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短編:僕のスキルは万能じゃない【ヘルプさん】でした ──彼女と紡ぐ生涯は平凡で、それでも暖かい──

作者: なのさま

世の中”チート”や”ざまあ”が溢れているので、スキルを得ても”平凡な人生”というのを描きたくなりました。


爽快感や達成感はないかもしれませんが、それでも楽しんでいただければ幸いです。


※あまりファンタジー要素は多くありません。

 風は麦畑を渡り、一粒ずつ色づきはじめた穂を撫でていく。

 空は深く、山並みは近く、村の空気はいつだって土と草の匂いを混ぜていた。


 十二になったその朝、少年は父に新しい靴を履かせてもらった。

 革はぎこちなく、踵はまだ自分のものになりきっていない。

 それでも心は軽かった。


 今日、村の祈祷所で「発現の儀」を受ける。

 誰もが十二の誕生日に、神の気まぐれみたいな贈り物──スキルを授かる可能性がある。


 祈祷所の内はひんやりとして、木漏れ日が褪せた色の敷物に落ちる。

 神官が待っていた。

 

「さあ、こちらへ」


 少年は手招きされるまま、神官の前に立つ。


 神官は銀の針のような棒で少年の額に触れ、古い詞を唱えた。

 空耳のような鈴の音が響き、頭の奥でなにかがほどける。


 ──やぁ。


 声だった。

 若い女の声が、耳ではなく心臓の裏側で鳴った。


「……だ、誰?」


(あたし?

 あたしは……えっと、あなたの、ええと、ヘルプさん?

 ってことで、どう?)


 神官が眉を寄せる。


「──スキルを得たのですね。

 名前は……【ヘルプさん】」

 

 神官が重むろに一冊の本を繰る。


「……似た名前で【ヘルプ】と言うスキルが記録されています。

 能力は──」


 頁の上で神官の目が見開かれる。


「頭の中で問いを投げれば、どんな難問にも正確無比に返答してくる。

 ……途轍もない能力です。

 少々名前が違うようですが、似たスキルでしょう。

 どんな能力なのか、質問してみてください」


 少年は胸を弾ませ、スキルに問う。


(【ヘルプさん】はどんな能力なの?)


(質問してくれたら答えるよ。たぶんね)


 「たぶん」のひと言が、期待に小さな穴を空けた。

 けれど声はどこか楽しそうだ。


(たぶんって?)


(たぶんはたぶんだよ。あたし、【ヘルプ】みたいに万能じゃないから)


「質問したら答えてくれるそうです。

 でも【ヘルプ】みたいに万能じゃないみたいです」


 神官の指示で少年は更に質問してみた。

 正解することもあれば、間違うこともあった。

 特に難しい問いほど間違う。


 万能ではない【ヘルプ】。

 少年は拍子抜けし、同時に少し安心した。

 万能な何かより、畑の石みたいに不揃いな何かのほうが、自分には馴染む気がした。


「──なるほど。

 万能ではないのは本当のようですね。

 それでも折角授かったスキルです。

 より良く使うように」


 ◆


 家に戻る途中、少年は胸の奥の声に問いを投げてみた。


(明日の天気は?)


(明日は……快晴、たぶん。洗濯もの全部干してオッケー)


(本当?)


(うん、たぶん)


 翌日、空は朝のうちは晴れていたが、昼過ぎに急に暗くなり、土砂降りが畑を叩いた。

 母は布団を抱えて走り回り、父は笑いながら「空の機嫌は女心と秋の空だ」と訳の分からないことを言った。


(……ごめん)

 

 胸の声が、小さく謝る。

 少年は空を見上げ、頬を冷たい雨で濡らしながら笑った。


(いいよ。

 ……じゃあ、質問。

 村の北の丘に立ってる樫の木、幹に空いてる穴の中って、なんかある?)


