新荷冬芽の独り事 その3
「やあ、よく来たね。まあ座りなよ。ずいぶんと汗をかいているけど、どうしたんだい。実に暑そうだねぇ。ああ、今日は記録的な猛暑らしいな。そんな中歩いてきたとなればまあ、そうなるのもうなずける。ふふ、御苦労さまなことだね。忠犬トワ君、と言ったところか。くっくっく、犬が嫌なら、猫でもいいけどね。君、猫派だっけ、犬派だっけ? ちなみに私は猫派だ。といっても別に犬が特に嫌いというわけではないけどね、猫の方が、そう、面白い。ふむ、ついでだから猫について話をしようか。猫と言えば愛玩動物として最もポピュラーな動物の一つだけれど、様々なイメージが付きまとうものだ。たとえば、野性、自立、愛嬌、獰猛、狡猾、安らぎ、妖艶、きまぐれ、挙げ始めたらきりがない。実に様々な側面を持っている。猫は猫でしかないというのにね。全ては人間が勝手にくっつけたイメージさ。たとえばある映画で取り上げられていたことだけども、猫のイメージは人間の歴史によって徐々に変化する。たとえば猫が人間の歴史に登場したのはエジプトのピラミッドを建てていたような時代のことだけど、その時猫は神様だった。猫頭の神様がいて、猫が死ねばわざわざミイラにして丁重に葬儀したほどだ。そのころ猫に付随していたのは神秘性というイメージってわけだ。そもそも人間が好んで身近に置いた生き物で、狩猟だのの生活のためではなくて「愛玩」を目的としていたのは、猫ぐらいなものかもしれないね。もちろん、ネズミ取りという側面はあるかもしれないがそれ以上に愛されていた、といえる例が、エジプト軍の惨敗の話だね。ペルシャ軍とエジプト軍が戦ったとき、ペルシャ軍の兵士がネコを抱いていたらエジプト軍が攻撃できなくなって惨敗したという嘘みたいな実話は、あまりにも有名な話だ。猫好きが聞いたら卒倒するか納得するか、二つに一つって感じの示唆に富んだ話と言えるね。それからそう、逆に悪魔と思われていたような時期もある。今だって、黒猫が横切ったら不吉だなんて迷信があるけれど、実際魔女と黒猫はセットで考えられているし、まあ、猫の神秘性は裏返せば不気味さと変貌するということかな。全て物事は表裏がある。民話なんかで、化猫が普通の猫の振りをして、人間の言うことをじっと聞いていた、とかいう描写があったりして、なるほどと思ったりするものだ。それからそう、そういった不気味さは、一方で、獣の形をした知性を感じるせいかもしれないね。猫こそ最も知性的な生き物だ、なんて格言もあったりする。そう思ってみるとじっと座っている様子なんか、ロダンの考える人じゃないけれど、なにやら哲学的な思索でもしているように見えてくる。面白いものだ。あるいはねこじゃらしだのにじゃれついている様子を見たら全く無邪気で獣の特性をいかんなく発揮していて、のどをごろごろ鳴らしてすり寄ってきたりすればまさしく愛玩動物といった感じになったりする。とかく猫というものは二面性があり、つまり多面的な生き物なんだろうね。この多面性が好きな人もいれば嫌いな人もいる。どの面が見えるかによるんだろうけども、それがゆえに好みも分かれるのだろうね。たとえばディズニーでは猫と犬が出てくるアニメがあれば、猫が悪役に回されるという印象だけど、そこら辺を考えるとディズニーはどちらかと言えば犬派なのかもしれないな。考えてみれば、ジャンプが「友情、努力、勝利」を掲げているように、あっちじゃ、「勇気、愛情、正義は勝つ」ってモットーでもあるのかもね。それで気まぐれな猫よりは、一途な犬の方が「正義」には向いているってことだろう。遺憾とも言い難いし、いかんとも言い難いって感じだね。くっくっく。とまれ、猫にかくも多くの面があるわけだけどその全てはひるがえって人間自身にも当てはまる。猫に投射していたのは、なんのことはない、人間自身の姿だったという、ま、よくあるオチになるわけだね。いくら人間があれだこれだと騒いだところで、猫がなにを考えているかなんて、結局誰にもわからない。人が人を理解できないように、他人が他人を理解できないように、それは自明のことだ。もし、理解することはできる、なんて幻想を夢見ているならちょっと失望しちゃうかもしれないな。夢見る少女じゃあるまいし、空想の世界もいい加減に卒業すべきだ。くくっ、なーんて、私に言われちゃ、世話ないな。トワ君、気を悪くしたなら謝るよ。なにしろ私は饒舌だから、自分でも何を言うのか制御できないものでね。そして私は饒舌だから、聞き手がいなくちゃつまらない。もうこんな時間だから、君はもう帰るのだろうが、また、きっと私の話を聞きにおいでよ。―――まずは会うこと。それがコミュニケーションという奴なのさ。幸福なことにね。さあ、時間も押してきたようだ。良い子は帰る時間だよ。ふふ、じゃあトワ君、またね」
あと3話です。