第1話「00:30 ─ 誰かが吸いすぎている」
非常灯が赤に切り替わった瞬間、室内の空気が別の生き物みたいにざわめいた。
パネルの数字が、無慈悲に点滅している。
「三〇分」——酸素残量。
平板な機械音声が、それを何度も繰り返した。「酸素残量、三〇分。消費偏差検出。個人ラインの一つが基準比一四五パーセント。」
相沢は咄嗟に顔を上げた。
薄暗い制御室の奥、三つのマスクが並んでいる。
彼の呼吸音が、自分の鼓膜の内側で異様に大きく膨らんでいく。
ゴムのバンドが頬に食い込み、マスクの内側に吐いた息が冷たく戻る。
息をひとつでも深く吸うことが、罪のように思えた。
三嶋はコンソールに張りつき、バイタルの数値を睨んでいる。
「ライン一、正常。ライン三、正常。ライン二……異常。過剰吸気。偏差+四五。」
眉間に皺を寄せた鴫原がすぐに口を開いた。
「ルールを読む。三人とも規定流量固定。誰かの超過は許されない。まずは共用循環を一段落とす。」
相沢が反射的に顔を上げたときには、もうスイッチが下がっていた。
「待て、まだ確認が——」
だがすでに部屋の空気が一段重くなる。音が濃くなる。
喉の奥に酸のような感覚が広がり、相沢は短く息をついだ。
誰もしゃべらない。
だからこそ、わずかな吸気の音が異様に響く。
三嶋の呼吸は細く、長い。
鴫原の呼吸は短く、鋭い。
自分はできる限り一定を意識している。
それでも、ログはひとつの答えを突きつけている。
——ライン2、偏差+45%。
つまり、“三嶋”だ。
「待って」
コンソール越しに三嶋が声を上げた。
「計器の遅延がある。過換気の補正で一時的に跳ね上がってるだけ。私じゃない。」
その声は震えていた。
彼女のポケットの中で、何かが小さく当たる硬い音。
相沢は見逃さなかった。
それが携帯型の酸素濃縮パックだと気づくのに、時間はかからなかった。
彼女には、亡き娘の喘息発作の記憶がある。
その癖で“持っている”。
ただの保険だ、と彼女は言うだろう。
だが今、この状況では——その小さな装置ひとつで、命の分配が変わる。
鴫原は、迷わない男だ。
腰のツールケースから切断ツールを引き抜く。
「規定では偏差が続くラインを一時遮断し、他ラインで分配する。彼女のマスクを外せとは言わない。バルブを回すだけだ。」
その声は冷たくも正しい。
生きるための正義を機械みたいに語る声。
相沢は立ち上がり、鴫原の手を止めた。
「待て。まだ判断できない。音が変だ。どこかで“漏れてる”音がする。」
耳を澄ます。
空調の唸りの奥に、かすかな笛のような音が混ざっている。
相沢は壁面の導管に顔を寄せ、耳を当てた。
確かに、そこに“呼吸”がある。人間のものではない、金属の隙間を通るような音。
AIRE-12の機械音声が告げる。「CO₂スクラバー効率、七二パーセントに低下。」
酸素だけではない。二酸化炭素が抜けきらず、空気が濁りはじめている。
三嶋がコンソールを操作しながら言う。
「吸いすぎてるのが一人分とは限らない。スクラバーが詰まってる可能性もある。総体が悪化してるだけかも。」
その言葉に、相沢は頷いた。
だが鴫原の目は三嶋の方を向いていた。
彼女のマスクの呼吸パターンが、ほんのわずかに不自然だからだ。
吸気が二重になる瞬間がある。
まるで、二つのレギュレーターが並列で動いているような。
「ポケット、出して」
鴫原の声には、もはや命令の冷たさしかなかった。
三嶋は目を伏せ、逡巡する。
その間の一秒ごとに、室内の空気が濃くなっていく気がした。
相沢は間に入り、穏やかに言う。
「取り上げる前に、確認しよう。もし濃縮パックが繋がってるなら、誰かに回してる可能性がある。」
「誰かって?」鴫原が訊いた。
「ここにいる三人以外に……機械か、人か。」
その瞬間、三嶋の指が震えた。
彼女はポケットに手を入れたまま、何かを握りつぶすように力を込めている。
AIRE-12の音声が割り込む。「提案:共用循環をオフにし、個人ラインのみで供給。偏差の所在を特定可能。」
鴫原は無言でスイッチを切った。
共用循環が落ちる。
風の流れが止まり、室内の空気がまるで“閉じ込められた水”のように動きを失う。
自分たちの呼吸音だけが、壁を叩く。
相沢は目を閉じて、自分の心臓の鼓動と吸気のリズムを数えた。
——一秒、二秒。
誰かの呼吸が、他よりわずかに早い。
