第4話「00:07 ─ 代償換気」
時間は、薄い紙の束の端を指で弾いたときのように、はらりとはがれて落ちていく。数字は無慈悲に進み、こちらの迷いを待たない。酸素残量の表示は「00:07」から一度だけ瞬き、赤い光が制御室の壁面を浅く染めた。
誰か一人が落ちれば、残りは延びる。算術は簡単だが、倫理は難しい。鴫原は、それを吐き捨てるように心の中で繰り返した。訓練の夜、同じ計算で二人が死んだ。その後悔をごまかすために“次は切る”と固く決め、この地底に降りた。切るのは人か、管か。罪か、未来か。どちらにせよ刃は自分の手にある。
彼がバルブの真上で指を止めた瞬間、三嶋がこちらに向かって首を振った。マスク越しの声は擦れている。「待って。偏差は人じゃない。アルゴリズムの“更新間隔”が十秒だから、スパイクが十秒ごとに立つの。誰の悪意があってもなくても、その瞬間だけ“犯人”に見える」
相沢は返事もせず、膝をついてダクト口に身を差し入れた。湿った金属の匂いが濃い。CO₂スクラバーの吸着材は、さっき逆洗で一時的に息を吹き返したが、粉末に触れた感触はもう重く、手にわずかな粘りを残した。地上からの供給が止まって久しい。吸着材は疲れ、空気は汚れ、呼吸は浅く速くなる——悪循環の輪郭を、音がはっきりと描く。
AIRE-12が平板に告げる。「推奨:分時換気量低下。SpO₂モニタリングを継続」人工音の向こうで、EVEの吸気が細く伸びた。子守唄のような規則、けれどどこかで誰かがそれに追いつこうとする過換気の震えが重なる。あの震えは、相沢が一度落としかけたときの波形に似ている。
「告白する」三嶋が言った。立っていられず、壁にもたれかかる。「EVEを再起動したのは、私。外で娘を失ってから、“未来だけは残したい”って、ずっと思ってた。……でも、ここで誰かを切ってまで残す未来に、価値はあるの?」
相沢は工具箱から透明の細いチューブを取り出した。内径は小さく、指で押せばすぐ曲がる。彼はそれをEVEの供給管の手前に“噛ませ”、もう片方の先を自分のマスクの外縁に寄せる。「代償換気をやる。俺の肺をバッファにする。吸った分を一部、押し戻す」
鴫原が眉をひそめる。「そんな無茶、意味があるのか」
「僅かでも。音で追う」相沢は言った。彼にとって“音”は計器より確かだった。吸気終末のわずかな圧の盛り上がりを合図に、舌でバルブを弾くようにして、微量の流れをEVE側へ返す。理屈としては愚かに見えるが、導管の笛の音がほんの少し丸くなり、EVEの吸気が短く、やわらぐ。「今、楽になった。わずかに」
AIRE-12が警告を重ねた。「人体接続は推奨されない。感染および逆圧による障害のリスク」
「知ってる」相沢は短く答え、呼吸を薄く伸ばした。数字は「00:04:50」。二酸化炭素の重さが頭の天辺に積もり、視界の端が黒ずむ。視線の奥で血が脈打つたび、EVEの音が一瞬だけ遠ざかる。
突然、ゴムが擦れる音。三嶋がマスクを外しかけ、肩を震わせた。胸に空気を入れるのを、意識的に止めようとしている。自分のSpO₂を落として、優先配分を他に回す——逆の“ゲーム”。
「やめろ」相沢と鴫原が同時に押さえ、マスクを戻した。相沢は彼女の手首を取って、静かな声で言う。「誰か一人を“善意で死なせる”のは、ここでは最悪だ。残された者の呼吸に、毒が残る」
迷いの底で、初めて鴫原が規範を折ろうとした。「俺が切る」彼は短く言い、過去のパージの罪を背中に背負い直すように姿勢を正した。「さっき時間を削った。責任は俺が取る」
その手がバルブに触れる寸前、AIRE-12が割り込んだ。「代替案:三人の平均分時換気量を意識的に低下。吸気四秒、呼気八秒。過換気抑制のためのガイドを開始」機械音声が、呼吸の拍を刻むメトロノームになった。
四拍で吸い、八拍で吐く。三人は合わせる。最初はずれて、相互の呼吸が互いを邪魔する。すぐに相沢が耳で全体を引き寄せ、わずかに吸気の頭を遅らせる。「……いま」囁きが合図になって、三人の波形が重なる。呼吸は音楽に変わり、数秒、時間が伸びるのが体の中で分かった。
