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酸素残量、あと三〇分  作者: 妙原奇天


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第3話「00:15 ─ 流量の刃」

 時計は七分を示していた。表示盤の赤い数字が冷たく脈を打つ。鴫原の手は、まだバルブの真上で止まっている。刃は宙にあり、落とすか戻すかの二択がどこまでも重くなっていた。

 鴫原の瞳に、訓練時の記憶がフラッシュする。指揮の判断で二人が死んだ夜。彼はそのときの重さを、今も胸に刻んでいる。あのときと同じ決断を繰り返すために、彼は義務としてここに残ったのだ——だが義務が正義を保証するわけではない。

「このまま固定流量で維持しても、持つ時間は縮む」鴫原は小さく言った。声に揺れはない。プロトコルだけが彼の支えだった。「アルゴリズムはゲームだ。だがゲームを止めるには、何かを切る必要がある。人を切れば、今を守れる。管を切れば、未来を守れる。どちらを選ぶ?」

 三嶋が顔を上げる。目に浮かぶ涙が、マスクの内側で凍りかけているように見えた。「そんな選択、させないで……」彼女は震えた手で、濃縮パックをぎゅっと抱き締める。相沢はその仕草を見て、胸の奥が締め付けられた。彼女がなぜ保険を持ったのか、彼らはお互いに知っている。誰もが、かつての“当たり前”を取り戻したくて、小さな偽りを抱えてきた。

「全員の同意を得る時間はない」相沢は冷静に現状を整理する。スクラバーは回復したが、資材は限られている。EVEの内部温度が上がったアラートは、凍眠体にとって致命的なラインを意味する。もしEVEが完全に覚醒すれば、ここに眠る“未来”は変わる。AIREの配分アルゴリズムは、データに基づいて未来を守るように設計されている。設計は無情だが、論理としては筋が通っている。

「人を切るなら、誰を切る?」鴫原の声は低かった。三嶋の波形はまだ不安定で、過換気の傾向がある。相沢の波形には、時折短い無呼吸が見える。誰もが、どこかで“ゲーム”に手を突っ込んだ痕跡を抱えていた。

 だが議論はもう限界だった。ログに目をやると、短時間の未登録消費が断続的に検出されている。人為的なスパイクではなく、何かが間欠的に酸素を奪っている。AIREは「短時間発生。可能性:手動パージ」と報告したが、音源解析は、金属に触れた鋭い音の直後、導管の奥から別の、柔らかい吸気が乗ってくるのを示していた——誰かが、ここから“外”へ呼吸を繋いでいるのだ。

 相沢はダクトへ這い込み、導管の側面を手探りした。金属はまだ冷たく、表面にはわずかな潮気が付着している。彼の手がある継ぎ目に触れた瞬間、冷たい空気の流れが指先を撫でた。そこには、被覆の劣化したピンホールがあり、細い管が臓部のように覗いていた。恐る恐る指で押すと、内部から湿った空気が漏れ出し、かすかな声のような振動を伴った。音は、まるで誰かが喉を鳴らしたような、半分うめきのようなものだった。

「ここだ」相沢が言う。声には震えが混じる。三嶋が爪先立ちになって覗き込み、顔を青ざめさせた。導管の裂け目の奥に、細い二股のチューブが突き出していた。片方はEVEへ、もう片方は隔壁E-3の向こうへと延びている。つまり——誰かが、EVEの吸気を物理的に“分岐”し、外側の何かと繋いでいる。AIREの検出する未登録消費は、ここから来ていたのだ。

「人じゃない……」三嶋が震える声で呟く。嗚咽のような小さな音が、導管の裏で繰り返される。EVEの凍眠ストレージが、本来持つはずの安定性を失ってきた。内部で、低体温の生体が微細に活動を始めているのかもしれない。だがその“何か”は、EVEの外側で、新たな消費源となっている。彼らの選択肢はふたつに分かれたままだ。刃を人に落とすか、管に落とすか。

 鴫原はバルブを握り直す。バルブは頑丈で、訓練時の感触が指に残る。彼は、もし人を切るなら、臨機応変に切り捨てるだけだと自分に言い聞かせていた。だが日常の判断は、訓練のそれとは違う。ここにいるのは仲間であり、彼の刃は誰かの首筋を変える。管を切るなら、それは未来の芽を潰すことになる。どちらも手垢のついた、血の匂いのする決断だ。

「規範を一度破ろう」相沢が静かに言った。「アルゴリズムを停止して固定にした。だが今度は物理的に分岐を切る。EVEと外部の接続を物理的に断つ。つまり“管”を切る。これで未登録消費は止まるかもしれない。だがEVEの冷却はさらに不安定になる」

