第四話 もふもふとの出会い
聖女としての務めに失敗し続け、冷たい視線と囁きに心を傷つけられたサーシャは、夜ごと大聖堂の裏庭に足を運ぶようになった。
人々の目から逃れ、静けさに包まれる場所――そこだけが彼女の安らぎだった。
ある夜、月明かりに照らされた石畳の隅で、かすかな鳴き声が響いた。
「なにかしら」
サーシャは足を止め、耳を澄ませた。
草むらの影から、小さな獣が姿を現した。
泥にまみれ、痩せ細った体。
毛並みは乱れ、誰もが「汚らしい」と嘲笑するような姿だった。
だが、その瞳は澄んでいた。
星のように小さく輝き、サーシャをじっと見つめていた。
「……あなた、どうしてこんなところに」
サーシャは膝をつき、そっと手を伸ばした。
獣は一瞬身を引いたが、やがて彼女の掌に顔を寄せた。
温もりが伝わり、胸の奥がじんわりと満たされていく。
「大丈夫。誰にも言わないから」
彼女は獣を抱き上げ、外套の中に隠した。
小さな体は震えていたが、やがて落ち着き、彼女の胸に顔を埋めた。
サーシャは微笑み、涙を拭った。
それから、彼女は夜ごと裏庭に通った。
人目を避け、獣と過ごすひととき。
草の匂い、月明かり、静かな風――その中で、獣は彼女に寄り添い、尻尾を揺らした。
「あなたといると、心が軽くなる」
サーシャは囁き、獣の毛並みを撫でた。
泥にまみれた毛は少しずつ柔らかさを取り戻し、彼女の指先に温もりを返した。
人々には決して知られてはならない。
聖女が「汚らしい獣」を抱いていると知られれば、さらに嘲笑されるだろう。
だからこそ、この時間は秘密だった。
だが、その秘密は彼女にとって唯一の救いだった。
冷たい視線に傷つけられた心を癒す、わずかな幸せの時間。
それからの日々、サーシャは人目を避けて夜ごと裏庭に通った。
昼間は冷たい視線や嘲笑に耐え、心をすり減らしていたが、夜になると小さな獣が待っていてくれる。
その存在が、彼女にとって唯一の救いだった。
獣は最初こそ怯えていたが、次第に彼女に心を許した。
サーシャが外套の中に隠すと、安心したように丸くなり、尻尾を揺らした。
彼女が祈りを捧げると、獣は静かに寄り添い、まるでその祈りを聞いているかのように瞳を閉じた。
「あなたは……私を偽物だなんて言わないね」
囁くと、獣は小さく鳴き、彼女の指先を舐めた。
温もりが伝わり、胸の奥がじんわりと満たされる。
サーシャは微笑み、涙を拭った。
ある夜、彼女は小さなパンを隠し持って裏庭へ向かった。
獣は匂いを嗅ぎ、嬉しそうに尻尾を振った。
サーシャはちぎったパンを差し出し、獣は夢中で食べた。
彼女はその姿を見て、声を立てて笑った。
久しく忘れていた笑いだった。
「こんなに小さな幸せがあるなんて……」
その笑い声は夜風に溶け、星々に届いた。
やがて、獣は彼女の膝に乗り、眠るようになった。
サーシャは毛並みを撫でながら、静かに歌を口ずさんだ。
子供の頃に母から教わった子守歌。
獣はその声に耳を傾け、安らかな寝息を立てた。
「誰にも知られないように……この時間は私だけのもの」
サーシャはそう呟き、月明かりの下で目を閉じた。
冷たい世界の中で、わずかに灯る温かな幸せ。
それは秘密であり、宝物だった。
朝の祈りを終えた後、サーシャは人目を避けて裏庭へ向かった。
石畳の隅に座ると、草むらから小さな影が駆け寄ってくる。
もふもふは尻尾を揺らし、彼女の膝に飛び乗った。
「今日も来てくれたのね」
サーシャは微笑み、毛並みを撫でた。
柔らかな感触が指先に広がり、胸の奥が温かく満たされる。
もふもふは目を細め、喉を鳴らすように小さな声を漏らした。
昼下がりには、彼女は小さなパンを隠し持って裏庭へ。
もふもふは匂いを嗅ぎ、嬉しそうに尻尾を振った。
サーシャがちぎって差し出すと、夢中で食べる姿に思わず笑みがこぼれる。
「あなたが食べてくれるだけで、私も元気になれる」
その言葉に応えるように、もふもふは顔を上げ、彼女の指先を舐めた。
夕暮れ時、祈りを終えた後の静かな時間。
サーシャは裏庭の石に腰掛け、もふもふを抱きながら空を見上げた。
茜色の空に鳥が舞い、風が草を揺らす。
もふもふは彼女の胸に顔を埋め、安らかな寝息を立てた。
夜の大聖堂は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
昼間は人々の祈りの声や賛美歌が響き渡り、聖女としての務めを果たすべくサーシャは壇上に立ち続けていた。
しかしその背中に突き刺さるのは、信仰の熱ではなく冷たい視線と囁きだった。
失敗を重ねる彼女を「偽物」と呼ぶ声は絶えず、祈りの言葉すら嘲笑にかき消される。
心は削られ、声は震え、涙は胸の奥に押し込められる。
だからこそ、夜の静けさは彼女にとって唯一の救いだった。
人々が眠りについた後、裏庭へと足を運ぶ。
月明かりが石畳を淡く照らし、風が草を揺らす。
昼間の冷たい視線はなく、ただ夜の静寂が広がっている。
その夜も、サーシャは外套の中に小さな影を抱いていた。
