新荷冬芽の独り事 その1
「やあ、トワ君。いやいや、まさかまた来てくれるとは思わなかったよ。もうあれっきり最後かと思ってた。……って言ったら、嘘になっちゃうかな。ほんのわずかでも、信じてみるものだね。そうそう、嘘と言えば。知っているかい。嘘に関する嘘みたいな話だけどね。人は嘘をつくとき、相手の目をじっと見てしまうそうだ。もちろんこれは俳優とかのプロには当てはまらない話だろうが、しかし奇妙なものだね。相手の目を見て正直に話せという言い回しと対極に位置する結果だ。まあこれは、ウソがばれていないか、相手の反応を見て確かめたいという気持ちがそうさせると言えるし、あるいは逆に、相手の目を見て正直に、というのは、聞き手が相手の嘘のないのを反応を見て確認したいという気持ちの表れだと言える。つまるところだます騙す方も騙されまいとする方も、相手の顔を見て反応を見て、その成否を確かめようとするわけだ。狸が互いに化かしあうみたいな滑稽さだね。つまりまあ、愛し合う二人は相手の愛が間違いないかという疑いを相手を見て晴らそうとしている、という面も見えてくる。『愛は信頼である』なんてとんでもない。疑いあいの晴らしあいさ。狩猟動物が相手を狩ろうとするときのようなものと言えるし、草食動物が相手から逃げようとする間合いを測ろうとしているようなものとも言えるかもしれないね。すべからく人間の行動というものは動物時代の名残を残しているということにも思い至る。たとえば笑うという表情は、もともとは威嚇の表情だったという説がある。文化によって感情を表す表情というものは微妙に違うものになるのだけれど、ごく基本的な感情に関していえば世界共通であるらしい。特にそのなかで、『笑う』という行為は、原型としては歯をむき出して歯茎を見せる表情だというものだという研究があるのさ。友好の証のはずの『笑顔』で威嚇とはなかなかどうして気の利いたブラックジョークのような話だね。有無を言わせぬ笑顔、というのは相手へ強要するときなんかに使われるけれど、これは案外、笑顔というものを最も笑顔として扱う表情なのかもしれないね。あるいは、友好の証としてさまざまな行為がそれぞれの文化の中で定型化しているけれど、それは基本的には『あなたへの攻撃の意志はない』ことか、あるいは『あなたから攻撃を受けても抵抗しない』ことを表現する行為だったということが分かっている。たとえば日本ならお辞儀をするが、これは人体急所のなかでも特に致命的である『後頭部』を相手に差し出す行為だし、西洋での握手は、武器を手に取っていないことを相手に確かめさせている行為だ。犬や猫がお腹を見せるのと同じさ。どこぞのSF小説のなかに出てきた電波猫が社会性を持った時、その挨拶として『自分のしっぽを尻に敷く』と言うのがあって、あれは確かに納得できる。『しっぽを押さえているとすぐに相手に飛び掛かれないから』だそうだよ。中世の騎士が叙勲される時、儀式として叙勲する王が叙勲される騎士の肩に剣を添えるという形式であるのもその系列に数えられるだろう。王の気がとつぜん狂いでもしたら、そのまま首を刎ねられる恐ろしい姿勢さ。幸いそんな猟奇的な王はいなかったようだけどね。まあしかし、中世の古城に出る幽霊にやたら首なしが多いのはついつい邪推をしたくなる。お国柄と言ってしまえばそれまでかもしれないね。ギロチンのインパクトがそうさせたのかもしれないし。まあ、おばけの定型なんて共通のものはそうそうない。たいがいのおばけは『不思議』『怪しいもの』の説明のために想像されて創造されるものだからね。不思議の数なんか無量だし想像の数なんか大数だ。地球規模の同じ自然現象を説明するなら同じようなものになるかと思いきや、ごく近隣ですら全く違う『妖怪』が当てられたりする。雷様が太鼓を叩いたからだとか、獣が空に駆け戻るからだとか、同じ日本ですらその有様だよ。たとえばおばけに足がないってのは日本特有の固定観念で、どころかごく最近できた『古典』だったりする。