数字は「00:03:10」。まだ遠い。まだ足りない。EVEの音、三人の音、スクラバーの音——それらが“無音”に近い合奏を作ったちょうどそのとき、隔壁の向こうで硬い音が一度だけ跳ねた。コツン。誰かが金属の縁を指で叩いたような、軽い呼びかけだった。
AIRE-12が低く呟く。「未登録消費源、もう一。識別不能」エラーの文言が短く繰り返される。「推定位置:EVEユニット背後の医療床近傍」
相沢の中で、古い記憶が鮮明に輪郭を持った。昔、音だけで聞いたプロトタイプの話。遠隔維持の医療ベッド。外部から酸素を薄く送り、眠る患者の生体を細く繋ぐ。「人だ」彼は確信を帯びた声で言った。「EVEじゃない。誰かが、ずっとここで眠ってる」
「そんなはず……登録は——」三嶋の言葉が途中で折れた。顔色が変わる。相沢が呟く。「娘?」それは刃物のように静かに落ちた。
首を横に振りながら、三嶋は崩れた。「ちがう……違うけど、そうしてほしかった。遺伝資料じゃない、本当の子を、ここに——。でも、そんなこと、できるはずない……」
鴫原が決めた。「確認は後だ。今は残りを伸ばす」彼は自分のレギュレーターを最低に落とし、AIREの拍にぴたりと合わせる。顔が青白くなり、唇の色が褪せていく。「訓練の借りを返す。俺は切らない。ただ、薄くするだけだ」
「迅!」三嶋が叫び、相沢が腕を掴む。その腕が思いのほか軽い。鴫原は小さく笑って、目だけで生きていることを示す。
相沢は代償換気のチューブを噛み直し、舌先でバルブの押し戻しを丁寧に刻んだ。EVEの音がさらに柔らかくなる。だが柔らかさの背後で、別の吸気が潜ませる陰を濃くしていく。医療床の呼吸。誰かの眠り。コツンと再び音がして、今度は微かな吐息が混ざった。「……つめたい」——かすれる声。E-3の向こうで、確かに“人”が言葉を形にした。
数字は「00:02:10」。時間はまだ薄い紙。めくるたびに破けそうだ。
「開ける?」三嶋の視線が相沢に絡む。相沢はかぶりを振った。「今開けたら、ここの空気が持っていかれる。あの人のためにも、開けない方がいい」口にした瞬間、その理屈がどれだけ残酷かが胸を刺した。知ってしまった命を、計算に並べる。その痛みが、喉の奥で金属味になって溜まる。
AIRE-12が、呼吸のガイドを僅かに変えた。「新ガイド:吸気三、呼気九。目的:CO₂蓄積許容範囲拡大」メトロノームのテンポが遅くなる。三人は合わせ直す。吐く九拍の長さは、思考を削る。吐き終えるまでの孤独が長く、胸の奥で何かが軋みを上げた。
「……ごめん」三嶋が突然、言葉を落とした。「全部、私のせい。私は未来を残したかった。でも、未来を理由に、今この場で誰かの呼吸を奪えるほど、強くなかった。だから、EVEを再起動して、見ないふりをした。ここに“子どもたち”がいると、信じたかった」
相沢は耳を澄ました。見ないふりをした音は、消えない。むしろ、はっきりと輪郭を持つ。EVEの奥から、規則的な二重拍。それに重なる第三の呼吸。そして、医療床の浅い吸気。四つの音が、互いの隙間を探り合うように、聴覚の中で位置を変える。音は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも人間のほうだ。
「もう一つ、やれることがある」相沢は言った。「三人とも、吸気の最初を捨てる。最初の半拍、鼻孔で“待つ”。肺が欲しがるタイミングを、半歩遅らせる」
「そんな細工で変わるのか」鴫原の声は掠れている。
「変わる。音が示してる」相沢は目を閉じて、三人の吸気の“頭”を合わせた。吸いはじめを置き去りにし、ゆっくりと胸を満たす。肺の内側で怒る飢えを、数でなだめる。やがて波形が滑らかになり、スクラバーの唸りが一段下がった。
数字は「00:01:35」。わずかに延びた一息が、刃の縁を丸くする。
その刹那、ガタンとE-3の奥で何かが外れた。保守カメラの映像が横へずれ、暗がりの中で白い影がもつれ合い、こちらへと少しだけ近づいた。薄い膜が呼気に合わせて膨らみ、しぼむ。音が震える。AIRE-12が硬く言う。「未登録生体の一部がAIRE系統に干渉。吸気圧、微増」
「こっちを助けるつもりか、奪うつもりか……」鴫原が唇で笑い、すぐに表情を消した。彼の手が震える。血の気のない指が、レバーから離れては戻り、離れては戻る。
