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酸素残量、あと三〇分  作者: 妙原奇天


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第2話「00:22 ─ 呼吸の嘘」

 隔壁E-3は、制御室の壁一枚を隔てたすぐ隣にあった。

 厚みわずか十センチ。中には保守用のダクトと、冷却管が通っている。

 相沢が点検ハッチを開くと、冷たい金属の裏側から、微かな“呼吸音”が漏れてきた。

 湿った吸気と、ゆっくりした呼気。まるで、眠っている生き物の胸が上下しているような音だった。


 「未登録消費源って、何よ……」

 三嶋の声が震えていた。マスク越しに息が乱れているのが分かる。

 AIRE-12が応答する。「記録照合――EVEユニット、冬眠維持装置。ステータス:自動復旧モード」


 EVE。

 その名を聞いた瞬間、相沢の背筋に冷たい電流が走った。

 EVEは、緊急時に遺伝資料と胚を保存し、再生用に管理される“未来保全システム”。

 このシェルターには、ひとつだけ格納されているはずだった。

 「……おかしい。先月、実験系統は停止されたはずだ」

 相沢が呟く。

 「誰かが再起動したんだ」

 鴫原の視線が、静かに三嶋に向いた。


 EVEの再起動権限を持つのは、医療オペレーター——つまり三嶋ただ一人。

 「違う、私は……ただログを読んだだけ。EVEの消費は微量よ。人の呼吸とは別系統。私の偏差とは関係ない」

 声は弱々しいが、瞳の奥に焦りが宿っている。


 相沢は耳を澄まし、EVEの吸気リズムを確かめた。

 低く、長い。

 人間の四分の一ほどの流量。

 けれど、その音は“二重”に聞こえた。

 EVEの規則正しい呼吸の下に、どこかで重なる別の早いリズム。

 それは、誰かが過換気している音だった。


 「呼吸は嘘をつけない」

 相沢は机の上に小型マイクを三つ並べ、各自のマスク前に置いた。

 波形モニタが立ち上がり、三人の吸気と呼気の形を線に描き出す。

 呼吸数、吸気ピーク、呼気残圧。

 それぞれが違うリズムを持っている。


 三嶋の波形は、吸気の終わりに小刻みな震えがある。

 緊張した人間特有の癖。

 鴫原の波は安定しているが、呼気の立ち上がりが鋭すぎる。

 相沢の波には、微妙な空白——呼吸を止める癖が出ていた。


 「偏差+45%の犯人はEVEじゃない」

 相沢は淡々と言った。

 「誰かが意図的に自分のSpO₂を下げて、AIREの優先分配アルゴリズムに乗っている可能性がある」


 AIRE-12がすぐ反応する。「仕様説明:非常時、SpO₂が閾値を下回る個体に酸素を優先配分」

 鴫原が顔を上げた。

 「つまり、息を止めたり、過呼吸したりして“苦しんでるふり”をすれば、より多く酸素が回る。ゲームだな」


 空気が凍った。

 三嶋が口を開く。「そんなことするなんて、最低よ」

 けれど鴫原は視線を相沢に移した。

 相沢は、その視線を受け止める。

 数秒の沈黙の後、彼は小さく頷いた。


 「……やった。数秒だけだ」

 「何だと?」

 「EVEの音を聞いた瞬間、焦ったんだ。誰も切りたくなかった。だから、自分のSpO₂を落とせば、優先が来ると思った」

 自白の瞬間、三嶋が息を呑んだ。

 空気の重さが倍になったようだった。


 三嶋はポケットに手を入れ、濃縮パックを取り出した。

 「これも、嘘。保険じゃなかった。……一度だけ吸った」

 机の上に置かれたパックが、金属音を立てる。

 鴫原がそれを見つめ、ツールを握り直した。


 「いいか、残り二二分。EVEを切れば持つ。だがそれは“未来”の殺人だ。人を切れば今ここの殺人だ。規範上は未来保全を優先する。だが……俺はどっちを選ぶべきか分からない」


