ、おそらく今はジョージ3世の生誕祭の前後だったはず。

お堅いロンドン中央のことは知らないが、この街では国王陛下の生誕祭前後の時期になると非常ににぎやかになる。店は軒並み営業時間を延長し、子供は街を駆け回り、仲睦まじい男女が肩を寄せ合って歩く。ただ例年お祭り男がネズミの如く現れ、更にその中でもエスカレートした連中が方々、主に酒場で迷惑をかけては警官にしょっぴかれていくのも風物詩ではある。だからこそおかしい。

静かすぎるのだ。

今の街には犬猫ネズミは勿論人っ子一人いない。俺も住んで4、5年になるがこんなにも静かなのは初めてだ。建物には明かりすらついていない、ガス灯にはあるのに。



訳がわからない。お手上げとばかりに空を見上げると息を飲んだ。

赤かった。

夕焼けの赤ではない。空は血のように紅く、それでいて宵闇のように黒かった。その中にコンパスで画いたような完璧な円を模した月がいるのが当然とでも言うように浮かんでいる。

普段の様子からでは有り得ないほど静まり返った街と異常としか言えない赤黒い月夜。

絵画のようだと思った。不気味だった。でも同時にとても美しいと心から感じた。

そんなときだった。





ぱーぱらっぱらっぱー





後ろから突然トランペットの音が聞こえた。反射的に振り返ると、そこには人がいた。漆黒のローブに身を包み、同じ色のフードを目元までばっさりとかぶって数メートル離れた場所に立っている。右手にはトランペット。やっぱりさっきの音はこいつの所為か。

しかしどういうことだろうか。だってその場は、

確認したばかりなのに(・・・・・・・・・・)って?え、つまりお前もしかして俺が初めて?マジか、良かったなーお前」

クククと笑う目の前のローブの人間―どうやら男らしい―は俺の思考を読むように言葉を被せてきた。しかも一言一句違わずに言葉を発したから、俺は声が出なくなった。

「あー悪いな。別に怖がらせる気はなかったんだ、ま、信じちゃくれないかもしれないけどな」

俺がこの目の前の恐怖していると思ったらしい。肩を竦めてあっけらかんと謝罪してきた。その瞬間ちらっと赤紫色の髪と白銀の仮面がフードから覗いた。おっと、と男はいそいそとフードを被り直す。一瞬しか見えなかったが中々綺麗で手入れの行き届いた髪と光沢が素晴らしい仮面、だった気がする。もしかすると男爵や伯爵みたいな貴族階級の人間かもしれない。