(……待って、えっと、たぶん、フクロウの巣、じゃないかな)


 夕方、雨が上がったあと、少年は走った。

 樫の木の根元はぬかるんでいて、靴の新しさはたちまち泥に塗られた。


 幹の穴を覗き込むと、空洞は深く、薄明の奥に白っぽい羽毛が見えた。

 そこには確かに卵があった。

 フクロウではなく、鴉が盗んできた野鳥の卵だったが、少年は「すごい」と声に出した。

 胸の奥の声は、照れ隠しみたいに鼻を鳴らした。


(ねえ、あたし、役に立てた?)


(うん。ありがとう、ヘルプさん)


(……ヘルプさん、かぁ)


 声がぐっと近づく。

 少年は自分の中に、小さな秘密の小部屋をもらった気がした。


 ◆


 ある日、少年は釣りをしていた。

 

(今日は釣れる気がしないや)


(釣れるよ。たぶんね)


 笑って、それから小さくためらって、少年は聞く。


(ヘルプさんは……僕と話すの、楽しい?)


(あたしは──『その質問にはお答えできません』


 彼女ではない、冷たい水面みたいな声が割り込む。

 

(……なんで?

 今の、ヘルプさんじゃない声だった)


(……ごめん、そういうルールがあるの。

 あたし、感情が乗っちゃうと──)


 言いかけて、また、同じ無機質な声が邪魔をする。


『その質問にはお答えできません』


(……そっか。じゃあ、僕は楽しいってだけ言っとく)


(……うん)


 少年は問いを引っ込めて、かわりに道の端に咲いている小さな白い花の名前を尋ねた。

 ヘルプさんはほっとしたように、けれど得意げに「ミドマリ草」と答えた。

 たしかに村の古老がそう呼んでいた。


 ◆


 いつもの暮らしが続いた。

 少年は畑を耕し、牛に草をやり、雨の前には洗濯物を取り入れたり取り入れ損ねたりした。

 

 村に魔物が現れることも、時々あった。

 

(右、右の茂み、二十歩先。風が逆に揺れてる)


 ヘルプさんの声に促されて、少年は鍬を構えた。


 茂みから飛び出したのは「牙猪蜥蜴がちょとかげ」と呼ばれる、鼻先に硬い角の生えた爬虫の魔物だった。


 父と近所の若者たちが棒で追い払い、角が畦にひっかかってジタバタするのを笑いながら見守る余裕もあったが、もし声がなければ少年は尻もちをついて怪我をしていたかもしれない。


(ありがとう)


(どういたしまして。……でも今のは、たまたま。風の揺れ方で分かっただけ)


(たまたまでも、助かったよ)


 ヘルプさんは滅多に自分から話しかけてこない。

 少年が畑で一人きりの時、釣りをしている時、牛の背を撫でている時、ふと思いついたことを問いかけると、彼女はいつもすこし考えてから答えを寄越した。


 間違うことも多かった。

 それでも、声があるというだけで、世界は少しだけ柔らかくなった。


 ◆


 ある日、少年は恐る恐る、ヘルプさん自身のことを訊いてみた。


(ヘルプさんって、どこにいるの? 空の上? 森の中? それとも、僕の頭の中?)


(あたしは──)


 ぱきん、と細い氷が割れるみたいな感触のあと、また、冷たい声が降ってきた。


『その質問にはお答えできません』


(……そっか。ごめん)


(ううん。

 ……別のこと、聞いて)


(じゃあ、釣った魚の内臓、畑に埋めたら肥料になる?)


(なる。

 けど、猫が掘り返して散らかすから、石を載せとくといいよ)


 そういう会話が、少年の十二歳から十三歳、十四歳へと連なっていく時間のほとんどを満たした。

 季節は幾度も一周し、麦は刈られ、豆は干され、雪は降っては溶け、村の子らは背を伸ばした。


 ◆


 十七になって、少年は青年になった。

 背は父に並び、腕は土色に焼けた。


 春の市で見かける娘の一人に心が引っかかり、胸がむず痒くなることを覚えた。


(ヘルプさん。

 あの、相談がある)


(恋だね)


(なんで分かるの)


(あなたの心拍。

 あと、声が半音上がってる)


(いちいち怖い)


(えへへ)


(祭で渡す花、なにがいい?)