「迅」相沢が名を呼ぶ。「切らないと決めたのは、お前だ。薄くする、と」
「分かってる」鴫原は目を閉じ、ガイドの拍に身を預けた。「切る刃は、もういらない。必要なのは、鈍い鈍器みたいな我慢だ」
「それ、最悪の比喩ね」三嶋が苦笑に似た吐息を漏らした。マスクの内側で涙が溜まり、視界が滲む。それでも彼女は拍に合わせて吐き、吸い、吐き続けた。自分が選ぼうとした“善意の死”は、ここでは毒になる。彼女はその毒を、呼吸のたび、少しずつ体外へ押し出していく気持ちで息を整えた。
数字は「00:01:10」。AIRE-12が淡々と読み上げる。「CO₂スクラバー効率:八一パーセント。凍眠維持温度:閾値近傍。医療床推定生体反応:微増」
「あと少し」相沢が自分に言い聞かせるように呟いた。耳に絡む音の層が、わずかに軽くなる。一拍。二拍。三拍。EVEの吸気が子守唄から祈りに変わり、医療床の呼吸が、まるでそれに答えるように小さく引き取る。
コツン。三度目の合図。今度ははっきりとした爪の音。それに続いて、眠りの底から掬い上げたみたいな、幼い声。「……おかあ、さん……」
「誰も開けない」相沢は言った。「今は、開けない。生かすために、閉じる」自分で口にして、肺の奥が焼けるように痛んだ。罪悪感は、一酸化炭素みたいに目に見えず、静かに血に溶ける。
「わたしが、した」三嶋の声は細い。「EVEを再起動した。未来を残したかった。けど、本当は、今を抱えきれなかっただけ。あの夜、娘を抱いた腕の重さが、私には重すぎて。だから、冷たい箱の中に預け直すみたいに、未来に逃げた。……それが、ここまで息苦しくなるなんて、思わなかった」
誰も責めない。責めた瞬間に、呼吸はまた乱れる。相沢はチューブの噛み具合を微調整し、舌で押し戻すタイミングを半拍だけ遅らせた。EVEの音がさらに穏やかに沈む。鴫原の吐く九拍が、一本の縄のように三人の胸を結び、医療床の浅い吸気がその縄の上を音もなく滑っていく。
数字は「00:01:00」。赤い表示が、冷たい目で彼らを見つめた。呼吸の和音は、極限の静けさに達する。吐く九拍の最後、誰かの喉が小さく鳴り、EVEの排気口から白い霧が微かに漏れた。医療床の声が、もう一度だけ短く、確かに届く。「……さむい」
「知ってる」相沢が答えた。目は閉じたまま、耳だけを開いている。「待ってて。もう少し伸ばす」
「伸びるのか?」鴫原が笑う。乾いた笑いだが、そこに刃はない。「七分から一分まで、十分にやった。ここから先は、呼吸じゃなくて祈りだ」
「祈りなら、音のほうが得意だ」相沢は喉の奥で小さく息を転がした。四拍、三拍、二拍——吸気の前の“半拍の待ち”は、もう三人の癖になっている。誰も声を上げない。ただ、互いの肺の動きが、壁越しに伝わる振動と重なり、見えない合図を繰り返す。
時間は薄い紙。めくれば破ける。だが束ねれば、少しだけ厚みが出る。その厚みの分だけ、次の一息が伸びる。
「代償換気、続行」AIRE-12が平坦に言った。「ガイド継続。吸気三、呼気九」
表示は「00:01:00」のまま、ほんのわずかに点滅を遅くしたように見えた。錯覚かもしれない。けれど、三人は誰もその錯覚を否定しなかった。否定する言葉を吐くよりも、吐く九拍を守るほうが易しい。
コツン。四度目の合図。今度は、隔壁の内側からではなく、こちら——制御室の薄い天井を通して響いた。上に何かがあるのか、あるいは空気自体が震えたのか。相沢は耳を澄ます。EVE、三人、医療床。もう一つ、微かな、律動。
「……もう一人いる」彼は言った。自分でも驚くほど穏やかな声だった。「でも、いまは数えない。数えた瞬間、計算が刃に変わる」
鴫原は頷き、目を閉じた。三嶋は涙を拭わず、拍に合わせて吐く。AIRE-12はメトロノームの役を果たすだけ。E-3の向こうで、誰かが眠り、誰かが凍り、誰かが名もないままに息をしている。
四拍で吸い、九拍で吐く。待つ半拍。押し戻す半拍。彼らは、呼吸を重ねて時間を買う。
数字は、まだ「00:01:00」。それでも——一秒分の静けさが、胸いっぱいに広がった。