じっと俺が目の前の男を見ながら考えていると、男は目を見開いてからむずがゆそうに視線をそらした。

「え、伯爵って、貴族って、・・・オイオイ嘘だろ冗談じゃねぇ。まぁ当たらずとも遠からずだけど、うん、まぁ仮面も褒められたし礼は言っておくか、うん」

今度は俺が見開く番だった。誤解のないように弁解させてもらうと、俺は今までのことを一切口に出していない(・・・・・・・・・・)。ということはこの男。

「読心術?」

「大正解。お前中々頭良いな」

「流石にここまで当てられたら理解はできる」

信じるかどうかは別の話だが。むしろこの状況で心を読まれていると少しでも考えない人間は本気で頭の中身を疑いたくなる。

「こらこらムッとすんなよ。事実いるんだよ、理解のない奴。だから正解にたどり着いたお前はもっと自信持てよ?」

「いらん。必要ないものを持つ意味がわからんな」

「あーそうですか。まぁ別に良いや、さして重要なことでもないし」



少しつまらなそうに男は右手のトランペットをくるくる回して真上に投げた。すると、トランペットはポンと気の抜けた音をたてて消えた。 なんだこの光景は。

「ここ、夢の世界、なのか?」

「へー驚いたな。18世紀って夢の概念あったのか?」

「お前、俺を馬鹿にしているのか」

男の顔を睨み付けると、男はわざらしくと怖がって震えてみせた。その男の様子に思わず歯ぎしりをする。

「どうどう。喧嘩売ったのは俺だけど、そろそろ本題に入らせてくれよ。あとここは夢の世界じゃないぜ、ニコール=フリューゲン?」

両手のひらを上下させて男は俺をなだめようとした。夢の世界ではないのなら、目の前の異常現象はなんだ。だがそれよりも。

「どうして俺の名前を知っている?」

この男とは初対面のはず。

「そもそもお前は誰だ?」

「まぁその辺はいいだろ、ニコール=フリューゲン。あっニコールって言うから。長いし良いよな?」

「答えろ!」

「うるっせぇな、別に良いだろって今は。そんなどうでもいいこといずれわかるっての、いずれな」

どうでもいいことってなんだ。重要なことだろうが。



めんどくさそうにため息をつく男に目力を強めると、男は額の辺りに手を当てた。

「あのさ、俺もニコールも今すっげえ時間ないんだよ。だからさっさと本題入りたいんだけど」

「本題?」

「そ。この世界についての話だよ、興味あるだろ?」

「当たり前だ!」

怒鳴り返したのにも関わらず、男は満足げにうんうんと頷いた。狐につままれたような気分がする。

「んじゃご期待にお応えして説明しますかね。ここは確かにお前が住んでいたロンドンのとある街だ。所詮模造品(コピー)に過ぎないけどな」

模造品(コピー)だと?ではここは」

「そう、ニコールの住んでいた街そのものじゃありませーん!ホンモノはちゃんと本来の場所に存在してるから安心しろよ」

「どうして俺はここにいるんだ!」




「理由はお前がよく知っているんじゃないか?」




ぞっとした。いつの間にか男は俺を穢れたものを見る目で見ている。さっきまでカードゲームでも遊んでるかのようにチャラチャラしていたのに。一気に周囲の空気が凍りついた。まるでナイフの切っ先を突き付けられているような気分だ。



男が突然眉を上げてこんなことしてる場合じゃなかったんだった、と言うまで俺はずっと固まっていた。視線を外されて、やっと何かから解放されたと思ったら全身の力が抜けてヘナヘナと腰が落ちた。そんな俺に男は目線が合うようにしゃがみ込んだ。

「なぁなぁニコール?お前さ、本当に何で自分がここにいるのかわからないのか?」

「わから、ない」

「本当に?」

「あぁ」



もう先程の剣呑な空気を纏ってはいない。立ち上がった男は首を傾げつつ唸っている。腕を組み、うんうん言う姿にこれは喜劇の一幕かと錯覚してしまうほど滑稽に見えた。少し立ち直ってきたのかもしれない。俺も立ち上がった。

「そっか。それならこれから起こることはニコールにとって、ちょっとツラいかもな」

「は?」

「いや、俺さ、この世界はお前の住んでいたロンドンのとある街の模造品(コピー)ってのは言ったよな?」

俺は頷いた。それで何でここにいるのかと聞いてあのザマだ。

「簡単に言うとここは異世界みたいなものだ。だから上はこんなだし、すごいにぎやからしいお前の街はとっても静か、ここまでわかるか?」

「あ、あぁ」

異質な理由はわかったが、異世界?何だそれは。相づちを打ってみたけど正直わからない。

「じゃあ最大の疑問、何故お前がここにいるか。それはな、ニコール=フリューゲン」




「お前が罪を犯したからだ」




周囲の音が止まったと思った。実際音なんて鳴っていないのだが、形容しがたい衝撃が俺を貫く。 そして、また男の周りには凍てつくような空気が漂っていた。

「俺が?罪を?」

「あぁ。しかもとびきり大きいヤツな、俺が直々に来ちゃうくらいには」

「そんなの、嘘だ」

「本当だぜ」

「嘘だ」

「本当」

「嘘だッ!」

「だから、本当なんだって」

「そんなことはない、そんなことはない!だって俺は、昨日だって!」

口に出してからハッとした。そういえば、さっきから俺は何故か昨日より前のことが上手く思い出せない。霧に包まれたようだ、とはよく言ったものだ。実際に起こると笑えないが。



男はため息をついて腕を組んだ。

「思った以上にヤバいな。でも良かったのかもな、“アレ”との接触前に介入できて」

「他にも誰かいたのか!」

明らかに異常な街の中で――男曰く異世界らしいが――ひとりぼっちではなかったということが、じんわりと胸に響いた。肉親や親愛の情はそこまで厚いわけでもないが、この状況下だと流石に心細くもなる。自然の摂理だろう。