 AIRE-12が割って入る。

 「提案:EVEユニットを低出力に。凍眠維持の閾値近傍まで削減可。ただしリスク上昇」


 相沢はヘッドホンを取り、EVEの呼吸音を耳で聴いた。

 音は、子守唄のように穏やかで、一定のリズムを刻んでいる。

 まるで誰かがそこに“生きようとしている”ようだった。


 「半分だけ削る。EVEも、俺たちも、生かす側に賭ける」

 彼はパネルを操作し、EVEの出力を50%に落とす。

 システムが警告を出しながらも、酸素消費グラフがわずかに下がった。

 数字が変わる。

 「18:50」


 しかし偏差は消えなかった。

 ログには断続的にスパイクが立つ。

 誰かがまだ、アルゴリズムを利用している。


 「おい、また誰かやってる」

 鴫原が声を荒げる。

 モニタの波形が跳ね、ノイズが走る。

 三嶋の波形が乱れ、過呼吸のように上下していた。

 「ちがう、違うの。私じゃない!」

 その声が裏返る。


 相沢がモニタを切り替えた瞬間、別の波形が重なった。

 EVEの波形に寄生するように、もうひとつの微弱な呼吸波。

 低く、しかし確かに人間の形をしている。

 「……EVEの中に、何かいる」


 三嶋の顔色が蒼白になった。

 「EVEは胚保管用。生体を入れる仕様じゃないはず」

 「だが、音を聞け。呼吸が二重だ」

 相沢は耳を澄ます。

 その瞬間、EVEの排気口からわずかな白い霧が漏れ出した。

 冷却剤の蒸散ではない。人の吐息のように温かかった。


 「まさか、凍眠体が……覚醒しかけてる?」

 「ありえない。出力を半分に落としたのに、覚醒信号なんて——」

 AIRE-12の声が遮る。「警告。EVEユニット内部温度上昇。生命活動パターン再検出」


 鴫原が立ち上がる。「止めるぞ。EVEを切る」

 「待て!」相沢が制した。「EVEが再起動したのは、俺たちの誰かがトリガを与えたせいだ。切る前に、誰が触ったかを——」


 その言葉の途中で、室内の照明が一段暗くなった。

 非常灯が赤から橙に変わり、低音のアラートが流れる。

 AIRE-12の声が歪む。「警告。バッファ圧、限界域。酸素残量、残一五分」


 彼らは顔を見合わせた。

 “十五分”。

 それは、EVEを救う時間ではなく、自分たちの命の残り時間だ。


 鴫原はツールを握りしめたまま壁際に寄り、息を整えようとする。

 だがその息づかいさえ、もう疑念の種になる。

 誰が嘘をついているのか。

 呼吸すら、信用できない。


 三嶋のマスク越しに曇るガラスの奥、瞳が揺れていた。

 「ねえ、相沢くん。私たち、もう……呼吸してること自体が罪なんじゃない?」

 「生きてる限り、酸素を奪い合う。それが今のルールだ」

 「でも、EVEの中の命は、まだ何も奪ってない」


 相沢は答えられなかった。

 壁の向こうから、再び“吸って吐く”音が聞こえる。

 そのリズムが、彼らの心拍と微妙にずれていく。

 EVEが、呼吸を合わせようとしているように感じられた。


 「EVEの中の誰かが、こっちの酸素分配をコントロールしてるかもしれない」

 相沢の声に、三嶋が顔を上げる。

 「それって、意思を持ってるってこと?」

 「分からない。でも、今の偏差の動き方は、計算じゃない。誰かが——考えてる」


 AIRE-12の音声が再び割り込む。

 「注意。EVEユニットとのリンク信号増加。制御系統に干渉検出」

 鴫原が叫ぶ。「AIREが乗っ取られてるのか!?」

 「違う、逆だ。EVEがAIREを介して、俺たちの呼吸を調整してる」


 その瞬間、EVEの隔壁の向こうから、誰かの声がした。

 かすかに、女の声。

 「……さむい」

 機械音に混じるような微かな囁きだった。

 三人が同時に息を止めた。


 赤い非常灯の下、E-3の壁が一度だけ震えた。

 鴫原の顔に汗が流れる。

 「今の、聞こえたか?」

 「……聞こえた。呼吸の嘘じゃない。あれは“声”だ」


 だが、AIRE-12はその直後に静かに告げた。

 「解析不能信号。発信源:EVEユニット内。記録上存在しない生体波形を検出」


 制御室の空気が、一段と重くなった。

 EVEの呼吸音が、もう生き物のものではなく、人の泣き声のように変わっていく。


 相沢はモニタを見つめながら呟いた。

 「呼吸の嘘は、俺たちだけじゃなかったんだ……」


 その言葉の後、照明が完全に落ちた。

 真っ暗な中、機械の低い音だけが残る。

 EVEの中から、再び誰かの息づかいがした。


 「——だれ、か——」

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