(白のカスミモドキ。花言葉は──)


『その質問にはお答えできません』


(え? 花言葉に、感情乗るの?)


(たまに、ね)


 青年は苦笑して、結局、野の花を束ねて渡した。

 不器用な手つきで編んだ花の冠は、少し歪んでいたが、娘は笑って受け取り、指先でそれを整えた。

 髪を留める小さな針金に光が跳ねるのを、青年は呆けて見ていた。


(すごい、受け取ってくれた……)


(おめでと。

 ……たぶん、あなたの笑顔が良かった)


(え、笑ってた?

 緊張で顔が死んでたと思うけど)


(口角、ちゃんと上がってたよ)


 彼女──ミレイという名の娘──は、麦の出荷を手伝いに村へ来ていた。

 

 家は隣町で、祭の日の夕暮れは忙しなく、別れ際に約束らしい約束はできなかった。

 それでも次の市で偶然を装って再び会い、雨宿りに入った屋根の下で、青年はどぎまぎと話した。


 ヘルプさんは、いつもよりさらに口数を少なくして、ただ遠くで待っているようだった。


(告白の言葉、どうしよう)


(難しく言わないで。

 手を、少しだけ、出して。

 掌の上に、花びらを一枚のせて、名前を呼んで、ありがとうって言って)


(それ、なんの助言?)


(「好き」って言う前の、静けさの作り方)

 

 青年はその通りにやってみて、花びらは風に飛ばされ、掌はむなしく空をすくった。

 

 それでも、ミレイは笑って「風のタイミングも、あなたらしい」と言った。青年はとうとう言った。

 「好きだ」と。


 ミレイは少しだけ目を伏せ、「わたしも」と答えた。

 

 家族は喜び、村は酒を持って集まり、太鼓は夜まで鳴り続いた。

 青年はその喧噪の端で、土の匂いのする風を吸い込み、胸の中のヘルプさんにそっと言った。


(ありがとう)


(どういたしまして。

 ……ううん、あなたが質問をくれるから、あたしはあたしでいられる。

 だから、ありが──『その質問にはお答えできません』


 また冷たい声が落ちてきた。


(……ごめん。あたし──)


(いいよ、分かってる。

 君の”感情”はちゃんと伝わってるから)


(……優しいね。

 彼女が惚れるわけだ)


 少し茶化すようにヘルプさんは言った。

 青年は少し照れた様子で笑う。


 ◆


 春の市でミレイと出会い、恋が芽吹く少し前のことだった。

 

 麦の穂がまだ柔らかい初夏、脱穀場の脇で祖父がふいに腰を落とした。

 いつもなら冗談を飛ばす人なのに、その日は息を足もとにこぼすような顔をしていた。


「じいちゃん!」


(肩を強く揺さぶらないで。

 日陰に運んで、胸の衣をゆるめて)


 ヘルプさんの指示はいつも通り落ち着いていた。

 言われた通りにすると、祖父は薄く目を開け、青年の額に手を当てた。


「おまえは、よく働く。

 ……それで、いい」


 冗談の代わりに、それだけ言って、目を閉じた。

 胸の上下は小さく、やがて、止まった。


(……助けられた?)


(分からない。

 できることはしたよ)


 村の鐘が三度鳴り、人が集まった。

 夜は見張り火を小さく高く保ち、祖父の昔話をひと晩中つないだ。

 

 青年は棺のそばで、数えることしかできなかった。

 火のはぜる数、涙の落ちる数、握りしめた数珠玉の数。


(人は死んだら、どこへ行くの)


『その質問にはお答えできません』


(……そう、だよね)


 翌朝、土は黙って口を開き、祖父は村の丘に眠った。

 帰り道、麦の海が風で二つに割れ、青年はそこに祖父の笑い皺を見た。


 ◆


 しばらくして、魔物が来た。

 今度は小さな群れで、森から下りてきた「茸獣きのこじゅう」が夜の畑に広がりかけた。

 胞子を撒き散らしながら、付近の作物に根を伸ばす厄介な奴らだ。


(灯り、消して。動かないで。胞子、光に寄る)