もふもふ――泥にまみれ、痩せ細った獣。
人々から「汚らしい」と嘲笑される存在。
しかし彼女にとっては、唯一心を許せる相手だった。
裏庭の隅に腰を下ろすと、もふもふは外套から顔を出し、尻尾を揺らした。
澄んだ瞳が彼女を見上げる。
サーシャは微笑み、そっと毛並みを撫でた。
指先に伝わる温もりが、冷え切った心を少しずつ溶かしていく。
「……祈りを捧げましょう。あなたも一緒に」
囁くように言い、サーシャは両手を胸の前で組んだ。
もふもふは彼女の膝に丸くなり、静かに目を閉じる。
まるで祈りを聞き入れるかのように。
夜空には星々が瞬き、月が柔らかな光を注いでいた。
サーシャはその光に包まれながら、震える声で祈りを紡ぐ。
「神よ……私は何度も務めを果たせず、人々に嘲笑されてきました。偽物だと呼ばれ、冷たい視線に心を傷つけられてきました。それでも……それでも、どうかお聞きください。私は、この子に救われています」
言葉は途切れ途切れだった。胸の奥に溜め込んだ痛みが、祈りと共に溢れ出す。
涙が頬を伝い、月明かりにきらめいた。
「この子は……誰もが汚らしいと嘲る獣です。けれど、私を偽物だとは言いません。失敗しても、涙を流しても、そっと寄り添ってくれるのです。人々が背を向けても、この子だけは私を見てくれる。だから……どうか、この子を守らせてください。私の務めがどれほど不完全でも、この子を抱くことだけは許してください」
もふもふが小さく鳴いた。
まるで祈りに応えるように。
サーシャはその声に微笑み、震える指先で毛並みを撫でた。
泥にまみれていた毛は少しずつ柔らかさを取り戻し、彼女の指先に温もりを返す。
「私は偽物かもしれません。人々の望む聖女ではないのかもしれません。でも……この子を抱いていると、心が軽くなるのです。祈りの言葉が、嘲笑ではなく静けさに包まれるのです。神よ、どうか……この小さな幸せを奪わないでください」
祈りの声は夜風に溶け、星々へと届いていく。
サーシャは目を閉じ、幼い頃に母から教わった子守歌を口ずさんだ。
柔らかな旋律が夜の庭に広がり、もふもふはその声に耳を傾け、安らかな寝息を立てた。
「……ありがとう。あなたがいてくれるだけで、私は立っていられる」
囁きながら、サーシャはもふもふを胸に抱きしめた。
涙は止まらなかったが、それは絶望の涙ではなかった。
温もりに満たされる涙だった。
やがて祈りは静かに終わり、庭には再び静寂が訪れた。
サーシャは月明かりの下で目を閉じ、もふもふの寝息を聞きながら深く息を吐いた。
昼間の冷たい世界とは違う、わずかな温かさがそこにあった。
「誰にも知られないように……この時間は私だけのもの」
そう呟き、彼女は再び祈りの姿勢を取った。
もふもふは膝の上で丸くなり、尻尾を揺らしていた。
サーシャの祈りは途切れることなく続き、夜空に溶けていった。
その祈りは、誰にも届かないかもしれない。
人々は彼女を偽物と呼び続けるだろう。
だが、もふもふは彼女の祈りを聞いていた。
小さな獣の澄んだ瞳が、彼女の心を映していた。
サーシャは涙を拭い、微笑んだ。冷たい世界の中で、わずかに灯る温かな幸せ。
それは秘密であり、宝物だった。
その夜も、サーシャは裏庭に足を運んでいた。
月明かりの下、もふもふは彼女の膝に乗り、尻尾を揺らしていた。
サーシャは微笑み、柔らかな毛並みを撫でながら囁いた。
「ずっとこのままならいいのに」
だが、その静けさは突然破られた。
「……何をしているのです、聖女様?」
背後から声が響き、サーシャは振り返った。
そこには神殿の侍女が立っていた。
驚きの表情で彼女を見つめ、視線は腕の中の獣に注がれていた。
「汚らしい獣を抱いて……!」
侍女の声は震え、次の瞬間には走り去っていった。
翌朝、大聖堂は騒然となった。
「聖女様が獣を隠し飼っていた!」
「神の加護を受けた者が、そんな汚れた存在を抱くなどありえない!」
噂は瞬く間に広がり、貴族や司祭たちが集まった。
庭園には人だかりができ、サーシャは人々の視線に囲まれた。
リディアが前に出て、冷ややかな声で告げた。
「やはり偽物だったのね。聖女なら神聖な獣を従えるはず。こんな汚らしい生き物を抱くなんて、恥さらしだわ」
人々はざわめき、嘲笑が広がった。
サーシャは胸に抱いたもふもふを守るように抱きしめ、必死に声を絞り出した。
「この子は……私を支えてくれたのです。誰も信じてくれなくても、この子だけは私を偽物と呼ばなかった」
だが、その言葉は人々の心に届かなかった。
司祭たちは眉をひそめ、王子は冷たい視線を向けた。
「聖女が獣に心を寄せるなど、王国の威信を損なう行為だ」
その声は広場に響き、サーシャの胸を締め付けた。
もふもふは彼女の腕の中で小さく鳴いた。
まるで「大丈夫」と伝えるように。
だが、人々の嘲笑と怒声は止まらず、騒ぎは広がっていった。
サーシャは涙を堪え、もふもふを抱きしめた。
「……私は偽物じゃない。この子がいてくれる限り」
その言葉は小さく、騒ぎの中にかき消されていった。