「期待してるところ悪いけど、“アレ”はお前の敵みたいなものだぞ?むしろ敵だぞ?」

「なっ!?どういうことだ!」

「“アレ”はお前専属の処刑者だからな」

「処刑だと?!俺は何も」

「やってない、だろ?聞き飽きたっての。そもそも、本ッッッ当に何もやってないならお前はここにいないんだよ」

吐き捨てるように言う男を睨み付けた。刺のある語調で話されても、やっていないものはやっていない。確実に冤罪だ。

「兎に角、処刑者がお前のことを殺しに来るから。俺はそれを伝えに来たんだ」

「そんな理不尽な!」

「理不尽でもなんでも既に決まったことだ、さっさと殺されろ」

あんまりだ。俺が何をしたというのか。



でも、と男は俺を見据えた。

「上手くいけばお前は殺されずに済むし、運が良ければ帰ることもできるぜ」

「本当か!」

「俺が保証する。といっても条件があるけどな」

鼻で笑われたが気にしなかった。帰ることができる。俺の好きな、あの街に。

「どうすればいい!どうすれば俺は帰れる?」

「一つだけ。制限時間までに殺されないことだ」

「は?」

耳を疑った。あまりにも簡単過ぎるからだ。しかし男は平然とした態度で立ち続けている。

「それだけか?他にはないのか?」

「それだけだよ。あの時計で12時までに“アレ”から逃げ切ればいい。行動範囲はこの街全部。ちなみに街の外には出られないから覚悟しとけよ?」

「簡単過ぎる!」

堪えきれなくなって叫んだ。何故なら逃げるだけ。しかも男が言うように、ここが俺の住む街の模造品(コピー)なら俺が非常に有利だ。俺の庭と言っても過言ではない。そして相手はまだ俺を見つけられてすらいない。これを楽勝と言わずになんという。舐められていると思わずにどう感じる。

「条件は簡単くらいが丁度良いんだよ。でも?ニコールが帰りたくないなら俺はいいけど」

気持ち良さそうに伸びをする男に苛立ちが募る。まがりなりにも生命の危機が脅かされた人間が目の前にいるのに、心の底からどうでもいいと思っているのが手をとるように理解ができた。ふざけているのか。



どうやら目の前の胡散臭い男には、俺を元の街に帰らせる手段があるらしい。態度こそ褒められたものではないが、反して男の持つ手段の確実性が一層高いものだと理解できた。

役所を見る。街一番高い場所にある時計は8時を回ろうとしていた。あと4時間、4時間だけ逃げ切れば帰ることができる。

帰りたくないわけがない。すぐにでも帰りたいくらいだ。

だからこそ、非常に不本意だが条件を飲むしかない。

「わかった、条件に従おう。本当に逃げ切ればいいんだな?」

「あぁ、ちゃんとクリアしたら帰してやるよ」

約束だからな、と男は深く頷いた。義理堅い人間らしい。もっとも、見た目の胡散臭さと今までの態度の所為で信用しきれないが。さて、どうするか。

一番良いのは、処刑者らしき人物と制限時間が尽きるまで会わないようにすること。元々そこまで広い街ではないから無謀なことかもしれないが、それさえできれば怖いものはない。模造品(コピー)でもここは俺のホームグラウンド。やればできる。



逃げきる方法を考えようと下に向いたら、おぉ?と前方から間の抜けた声がしたからつい顔をあげた。いるのは構わないが、邪魔はしないで欲しいのに。

「おぉ。奇跡のご対面が叶いそうだ、やったなニコール!」

しかし予想もつかない言葉に俺は息を飲んだ。面白いものでも見つけたような顔に、思いきり文句の一つでもぶつけてやろうとした瞬間のことだったから。奇跡のご対面?一体何の、こ、と。

「まさか」

「大正解」

俺の後ろを指差す姿に血の気が引いた。自分のお気に入りな玩具を見つけて、嬉々として遊びだす直前の、純粋無垢な子供の反応そのものだった。フードを被っても、仮面を着けて目元を隠していても、何故か笑顔を浮かべていると理解ができた。俺は改めて戦慄した。

怖い。純粋に怖い。わかるからだ、本当に俺のことを、俺の命を、なんとも思っていないことを。そうでもなかったら、人は普通、これから殺されるかもしれない者の前で、こんな顔を、最高に幸福そうな顔をするものかッ!

よろよろと後ろに下がると、トンッと背中に何かがぶつかった。朦朧とした頭で後ろを振り向く。そこには何かがいた。先程から話に上がっていた“アレ”だということはすぐにわかった。

姿を確認した瞬間、俺の足は地面を蹴っていた。





* * * *





「ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい」

俺は肩で息をしながら、街の西側の路地に隠れていた。メインストリートから少し離れたこの場所は、本来俺が住んでいた街でも人気のない場所だった。街の喧騒から離れて少し頭を冷やしたい。そんなときにこの路地は楽園だった。だが緊急事態の今でも頭の中の考えを(まと)めるために重宝している。

逃げなくては。あの怪物から逃げなくては。

死に物狂いで足を動かしているとき、俺の頭を占めていたのはこれだけだった。仕方ないではないか。あんなものを見たら普通、誰だって逃げたくもなる。いや、逃げるしかなくなる。



