序章
23時45分。
駅のホームに滑り込んできた終電は、家畜運搬車のように疲れ切った大人たちを飲み込んでいく。
田中太郎は、ドアに額を押し当て、自分の反射した顔を見ていた。
30代半ば。肌は土色で、目は死んだ魚のように濁っている。
(……今日も、終わった……のか?)
手元に残ったのは、上司からの「明日までにこれ修正しとけ」というメールと、コンビニの冷え切ったおにぎりだけ。
かつて持っていた「物語を書きたい」という夢や、「誰かを幸せにしたい」という情熱は、満員電車の摩擦でとうの昔に削り取られていた。
彼はもう、自分が人間であることすら忘れかけていた。
ただ、明日も決まった時間にオフィスへ行き、定型文を打ち込み、頭を下げる。
自分は、巨大な社会という機械を回すための、取り替えのきく「摩天楼の塵」だ。
2. 窓越しの、名もなき絆
駅からアパートまでの帰り道。
太郎が唯一、自分の「心」がまだ動いていることを実感できる瞬間があった。
向かいのアパートの二階。
そこには、深夜だというのにいつも灯りがついている部屋がある。
レースのカーテンの隙間から、月明かりを浴びて外を眺めている少女。
彼女は、病弱なのだろう。
いつ見てもその場所にいて、静かに夜の街を見つめている。
太郎が疲れ果ててトボトボと歩いていると、ふと、彼女と目が合うことがあった。
彼女は、微笑むわけではない。
ただ、慈しむような、祈るような目で、壊れかけた太郎の背中をじっと見送ってくれるのだ。
(ああ、今日もあの子はあそこにいる……)
「お疲れ様」と言われたわけじゃない。
けれど、彼女の視線だけが、世界で唯一、太郎を「部品」ではなく「人間」として認めてくれている気がした。
「……明日も、頑張るか」
独り言をつぶやき、太郎は自分の部屋のドアを開けた。
それが、彼が発した今世で最後の言葉になるとも知らずに。
自室の椅子に座り、パソコンを立ち上げる。
持ち帰った仕事を片付けようとしたとき、胸の奥で「ピキッ」と何かが嫌な音を立てた。
呼吸が浅い。
指先が冷たくなる。
心臓が、まるで「もう無理だ」とストライキを起こしたかのように、不規則に暴れだした。
(あ、これ……ダメなやつだ……)
意識が遠のく中、太郎の脳裏に浮かんだのは、仕事の締め切りでも、貯金残高でもなかった。
さっき、自分を見送ってくれたあの少女の瞳。
「君に……せめて一言……『ありがとう』って……言いたかったな……」
ガクン、と首が垂れる。
モニターの光が、静かに太郎の亡骸を照らし続けていた。
闇の中、長い、長い「無」の時間を経て。
太郎の魂は、ウルス・クルナの「光」に導かれた。
次に彼が目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは、無機質なオフィスの天井ではなく、燃えるような松明の炎と、泣きそうな顔で自分を覗き込む〈剣聖〉エルドの顔だった。
「産まれた……産まれたぞ! マギア、男の子だ!」
太郎は、混乱した。
(あれ、死んだんじゃ……。え、ていうか、このおじさん誰? 剣持ってる……コスプレ?)
混乱するソールの隣で、もう一つの命が産声を上げる。
銀色の髪、透き通るような肌。
「見て、エルド……。女の子も……双子よ」
その赤ん坊が、ソールの指をぎゅっと握った瞬間。
前世の記憶と、今世の感覚が一本の線で繋がった。
(……この、温もり……知ってる……)
アリア。
前世で、窓越しに自分を見守り続けてくれた、あの少女。
彼女もまた、今度は「双子の姉」という、世界で一番近い場所で、太郎を待っていたのだ。
生後8ヶ月。普通の赤ちゃんが「あー、うー」と天井を見て笑っている頃、ソール(中身:田中太郎)はリビングの床で深刻な現場検証を行っていた。
(……あそこにある、父さんの木剣まで、通常ならソファを迂回して3.5メートル。だが、ラグの摩擦係数と、今の僕の貧弱な大腿四頭筋の出力を計算すると、最短距離はソファの下を潜り抜ける「潜伏ルート」だ。これなら3秒は短縮できる……!)
ソールは、よだれを垂らしながらも、その瞳には熟練プロジェクトリーダーの鋭い光を宿していた。
彼は、無駄な動きを一切排除した「軍隊式高速ハイハイ」で、ソファの下へ突撃する。
「見て、エルド! ソールがまたあんな隙間に! まるで熟練の斥候のような動きだわ!」
「ああ、マギア。あいつ、角を曲がる時にインコースを攻めすぎてドリフトしてたぞ……。なんて戦闘センスだ……!」
親バカな最強夫婦は、息子の「効率追求」を「戦士の才能」だと勘違いして大喜び。
2. 姉へのコンサルティング
一方、双子の姉アリアは、おっとりとした性格で、ハイハイもどこかおぼつかない。
目的地のトイ・ブロックにたどり着く前に、途中の毛玉に興味を持って止まってしまう。
それを見たソールは、思わず「先輩としての指導」に入ってしまう。
(アリアさん、その毛玉は今回のプロジェクトの優先順位には含まれていませんよ。リソースを集中すべきは、あのブロックを積み上げることによる指先の知育開発です。さあ、僕の背中についてきて。トレースしてください)
ソールはアリアの前に回り込み、クイックな動きで進路をガイド。
アリアは「ふふっ」と笑いながら、ソールの後を追う。
アリアが魔力を吸収してくれるおかげで、ソールの「効率計算」はさらに加速し、二人は「一糸乱れぬフォーメーション」で部屋中を制圧していった。
3. バーサーカーの片鱗(定時退社への執念)
ある日、父エルドが「高い高い」の延長で、ソールの体を振り回してあやす「ライト家流・英才教育ごっこ」を始めた。
普通の赤ちゃんなら喜ぶか泣くかの二択だが、ソールは違った。
(……父さん、この「遊び」はすでに予定時間の15分をオーバーしています。僕の「睡眠フェーズ(定時)」が近づいている。これ以上の拘束は……サービス残業だ)
その瞬間、ソールの魔力がわずかに「キレた」。
怒りではなく、「定時で帰りたい」という強烈な意志がバーサーカーのトリガーを引いたのだ。
ドォォォォォン!
赤ん坊の小さな体から、一瞬だけ「黒光りする魔圧」が放たれ、剣聖エルドの腕を弾き飛ばす。
「な……!? 今、俺のホールドを自力で解除しただと!?」
「エルド! ソールが怒ってるわ! 多分、『これ以上やると労基に訴える』みたいな顔してる!」
アリアが慌ててソールの手を握ると、魔圧はスッと消え、ソールは「ふぁあ……」とあくびをして、そのまま瞬時にシャットダウン(就寝)した。




