私の黒歴史編8
日もすっかり沈んだ夜のこと。
僕は佐々さんをバス停まで送り届けた後、例によっていわくつきの噂が飛び交う道を通り、家まで戻った。
そして普段はしないんだけどただ何となく、あるいは小夜さんへのご機嫌取り的な意味もあって郵便物を取り入れることにした。
取り忘れた夕刊や水道工事の宣伝のチラシ、様々な集まりの招待状に混じって、一通だけ妙に違和感のある封筒が入っていた。その奇妙に真っ白な封筒は、宛名も送り主も書いておらず、また切手さえ貼っていなかった。
ということは、誰かが直接郵便受けに入れたということになるのだろう。
家に届けられるこういう不審な封筒は、大概において家業に恨みを持った嫌がらせの手紙である。心臓に剛毛が生えた親戚一同ならまだしも、普通の人間の心臓を持った小夜さんや妹はこういう手紙を怖がる。だから、彼女たちの目につかないうちに開けてしまって、後日親戚に送って判断を仰ぐことに決めた。
僕は常夜灯の近くまで行って封を切り、手紙を出して内容を確認した。
今までのものなら、やれお前らは汚いだの天罰が下るだのと、実に分かりやすく抽象的な内容がほとんどであった。だが、その手紙の内容は今まで届けられたどの不幸の手紙ともだいぶ毛色の違うものだった。
『ベルフェゴールと手を切れ。さもなくばお前を殺す』
ベルフェゴールとは、便所に居座り好色を誘発する悪魔である。女性嫌いで有名で、牛の尾にねじれた二本の角、顎にはひげを蓄えた醜い姿で描かれる。
身の回りに、そのような人物がいる覚えはない。また、ベルフェゴールの性質を考えれば家のことを指しているとも思えない。
では、ベルフェゴールとは何のことなのか。無視してしまうこともできるが、相手ははっきりと手を切らなければ殺すと書いている。何故かその一文には、揺らぐことのない意志を感じた。
このことはまだ親戚には報告しない方がよさそうだ。
僕は勝手にそう判断して、雑な字で書かれた手紙をポケットに押し込んだ。
僕には妹がいる。
名前は遥といい、年は九歳差で現在私立小町小学校の二年生である。
彼女はラフすぎて男の娘疑惑まで掛けられた僕とは違って、女子であること、お嬢様であることを常に意識した、独特の雰囲気を放っている。
第一が話し方。
口癖は「~ですわ」であり、僕のことはお姉さま、母のことはお母様、父のことは当然お父様と呼び、挨拶はごきげんようと挙げればキリがないが、つまり少々痛い古典的お嬢様言葉で話すのだ。
幼少期からそうなので、小さい頃は「~でちゅわ」と、天然でとっとこハム太郎のリボンちゃん状態となりそれなりに可愛かったのだが、今となってはもはや終わらぬ中二病に先行きも暗く、ただただ辟易するばかりの存在となってしまった。
第二が服装。
私立なので当然制服があり、学校にはもちろんそれを着て行っているわけなのだが、そうではなくプライベート状態での彼女の私服は口調よりも痛く、ある意味ものすごく独特であった。
なぜなら、フレンチロリータを着ているからだ。
彼女はロリータの語源となった少女より二歳ほど若いのだから、どうせ何を着てもロリータファッションになってしまうのだし、別にいいじゃないかと思うかもしれない。
だが東京の原宿や新宿ならまだしも、ここは寂れた田舎のしがない小地区である。取り寄せるのも一苦労だし、着て歩いていても大変目立つ。
僕は彼女の姿なら、百メートル先からだって見分けることが出来る。
それだけ目立つというのもあるが、引きまくった人が遠巻きにわらわらしているというのも、見分けるポイントの内にあるということを押さえておいてほしい。
そんな痛い彼女だから、外では様々な人物のいじめの標的になる。それを助けに行き、介抱してやるのが姉である僕の仕事なのだが、気高い彼女は助けてくれなんて死んでも言おうとしないので、彼女の友達の通報によって僕は現場へと駆けつけることになる。
その日も僕の携帯に妹の友達から電話が掛かり、わざわざ町はずれの公園まで赴くこととなった。
相手は他校の六年生男子らしいが、なにも二年生なんか標的にしないでもいいのに。
急いで駆けつけると、妹は尻餅をついた状態で相手を睨みつけていた。いつもながら全く怖くない。モルモットに威嚇されているような気分になる。
対して六年生の方はと言えばその年にしてもなかなかゴツく、モルモットよりは余程強そうに見えた。まあ、そうは言っても小学生なので、僕から見ればマルチーズのようであるが。