処刑者もとい“アレ”は人ではなかった。怪物だった。いや、“アレ”を怪物と呼ぶには生ぬるい。

最初はどこにでもいる大男だと思った。マスクで覆われた顔から荒い息が漏れていたが、その胴体を見ると衝撃のあまりよろめきそうになった。

服装そのものは何も変わらない庶民のものだった。異様だったのは、その服がすさまじいほどの赤で染め上げられていたこと。人の、上半身や腕やあたまが絡まり合っていたこと。特に足の方は胴体の倍以上の量で、足首には枷のようにまとわりついていた。

そして“アレ”は肉切り包丁を持った腕を振り上げ、今にも俺の上に落とそうとしていたのだった。幸いにも“アレ”の動きが遅かったことと、俺が“アレ”の前から逃げることで早く距離が取れたため間一髪無傷で済んだ。だが背後で聞こえた衝撃音は並外れていて、一撃受けるだけで死者の仲間入りを果たすことはまざまざと実感できた。



背筋が冷えるのを、ぐっと奥歯を噛み締めることで我慢する。確かにあの男から、“アレ”のことは俺の敵だと聞かされていた。でも、例え敵だったとしても、一言二言くらいは会話ができると思っていた。人間として接触できると思っていた。だって俺の他にこの異常の中にいるたった一人の人間なのだから。なのだと思っていた。甘かった。浅はかだった。“アレ”は話の通じる相手ではない。

“アレ”は人間ではない!



思わず舌打ちしてしまい、響いた音に慌てて口を塞ぐ。バクバクと五月蝿い心臓を必死に宥める。だが他の音は聞こえない。ゆっくりと両手を降ろし、深く息をした。気を付けなくては。

兎に角俺の姿はもう“アレ”に認識された。認識されたということは逃げ切る確率が減ってしまったということ。失敗した。

だが“アレ”には、元々足の速い方ではない俺でもあの至近距離で追いつかれなかった。

つまり“アレ”は一撃が重たい代わりに瞬時に動けない。ならこの模造品(コピー)の街を如何に上手く逃げられるかが鍵になってくる。しかも俺は街の造りをよく知っている。どの道を行けば市場への近道になるかや、行き止まりになる路地の分かれ目など些細なものまで把握している。伊達に4,5年も住んできてはいない。鬼ごっこはまだ、俺が優勢だ。



とりあえず今はここに隠れておこう。今はまだ見つかっていないのだから、見つかるリスクを冒してまで行動する必要はない。幸いこの路地は街の中では狭い部類に入る。あの巨体では路地に入るのも難しいだろう。しかも行き止まりの道ではない。何から何まで好条件の場所だ。

万が一見つかっても俺の場所に来るまで時間がかかるはずだし、行き止まりの路地に入らないようにまた逃げればいい。遅いようだから走らずに歩いてもいいかもしれない。



希望が見えてきた瞬間のことだった。

ねっとりとした視線を感じる。獲物を狙う狩人のようなそれは、背中が自然と汗ばむくらいには熱烈で、危険な部類に入ることはわかった。何だこれは、と呟きかけて嫌な予感が頭をよぎった。まさか、そんなわけが。有り得ない。有り得てほしくない。

目の前には誰もいない。だとすれば背後が危険。確認したくないが、やらなければもしも本当に、俺の考えたことが起こっていたとしたら大変なことになる。逃げる準備をしなくては。それに違うならいいじゃないか。神経質になっているだけだと笑うこともできる。いずれにせよ俺が確認することでメリットはあってもデメリットはない。なら行うべきだ。



考えと対処法を簡潔に決めたところで俺は振り返った。後ろには何もいなかった。路地に面する家の堀の中や道の側の生け垣にも目を凝らして見たが、潜んでいないことが確認できた。張りつめた糸が一気にほどけたように空気が肺に流れ込む。良かった、と思う俺を咎めないでほしい。普通のことなのだから。だから前を向いたときにやっと、まだ緊急事態のままだったことを自覚しても咎めないでほしい。気付けたのだから。



“アレ”が路地の入口のど真ん中に立ってこちらを見ていることを。



一瞬だけ俺の頭は白で埋められ、体は蛇に睨まれた蛙のように動かなくなった。だが“アレ”がこちらに走り出すと硬直は解けていくつもの色で覆われ出した。そうだ、すくみあがっている場合じゃない。俺は帰る、生きて元の街へ帰る。だから今は“アレ”から逃げ切らないとッ!



踵を返して俺は“アレ”とは反対方向へ走る。傷一つない石畳の道を俺はとにかく駆ける。もう少しで分岐の多い角に着く。そこから更に行くともう一つ分岐のある角へ着く。後ろを振り返って“アレ”との距離を確認したら、まだ街灯1区間半くらいは離れていた。この二つの角を制すれば“アレ”を振りきれる!