幽霊画が流行った江戸期とかに、足元の消えた絵をかいたらウケたからという実に商業的かつ流行的な理由で日本の幽霊から足が消えたのさ。消えた足がどこに行ったかというと、欧州の方では足音おばけや足跡のおばけがいるからきっとそこまで行ったんだろうね。くっくっく。海を渡れない吸血鬼と違って、幽霊はずいぶんグローバルワイドだな。お化けにゃ学校も試験もなんにもない、ついでにパスポートもどうやら要らないようだね。まあ、身分を証明する国際的公式書類であるパスポートなんてものは、そもそも存在が証明できない幽霊が持つにはナンセンスすぎるアイテムではあるかな。もしもパスポートを取得しようとしたら、たとえば住所の登録だけでも一苦労だ。幽霊の正体見たり枯れ尾花、じゃないけれど、まさか枯れ尾花の生えてる原っぱを住所として登録するわけにはいかないからね。お墓も厳密に言えば住所というには難しい。骨のある場所って意味ではお墓は最適だと思われているけれど、仏壇なんてものもある。仏壇と墓石と、住所も二重に登録することになるのかな。重婚は日本の法律では認められていないけれど、住所の二重登録はどうなんだろうね。まあそもそも従来、これは日本にはなかった新しい習慣だって知ってるかい。かつては土葬で、埋めたところが墓だったんだけど、今はなにやらミニ看板のようなものを家に飾ってそこに南無阿弥陀仏と言ったりする。かといって墓を無視するわけではなくて、やっぱり墓にも行って南無阿弥陀仏。あっちもこっちも忙しいから統一してしまえばいいものだろうになぜかそうしないもんだから、幽霊の方も大変だ。あっちとこっちと両方で控えてないといけない。せっかくのお経を聞き逃しちゃいけないからね。あるいは葬送にも色々あって、日本国内だけでも複雑だけれど、文化ごとにやっぱり違って、わりに面白い。泣き女が来て泣いてくれる国もあれば、笑ってもらう国だってある。死というものはすべての生き物に平等な唯一のものではあるけれど、死の受け取り方は個人個人で全然違うってことなんだろう。個人主義ここに極まれり。自由だとか多様性だとか叫ばれる昨今だけど、それが抑圧されているのは、人間社会生活における諸々においてだけだ。生物としての人間は、原始以来自由で多様で、そして平等なものってことだよ。そう考えると、この学校っていう枠組みは、まさしく自由からも多様からも平等からも、最も遠い場所にある施設なのかもしれない。そう考えると愉快じゃないか? 自由で多様で平等な人間を育てるために作られた仕組みだというのに、出来上がったものはそれから最もかけ離れている。うどんを作るつもりが出来上がったらピザだったというくらい、おかしな結果さ。これで、作った側は全力でやった結果なのだから恐れ入るというものだ。実際、私なんかはよく思うんだよ。もしも学校というものがなかったら、いったい私はどうしていたのだろうってね。……ふふふ、なんてね。よくあるシシュンキにありがちなモウソウってやつだよ。私も学校を構成するいち成員として、役割を全うすることくらいあるさ。気まぐれでだけれども。青年は悩むものだし、少年は大志を抱くものなのだ。子女だってそれは同じことだよ。停滞と怠惰を愛する私にだって、敬愛と淘汰に思いを馳せることもある。なにしろ私は饒舌だから、心の向うまま話の向うまま、まさに自由というわけだ。こうしてせっかくの聞き手がいるんだから、思う存分脱線してこその『饒舌』なのだ。なに、聞き手はただそこに座って聞いていればそれでいい。椅子に座って相槌を打つだけの簡単なオシゴトですってね。学問だけが学生生活じゃないってやつさ、トワ君。ま、君にはわかりきったことだろうけど。とはいえまあ、そろそろ時間外労働になっちゃうかな。もうすぐ祭りも終わりだ。じゃ、トワ君、また気が向いたら『出勤』しておいで。給料は、そうだな、私のありがたいお話、なんてのはどうだい?」
雑談ものというジャンルの究極系として省エネをした結果、最初から最後まで一つのセリフになりました。
聞き手放置の饒舌ですが、読んでくださり、ありがとうございます。
全5話予定です。
→6話でした。