数字が動く。「27:40」
あと二十七分四十秒。
その数字がカウントダウンのように思えてならない。
三嶋がぽつりと言った。
「私は、誰にも回してない。……たぶん。」
その“たぶん”の尾を、相沢は聞き逃さなかった。
鴫原の指が、ライン2のバルブにかかる。
そして——
「未登録消費源を検出。位置、隔壁E-3の向こう。」
AIRE-12の音声が割り込んだ。
誰もすぐには動けなかった。
沈黙が数秒、重力みたいに場を押しつぶす。
鴫原が先に息を吐いた。
「……どういうことだ。」
「E-3は封鎖されてる。誰もいないはず。」と三嶋。
相沢は立ち上がり、照明のスイッチを押した。赤い非常灯の下、隔壁E-3へ続く通路がぼんやりと浮かび上がる。
その奥から、かすかな“呼吸音”がした。
彼ら三人のものではない。
壁を通して伝わる低い、湿った呼吸。
吸って、吐いて。
まるで、別の誰かがそこにいるかのように。
鴫原はツールを構え、通路に向かった。
相沢が止めようとする。
「待て、酸素を消費する。あの向こうに誰かがいるとしても、今開けたら分け与えることになる。」
「それでも確認しなきゃいけない。生きてるなら救う。死んでるなら処理する。それが俺の仕事だ。」
鴫原の瞳は赤い光を映していた。
彼は隔壁のロックを解除しようとし、パネルにアクセスコードを入力する。
しかし、AIRE-12が冷たく遮る。
「警告。E-3区画は隔離中。開放は推奨されません。」
三嶋が叫ぶように言う。
「もういい! 開けたら終わる! ここで踏みとどまらなきゃ、三人とも死ぬ!」
鴫原は手を止めた。
その手が震えているのを、相沢は見た。
彼もまた、恐れている。
だがその恐れを言葉にする代わりに、彼は職務と理性にすがっているのだ。
室内の酸素警報が再び鳴った。「残量二六分」
数値の変化はわずかだが、その一分の差が恐ろしい。
誰かが、確かに吸っている。
ここにいない“誰か”が。
相沢は思考を整理するために、一度目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、地上にいたころの風景。
空気を吸うことが当たり前だった時代。
今、その当たり前が、誰か一人の裏切りで崩れようとしている。
三嶋は泣きそうな声で言った。
「ねえ、相沢くん。もし、E-3の向こうに本当に誰かがいるなら……その人も、生きる権利があるのかな。」
「酸素が三〇分しかないのに?」
「でも、見捨てたら、それはもう……わたしたち、人間じゃなくなる。」
その言葉が、静寂の中に沈んでいく。
鴫原がゆっくりと振り返る。
「だったらどうする。俺たちが生きるために、誰かを殺すか。誰かを救って、三人とも死ぬか。」
誰も答えない。
AIRE-12の無機質な声がまた響く。「警告。残量二五分三〇秒。共用循環オフ状態での酸素分配は推奨時間を超過。」
その冷たい声が、まるで神の審判のように感じられた。
相沢は視線をE-3に向けた。
わずかな隙間の奥で、何かが動いたように見えた。
気のせいではない。
そこに“何か”がいる。
その動きに合わせて、導管の中の笛のような音が強くなる。
「鴫原、やめろ!」
相沢が叫ぶより早く、鴫原がレバーを引いた。
隔壁のロックが一段階だけ外れる音。
わずかな空気の流れが生まれ、赤いライトがまた点滅する。
警告音が重なり、AIRE-12の声が急に速くなる。
「警告。未登録消費源の活動レベル上昇。位置、隔壁E-3の——」
音が途切れた。
代わりに、壁の向こうから“何か”がノックした。
三回。
間をおいて、もう一度。
人間のリズムだった。
相沢の背筋が凍った。
誰かが生きている。
だが、その誰かは、すでにこのシェルターの「名簿」には載っていない存在。
登録されていない“消費源”。
赤いランプの下、三人の視線が交錯する。
鴫原の指が、もう一度レバーへ伸びる。
三嶋の手が、彼の腕を掴む。
相沢はただ、その音を聞いていた。
ノックの間隔が、だんだん短くなっていく。
呼吸の音と、心臓の音と、金属の軋みが混ざり合う。
誰も、もう言葉を出せなかった。
そしてAIRE-12が、最後にもう一度告げた。
「未登録消費源、数値更新。……四体。」
赤い非常灯が一度だけ点滅し、制御室の空気が止まった。
——00:27:00。
呼吸が、壁を叩く音のように響いていた。