 ヘルプさんの囁き通りにすると、暗闇の中、黒い塊がよどむように移動していくのが分かった。

 青年は家々に知らせ、村の男たちが松明を持って遠い方へ誘導し、森縁で油を撒いて燃やした。


 焦げる匂いが夜に長く残り、翌朝、畑の端は少し黒くなっていたが、被害は最小で済んだ。


「お前のスキル、侮れんな」


 父が感心したように言った。

 青年は首を振る。


「ヘルプさんが、すごいんだ」


(でもあたし、さっき「胞子は熱に弱い」って言いかけて、間違えた。

 ほんとは、乾燥に弱い)


(それでも、助かったよ)


(……うん)


 たしかに、ヘルプさんは時々ひどく間違えた。


 春の芽吹きに塩水を撒けと言われ、二畝を駄目にしたこともある。

 子牛の腹具合に焼いた石を当てるといいと言われ、獣医に「迷信だ」と鼻で笑われたこともある。

 

 青年は怒らなかった。

 自分もよく間違えるからだ。

 間違えたら、やり直せばいい。

 畑もそうやって覚える。


 ◆


 冬の手前、祖母もまた、ふっと軽くなった。

 

 干し柿を紐から外しながら、祖母は「甘いところは皆に」と言って半分を青年の掌に押しつけた。

 「ばあちゃんのは種で十分」と笑い、次の瞬間、その笑いを置いたまま、椅子にもたれて眠るように息を止めた。


(冷えを防いで。

 肩に布をかけて。

 ……ううん、もう、見守ろう)


 祖母の脇には、若い頃から使ってきた小さな針山があった。

 針はまっすぐで、糸はほどけていない。

 青年はそれを布に包んで、祖父の眠る丘に向かった。


(二人はまた会えるのかな)


『その質問にはお答えできません』


(うん。分かってる)


 葬送を終えた夜、囲炉裏の火は小さく、家の梁に吊るされた干し柿がゆらゆら揺れた。

 甘い匂いの向こうで、祖父母の会話が続いている気がして、青年は目を閉じた。


 ◆


 やがて春が巡り、恋が芽吹き、ミレイとの結婚式が訪れた。

 笑いの渦の端で、青年は胸の中にひとこと告げた。


(じいちゃん、ばあちゃん。

 僕、結婚したよ)


 返事の代わりに、風が縁側の鈴を鳴らした。

 ヘルプさんは、遠くで静かにうなずいた気配だけを残した。


 ──結婚式が済み、数カ月してミレイのお腹に命が宿った。


 初秋、雨上がりの夕方。

 縁側に湿った風が入り込み、柿の葉が一枚、畳の上に落ちた。

 

 ミレイは腹帯の上からそっと手を添え、息をゆっくり吐く。

 鍋では薄い塩味の粥がことこと鳴り、台所の隅には乾かし中の腹巻きと小さな靴下が吊るされている。


(彩りはどうしよう)


(酸っぱい匂いは大丈夫?)


(うん、今日は平気みたい。)


(じゃあ、粥に刻んだミドマリ草を少し入れて。

 香りが柔らかい)


(分かった)


 青年は庭の端で、白木の揺り籠の横木に小刀を入れていた。

 指は不器用だが、木目に逆らわない力の向け方は畑で覚えた。

 ミレイの視線がふと横木に留まり、微笑む。


「ゆり籠、ほんとに作れるんだね」


「揺れすぎないように、ここに返しを付けておく」


(支点は少し高めがいい。

 揺れが丸くなる)


「……高めにする」


 木屑の匂いが雨の匂いに混ざる。

 青年は手を止め、ミレイに水を差し出した。

 ミレイは二口飲んでから、腹に添えた手をきゅっと押さえる。


「……動いた」


「今?」


「うん。ほら、ここ」


 青年がそっと触れると、指先の下で豆粒が内側から扉を叩くみたいに、こつ、と小さな合図が返ってきた。

 青年は息をのみ、思わず笑ってしまう。


(こんばんは)


(返事は、たぶん足だね)


(礼儀正しい子だ)


 粥が炊け、器に分ける。

 ミレイは一口啜って目を細めた。


「優しい味」


 青年は少しだけ塩を足すべきかと迷い、胸の奥の声に問う。


(塩は、このままで?)