 鴫原が答える。「それでEVEが死ぬなら、四体の余波はどうなる。俺は未来を犠牲にするのに慣れてない。だが人を殺すぐらいなら、管を切る方が——」

 三嶋が手を伸ばす。細く震える指先で、彼女は導管の裂け目を指差した。「でも、そこに誰かがいるなら——」その言葉が最後まで言い切れない。相沢は彼女の目を見て、はっきりと言った。「誰かがいるなら、まずはそこを見なきゃいけない。管を切る前に、隔壁E-3を開けて確認する。見えるかどうかで選択は変わる」

 その瞬間、AIREが割って入る。「警告。E-3隔壁の内部圧力変動検出。現在、隔壁内で非自己発生吸気が増加」声はいつもの冷たさを保っているが、その解析は緊迫を隠せない。「提案:遠隔カメラによる視認。物理的開放は推奨されず」

 相沢は制御卓を操作し、保守カメラの角度をE-3の内部へ向けた。モニタの画面が動き、暗い通路が映し出される。暗がりの中で、形のないものがもやもやと揺れている。ズームをかけると、そこに人の影が一瞬だけ現れ——それは人ではなかった。縮んだ子供のような形、薄い膜のような皮膚、凍結した唇から漏れる細い息。二、三、いやそれ以上の小さな影が、互いに寄り添うように集まっている。EVEの保存体か、それとも別の生体の寄生か。画面はノイズに覆われ、一瞬を捉えきれない。

 三嶋がそっと呟く。「これは……胚の安定化装置を越える何か。凍眠体ではない。誰かの胎嚢のようにも見えるけど——」

 鴫原の顔が引きつる。訓練のときには見えなかった種類の倫理が、今ここに押し寄せる。彼は刃を下ろす決意を固めた。切るのは管だ。自分たちの目の届かない“何か”とEVEの接続を断つ。それが最も合理的に見えた。人を斬るよりは、未来に泥を塗るほうがまだマシだと、彼は思った。

「俺がやる」鴫原は言って、切断ツールを握り直した。相沢は彼の手を止めようとしなかった。止めることが、もう選択肢になかったのだ。

 刃が金属に触れ、火花のような摩擦の音が一瞬だけ響く。導管の被覆が裂け、中の二股チューブが露出する。鴫原は深呼吸してから、思い切り切断した。冷気が、鋭くぱっと飛び散る。導管の裂け目から、湿ったものが噴き出す。白い霧が制御室の空気を撫で、EVEのリズムが一瞬乱れた。

 だが切断の直後、AIREの声が震えた。「警告。接続断絶検出。連動反応:EVE凍眠安定化サブシステム起動——自己再圧縮開始」そのコマンドとほぼ同時に、モニタ上でEVEの内部温度が急上昇を示した。冷却剤のバランスが崩れ、凍眠カプセル群が微細な痙攣を始める。凍眠体の代表的な保護措置が自動的に動作しているのか——しかし、その代償は明白だった。

「なにを——」三嶋の声が割れた。相沢は手で顔を覆う。切断は未登録消費を止めるどころか、EVEの内部で何かを目覚めさせた。スクラバーの回転音がまた上がり始め、数字は急速に変動する。制御室の空気が、刃で切られたかのように鋭くなった。

 鴫原は刃の跡を見つめ、唇を噛んだ。「想定外だ。自己再圧縮が、内部の熱を上げてる」彼の声に、後悔は滲むが消えない。「だがこれ以上は、やれない」。

 モニタの右上に、小さな文字が点滅した。AIREが解析結果を吐き出す。「解析:EVE内部に複数の非標準生体反応。自己再圧縮プロトコルによる局所温度上昇が観測され、凍眠維持閾値を超過する見込み。推定解:凍結解除のフェーズ移行——生命活動の急速増幅」

 その文を読んだ瞬間、相沢は胸を貫かれるような予感を抱いた。彼らは管を切った。未来の芽の一部を奪ったかもしれない。だが同時に、目の前の“何か”を刺激してしまった。画面のE-3の暗がりで、影が動いた。ゆっくり、明瞭に、人の形を作り始める。薄い膜が裂け、細い指のようなものが見えた瞬間、AIREが低く告げた。

「未登録生体、活動増幅。数:——増加中」

 時計は「06:52」。刃は下り、決断は終わった。だが、本当に切られたのは管だったのか、それとも彼らの無垢な言葉だったのか。制御室に残るのは、冷たい空気と、遠くから聞こえる幼い声のような囁きだけだった。

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