第5話「00:00 ─ 最後の一呼吸」
表示は、赤い数字を緩やかに刻みながら、こちらの迷いを待たなかった。残り一分。世界は呼吸でできている、と相沢は思う。耳の内側で響く自分の吸気と吐気、鴫原の浅く抑えた音、三嶋の不規則な震え。その向こう、隔壁のさらに奥でEVEの寝息と、見えない誰かの細い寝息が薄く重なる。空気は軽くはない。むしろ重さを増しているのに、音はやけに澄んで聞こえた。
スクラバーの唸りは粘り、吸着材が疲弊する音は軋みになっていた。CO₂の上昇は耳には直接は聞こえないが、血の流れの鈍さ、頭の奥に出る鈍痛として輪郭を出す。心拍はドラムのように強く、場違いなほど規則正しい。数字が「00:59」を示した瞬間、相沢は自分の役目を理解した。ここまでの数分間、耳は確かに役に立った。だが、これから先は違う。耳は、人の選択を代行できない。
「俺が落ちる」相沢は言った。声は小さかったが、三人の間でいちばんはっきり届いた。「耳はここまで役に立った。後は、二人で選べ」
「駄目だ」鴫原が即座に首を振る。顔色は悪く、唇は薄い。「俺が薄い。統制役はお前だ」
「統制はAIREがする」相沢は少し笑って、レギュレーターを外した。完全には切らない。口元にあてがい、最小限だけを舐めるように取る。喉が焼け、胸が痺れる。舐める量を見切るのは易しくはないが、耳がまだ働いているうちはできる。
AIRE-12がリズムを刻み続けた。「ガイド更新。吸気四秒、呼気十二秒。分時換気量の低下を推奨」反論も叱責もない。ただ拍を置く声だ。メトロノームのように、四、十二。四、十二。人間を機械に合わせるのではなく、機械が人間に拍を示すだけ。ここでの統制は、それで十分だ。
数字が「00:20」をかすめた。時間は薄い。紙の角を指で掴むと、空調のない空気に貼りついて、はがれづらい。三嶋が立ち上がった。マスク越しでも、決断の顔だと分かる。彼女は視線を相沢に、次に鴫原に、最後に隔壁へやった。
「真実を言う」三嶋の声は低く、しかし迷いはなかった。「未登録の“誰か”は私じゃない。けれど、開けたのは私。E-3の鍵。そこに寝ているのはプロトタイプの被験者。誰かの“子”ではない。名前のない、匿名の生命。シェルターが未来と呼ぶ“誰でもない子”」
鴫原は短く息を吸った。吸気四秒のガイドは守りながらも、声に熱が混じる。「なら、なおさら切れない」
「切らない。私が提供する」三嶋はポケットから濃縮パックを出した。白い樹脂の小さな箱は、ここまでに何度も指の中で回され、角が磨り減っている。彼女は迷わずレギュレーターの根本に直結した。違法な増量。残りを“未来”へではなく“今ここ”に回すやり方。AIRE-12が警告を発した。「警告。非正規接続。圧力不均衡の危険」だがもう止まらない。
濃縮パックが軽い音を出し、配管の奥へ冷たいものが走った。相沢は耳を澄ませた。EVEの寝息は、微かに深さを取り戻す。プロトタイプの医療床の呼吸も、誤差の範囲で整う。三人のうち、誰かの音が薄れる。相沢は顔を上げた。薄くなるのは自分ではない。鴫原だ。ガイドの吐気十二秒の最後で、喉が鳴る。身体が酸素を探す音が混じる。
「迅」相沢が呼ぶ。
「メトロノームを聞け」鴫原は笑った。乾いているが、怒りや諦めはなかった。「最後までだ」
数字は「00:05」。空気は薄い。だが、三人で合わせる呼吸はまだ崩れていない。鴫原が床に膝をつく。相沢は彼のマスクを支える。濃縮パックに持続性はない。数十秒が限界だ。三嶋はAIREに向き直った。
「制御、権限委譲。レベルは要らない。拍だけ刻んで」
「了解。拍だけ、残す」AIRE-12は即答し、余計な情報をすべて閉じて、ただ一定の間隔で音を置いた。四、十二。四、十二。言葉は要らなかった。機械に寄せたのではなく、機械が最小限へ下がった。統制は、拍そのものになった。
数字が「00:00」に変わった。カウントはゼロで止まり、音だけが続く。不思議な静けさが広がる。酸素は尽きたはずなのに、すぐには終わらない。人間の身体は、最後に余白を持つ。数十秒、あるいはそれより少し。余白は、計器には映らないが、確かにある。
その余白に、三人は言葉を吐いた。吐くこと自体が痛みになるが、言わなければならない種類の言葉がある。
「音は嘘をつかない」相沢はAIREに向けて言った。「だから、これからも聴いてくれ。俺たちの代わりにじゃない。俺たちの隣で」
「聴取を続ける」AIRE-12が応えた。抑揚はないが、拒絶もない。