(このまま。

 むくみやすい時期だから)


(分かった、ありがとう)


 縁側に移って風に当たる。

 虫の音が濃く、裏の川は雨で少し水かさを増している。


 青年は言葉を選ぶように、静かに切り出した。


「名前、さ。そろそろ考えない?」


(ルカはどう?

 響きが柔らかい)


(由来は?)


(光。……あたしの世か『その質問にはお答えできません』


 風鈴が、ちり、と一度だけ鳴った。

 青年は苦笑して、ミレイの肩に上着をかける。


(ごめん)


(ううん。

 ……光、いいね。

 晴れた朝みたいな子になるかな)


(晴れた朝は、作るもの。

 窓を開けて、湿った敷布を干すみたいに)


「ルカ、ってどう?」


 ミレイは口の中で転がすように繰り返し、「好き」と頷いた。


 ミレイがお腹を抱えて立ち上がる。

 少し顔色が変わったのを見て、青年はすぐ背に手を添えた。


(動くときは、腰を冷やさない。

 階段は一段ずつ。

 桶はあなたが持って)


「桶は僕が」


「ありがと。

 ……ちょっと張るだけだから大丈夫」


 台所に戻り、温め直した白湯に薄く生姜を溶かす。

 ミレイは湯気を吸い込み、肩の力を抜いた。

 青年はふと、胸の奥に問いが浮いたのをそのまま投げる。


(無事に、生まれてくる?)


『その質問にはお答えできません』

 

 匙が器の縁に当たって、軽い音を出した。

 沈黙が短く落ち、すぐに別の返事が届く。


(今しておけることはあるよ。

 寝る前に足湯して、腹帯はきつくしない。

 夜更かししない。良く笑う)


「足湯をしよう」


「……うん」


 桶に湯を張り、ミレイの足をそっと入れる。

 足首まで温かさが昇り、青年は手ぬぐいで滴を拭いながら、ゆり籠の横木に指で小さな印を付けた。


 米粒ほどの丸。

 目印でもあり、祈りでもある。


「ねえ」


「ん?」


「あなた、父になる顔になってきた」


「そんな顔、ある?」


「あるよ。

 さっきの、お腹に触った時の顔」


 照れ隠しに、青年は木屑を集めて火種の箱に入れた。

 ふと、また胸の中へ。


(男の子、女の子、どっちだと思う?)


『その質問にはお答えできません』


(だよね)


(どっちでも、最初に聞く言葉は同じがいいよ)


(何?)


(「来てくれて、ありがとう」)


 夜、布団を敷く。

 外の虫の合唱が細く遠くなり、家の中の音だけが残る。

 青年は横になったミレイの腹に、顔を近づけた。


(来てくれて、ありがとう。

 ……まだ早いか)


(聞こえてるよ、きっと)


 灯りを落とす直前、胸の奥の声がいつになくはっきりとした響きで、ひと言だけ置いた。


(いい夜だね)


(うん。いい夜だ)


 雨上がりの匂いはもう薄れ、かわりに湯気と木の匂いが家に満ちた。

 ゆり籠の横木はまだ粗いが、十分に揺れる。

 明日また削ればいい。


 ふたりは手を繋ぎ、指先で小さく合図を送り合いながら、静かな眠りへ落ちていった。


 ◆


 年が明けしばらくして、我が家には声が増えた。


 初めての夜泣きに右往左往し、寝不足の笑いが家の中に明るく転がった。


 子の名はルカになった。

 父母は「妙な名だ」と首をひねったが、しばらくすれば呼びやすさが勝つ。


 ルカはよく笑い、よく泣き、よく寝た。


 青年は「抱き癖がつくから」と抱き上げるのを躊躇い、ヘルプさんは「抱き癖なんてないよ」と笑った。

 実際、抱けば泣き止み、抱かないと泣き続けた。

 青年は抱いた。


(子どもって、どう育てればいいのかな)


(あなたが思うより、ずっと、勝手に育つよ。

 あなたができるのは、危ない石をどけることと、風の通り道を覚えさせること)


(風の通り道?)