僕は通報してくれた女の子に礼を言い、モルモットとマルチーズの間に割って入った。
すると、早速マルチーズがきゃんきゃんと吠える。可愛い可愛い。
「んだよ、邪魔すんなよ。誰だお前」
「お前こそ誰だ、くそガキ。うちの妹をいじめるなんて良い度胸じゃないか。羅切にされる覚悟は出来てんのか? ああん?」
「……羅切? 意味分かんないこと言ってんじゃねえぞ、このばばあ!」
「ばばあ? 何だとこのしょんべん小僧!」
一通りの挑発を終え、ぴりっと空気が張り詰める。ここからは一触即発だ。
敵は五人。人数こそ多いが所詮は小学生。作戦もなければ、ろくな武器もないだろう。
対して僕は高校生。なめられてもらっては困る。
高校生の本気を見せてやる。
僕は後ろ手に隠したトリガーに指を掛け、じっとその瞬間を待った。
すると敵の一人が不意に拳を振り上げ、攻撃態勢へと移ったのを皮切りに、一斉に攻撃が開始された。
それに合わせて僕も銃を引き抜き、狙いを澄まして一気に撃ち抜く。
狙うは一点。的確に、かつ素早く。
全員に向けて撃ち終え、攻撃をかわしてさっと脇へ退く。そして次の攻撃に移ろうとし始めるころに、敵は自分が今どんな状態にあるのかやっと認識することとなるのだ。
「……ん? うわっ、何だよこれ!!」
そう言って愚かなる敵は、びしょびしょに濡れた自分の股間を見下ろした。
その状態では、ろくろく街を闊歩することすらできないだろう。
僕が撃ったのは、子供用の水鉄砲だ。それを股間に向けて撃てば、ちょうどお漏らしをしたみたいになる。
恐怖の偽しょんべん小僧攻撃。
「ふん、その小汚い短パンを刈られなかっただけ良いと思え」
前を押さえて去って行くマルチーズに捨て台詞を吐き、その憐れな負け犬姿を存分に拝んでから妹の方に向き直る。
「さてと……立てるか? おぶろうか?」
「……お姉さま、喧嘩の戦法が下品すぎますわ」
「…………」
助けてもらったにも関わらず、恩知らずな妹だった。
まだ小二だし、仕方ないか。うん、そう思っておこう。
「生意気を言うな。小学生を殴るわけにもいかないだろ」
「でももっと他の戦い方がありますわ」
「例えば?」
その問いに、妹は自信満々に答えた。
「女子トイレに逃げ込む、ですわ」
「…………」
発見。うちの妹はおつむまでモルモットのようだ。
僕は妹のこめかみを拳で挟み、ぐりぐりとねじって言った。
「それは戦法じゃなくて、一時的な退避手段だろうが! それにそんな方法は中学生以上じゃ通用しないんだぞ!!」
しかも小六相手では限りなくグレーである。まさかこいつは僕が来るまで、その戦法を使っていたのだろうか。
妹が傷に響くと喚き始めたのでぐりぐりから解放してやり、抱えて家に連れ帰った。
僕の部屋まで連れて行き、例によって分かりやすい場所においてある薬箱を持ってきて手当を始める。
膝や顔に付いた泥を拭いて、消毒液で血を拭ってから絆創膏を貼る。痣には軟膏を塗り、場合によっては湿布を持ってきて貼る。
毎度のことなので、もう慣れたものだ。
「……お姉さま」
「なに、遥」
「あの、ごめんなさい……ですわ。毎回こんな……」
しおらしい言葉に顔を上げると、彼女はしゅんとしていた。
珍しいこともあるものだ。
「いいんだよ、別に。お前が気に病むことなんて何もない。それに……半分は僕のせいなんだ」
彼女がこんな状況に追い込まれた理由。それは、転校したからというのも大きな要因の一つだった。
そしてそれは他ならぬ、僕が引き起こしたことだ。
いまさら謝ってもどうにもならない。喧嘩の援護と手当は、僕ができる精一杯の罪滅ぼしだった。
「そんな……お姉さまのせいだなんて、私はそんな風に思ったことは一度も無くてよ? お姉さまはいつも守って下さるし、精一杯のことをして下さってるではありませんか。私はそれで十分過ぎる程ですわ。だからどうか気に病まないで。お姉さま」
そう言って、何故か頭を撫でられる。くしゃくしゃと犬でも撫でるように。
小二の妹に気を遣われる高校生なんて情けないけれど、優しい言葉が素直に嬉しかった。
なんて、増々情けないけど。
僕は妹を抱き上げて、ぎゅうっと抱きしめた。
「……不甲斐ない姉で申し訳ないよ」
「何を、いまさらですわ。お姉さまの不甲斐なさには、もうとっくに慣れていますわよ」
晴れ渡る五月の下旬。
あどけなく笑う彼女に、初夏の光が柔らかく反射していた。
その平和な光景に包まれて、僕はまだ予想さえもしていなかった。
この幼い妹に、この後どんなこと起ころうとしていたかなんて。