一つ目の角を右に曲がった。二つ目の角まではまだ街灯2区間分程走らなくてはいけない。今のうちに確認しようと、後ろを見ると“アレ”はまだ追いついていないどころか姿さえなかった。曲がってからペースを上げたから、“アレ”とはかなりの差をつけているはず。しかも俺はもうすぐ二つ目の角へ到着する。

自然と口角が上がる。これは、もう確実に逃げ切れる。勝った。俺は“アレ”に勝った。

二つ目の角を右に曲がった。そして、俺はつんのめって転びそうになるくらいの急停止をした。




“アレ”がいた。




俺の目の前にいた。

相変わらず荒く息を吐いていた。

だが肩を使わずに息を吐いていた。

服や肌には汗一つなかった。

むしろ更に細切れになった肉塊と赤が増えていた。

“アレ”の肩の上の肉塊が動いた気がした。縫い付けられていたそれは右肩から上しか存在しておらず、少年のようなあどけなさと線の細さの痕跡が所々えぐり取られていた。

その少年の顔と呼ぶには不完全になりつつある部位を呆然と見ていると、“アレ”がおもむろに包丁を持った腕を振り上げたのが視界の端に映り込んで俺は我に返った。

後ろに下がった瞬間、包丁が鼻先をかすめて横のブロック塀に叩きつけられた。レンガの破片が宙を舞うのを確認せずに、俺は逆走を始めた。



しばらくは繰り返しだった。

分岐の多い角を曲がり、俺が更に角を見つけて曲ると“アレ”が待ち構えていた。そして俺が逆走して別の道を探す。また別の分の多い角を見つけて曲がって更に角を見つけて曲がる。すると“アレ”が待っていたかのように立っていて俺は逆走する。

走りながら後ろを見ると、やっぱり後ろから走って来る。ただし、そこまでは早くない。

ならばどうやって俺の先回りができたのか。

あの仮面の男のように読心術を使っている?いや、有り得ない。

仮に読心術を使うなら今みたいに“アレ”自体が俺の後ろを走る必要もない。どこへ行くかは大体決めて走っているから、それを読んで先回りすれば済むのだ。“アレ”は読心術を持っていない。ある程度走ったら先読みして行動しただけだ。



だからか俺は少しこの先の展開が見えた。



ひたすら走って走って走って。俺はまた角を曲がる。曲がってから俺はスピードを徐々に落として、ゆっくり立ち止まった。

そこは行き止まりだった。

この街では何ら珍しくもないレンガを固めたブロック塀にぐるりと囲まれたこの路地は、定期的に占術師が店を広げてカードを駆使しつつ腕を披露している。昨日は若い女が座って店を出していた。

その路地の突き当りで俺は振り返ると、すでに“アレ”が入口に立っていた。ずる、ずる、と足元の肉の枷を引きずりながら俺の方へ歩いてくる。相変わらず息は荒い。

俺は笑っていた。

認めたくはないが、“アレ”はすこぶる頭がいい。

この路地は街の中でも格段に狭く、巨漢が1人入るだけで精いっぱいの幅しかない。だからならず者が女相手にあんなことやこんなことをしないように、この路地周辺はよく警官が歩いている。勿論俺は男だがそんなことはどうでもいい。



この路地に“アレ”が入った時点で正面突破は不可能になった。今でも肩を塀に少しかすめるたびに縫い付けてある肉塊がこすれているのに、前から逃げられるなんてお花畑な考えを持てる程俺はまだ狂っちゃいない。そう、俺は狂っていない。非常事態なのに頭は氷のように冷たく、現に“アレ”の身体の状態を正確に観察できた。見た目だけでは教会に即処刑されてもおかしくはない相手なのに、だ。

“アレ”が俺に近づく。同時に俺は同じスピードで後ろに下がる。また“アレ”が近づく。俺も下がる。近づく。下がる。近づく。下がる。近づく。下がる。

こつんと、かかとの音が響く。行き止まりの道だから、終点についてしまったのだろう。ひんやりとしたレンガの温度が伝わってくる。もう下がる道はない。早まる鼓動を必死で宥めつつ、目の前の“アレ”を睨む。“アレ”は1歩近づくと、ゆったりと立ち止まった。

そして包丁を持った腕を振り上げ、落とした。


物語内では街は異世界という扱いですが、このサイトの決まりでは異世界とは分類されないそうです。

べべべ勉強ニナリマシタァアー!いや本当に勉強になりました、異世界系って奥が深い・・・

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