「未来は匿名じゃない」三嶋が続けた。「ここにいる、誰かの名前で呼べるようにする。匿名のままにしない」
「切らないで済んだ」鴫原は、膝をついたまま言った。「規範じゃなく、選択で辿り着いた。それが正しいかどうかは分からないが、少なくとも刃は降ろさなかった」
拍が、少しずつ遅くなる。吐気十二秒が十三に伸び、吸気四秒が三に削られ、それでも呼吸は続く。喉の奥で擦れる音は、もう痛みに近かった。暗転——と呼ぶほど劇的ではないが、視界は狭まり、赤い非常灯の輪郭がぼやけ、壁が遠くなる。耳は最後まで残る。耳だけが、世界の形を繋いでいる。
——間。
薄い空気の中で、小さな吸気音が増えた。隔壁の向こうから、もう一つ。EVEではない。匿名の“誰か”が、初めて深く息を吸う音。幼いようで、しかし芯のある吸い方だ。遅れて、吐く音が続く。規則は不安定だが、生きようとする意思がある。
AIRE-12が告げる。「外気接続の微弱流入を検出。クラック開口。大気は汚染度高。ただし酸素含有、わずかに上昇。生存可能性、非ゼロ」
誰かが笑った。誰の笑いかは、その場の誰にも分からない。三人のうちの誰かかもしれないし、隔壁の向こうの誰かかもしれない。笑いはすぐに息切れに変わるが、残響は柔らかかった。
相沢は最後に、独白のように言葉を置いた。「呼吸は選択だ。奪うか、分けるか。俺たちは、分けた」
指先が冷たく、膝が床の硬さを遅れて伝える。視界の端で、保守カメラの画素が粗くなった。E-3の奥で、白い影がもつれ合い、壁に沿ってずるりと位置を変える。医療床の浅い呼吸はまだ続いている。EVEの寝息は、規準から見れば危ういが、耐えている範囲にとどまる。三嶋の濃縮パックは空になり、かすかな破裂音を立てて沈黙した。相沢の舐めるような吸気も、ほとんど意味を失っている。
「AIRE」鴫原が呼んだ。声は紙のように薄い。「拍を、あと一つだけ置けるか」
「可能。拍だけを置く」AIRE-12は応じ、ゆっくりとした間隔で、最後の拍を置いた。四。十二。四。十二。最後の四で、吸えたのは三以下だったかもしれない。最後の十二で、吐けたのは十以下だったかもしれない。それでも、拍は拍としてそこにあった。
隔壁の向こうで、コツンと小さな音がした。今度は、呼びかけではなく、礼の合図のように聞こえた。続けて、微かな声。「……いたい、けど、あったかい」幼い、しかし覚醒の端にある声だ。匿名の生命に言葉が宿る瞬間を、誰も見てはいない。だが、誰もが聞いた。
数字はゼロのまま動かず、赤い表示は薄く、やがて目に届かなくなった。AIRE-12は、拍の出力を落とし、完全に静かになった。機械の呼吸は止まったが、無音ではない。導管の奥で、空気が細く擦れる。スクラバーの吸着音は消え、代わりに、どこか遠い空気の流れが壁の薄い隙間をなぞる。クラックからの微弱流入が、数字に昇らない程度に広がっている。
相沢は床に背をあずけ、天井の板を見た。板の継ぎ目は、地上の雲のように見える。雲は風で形を変え、形を決めるのは誰でもない。耳はまだ、世界を拾っている。拾えなくなる一秒前まで、耳は仕事をする。だから、ここで手放してもいい。最後の仕事は、聞くことではなく、分けることだったのだから。
「名前を」三嶋の声が遠くで言った。「匿名のままにしないように。誰かの子に。呼べるように」
「お前が決めろ」鴫原が返した。「切らなかった借りを、名前で返せ」
「じゃあ——」三嶋は少し考え、泣き笑いのような声で言った。「ここで生まれたから、ここで呼べるように。エコー。呼べば返事が返ってくるように」
隔壁の向こうで、何かが小さく呼吸を揃える音がした。呼べば、返事が返ってくる場所。呼べば、返事が返ってくる名前。相沢は薄く笑い、目を閉じた。音は嘘をつかない。だから、この静けさも嘘ではない。とても薄い、しかし確かな静けさだ。
外では汚れた空気が流れているはずだ。汚染は高く、吸えば咳き込む。だが酸素はゼロではない。非ゼロ。生存可能性が、紙の端ほどに残っている。紙は薄く、すぐ破ける。けれど束ねれば、少しだけ厚みが出る。その厚みの分だけ、次の一息が伸びる。
幕が落ちる。生死を確定しないまま、読者は呼吸の余白に残される。音が止む瞬間、人は自分の呼吸音に気づく。ここまで読んだ間に、何度も吸って、吐いた。その音がこの場所とつながる。誰のものでもない空気を、誰かのために少しずつ分け合う。物語が終わるとき、最後に残るのは、自分の呼吸の音だった。