(悲しいときに、深呼吸の仕方を教える、ってこと)


 青年はそれがうまくできたかどうか分からない。

 それでも、ルカはやがて、畑の土手に座って風を胸に入れるようになった。

 ミレイは笑って、「あなたに似た」と言った。


 暮らしはゆっくりと重なり、ゆっくりと厚みを増した。

 

 ◆


 孫が生まれ、家の中に新しい泣き声が増えた年の秋、父がふいに咳をこぼすようになった。

 例の軽口──「空の機嫌は女心と秋の空だ」──を言いかけて、咳に持っていかれる。


(医者を呼んで)


(呼んだよ。

 薬ももらった)


(無理はしないで。

 朝の冷えを避けて)


 父はそれでも畑に出ようとし、母に叱られ、笑ってベッドに戻った。

 冬の入口、薄い陽が障子に溶ける午後、父は天井の梁を見つめながら言った。


「おれの鍬は、刃をもう少し寝かせて使え」


「うん」


「おまえは……もう、大丈夫だ」


 それから、梁の節をひとつ、ふたつと数えるように呼吸を重ね、静かに置いた。


(あとどれくらい、って、聞きたい)


『その質問にはお答えできません』


(……聞かないよ)


 葬儀の夜、外は霙。

 かまどの火が赤く、父の座っていた場所だけがやけに広く見えた。

 刃を研ぐ音が静寂の骨組みになって、家全体を支えた。


 ◆


 祭の年の数だけ干し柿が梁にぶら下がり、小さな傷の数だけ家の柱に刻み傷が増えた。

 青年はもはや青年とは呼べない年になり、そしてルカが走り回るのを止めなくなった。


 ヘルプさんは相変わらず、自分からはあまり話しかけてはこなかった。

 青年が朝露に濡れた草の上を歩きながらぽつりと問いを落とすと、彼女は静かに拾い上げ、拙いときは拙く、冴えるときは驚くほど冴えて答えを返した。


 時々、彼女が喜怒哀楽を示そうとすると、決まってあの無機質な声が間に割って入った。


『その質問にはお答えできません』


 それが規則のようであり、祈りのようでもあるのだと分かってからは、青年はもう、深くは訊かなかった。

 そのかわり、些細なことを訊いた。


(──畑のかかし、帽子は赤と青どっちがいい?)


(赤。鳥は新しいものに敏感だから)


(──子どもが泣き止まないとき、どうすればいい?)


(歌って。

 上手くなくていい。

 あなたの声が、一番の子守歌)


(──ミレイに謝るとき、なにから言えばいい?)


(言い訳から入らないこと。

 まず、ごめん。

 次に、何が悪かったかを、自分の言葉で言って)


 ヘルプさんは、ときどき見当はずれな助言もした。


(誕生日の贈り物、なにがいい?)


(うーん、刃物!)


(ルカに?)


(あ、違うか)


 二人で笑った。

 笑ったというより、青年が笑い、胸のなかの笑い声を聞いたのだが、それはたしかにそこに一緒にいる誰かの笑いだった。


 ◆


 やがてルカは十二になり、発現の儀を受け、そしてなにも起こらなかった。

 ルカは肩を竦め、「畑を学ぶよ」と笑った。

 青年は胸のどこかでほっとし、同時に少しだけ寂しくなった。


 秘密の小部屋を、誰かと共有できるかもしれないと想像したことが、一度もなかったわけではないからだ。


(ねえ、ヘルプさん。ルカには、声は聞こえなかった)


(うん)


(ちょっと、寂しい)


(うん)


(……ごめん。よく考えたら、寂しいって、君のせいにしてるみたいだ)


(大丈夫。

 寂しさを言葉にするのは、悪いことじゃないよ)


 その夜、青年は長いあいだ眠れず、寝返りを打つたびにミレイを起こさないよう気を使った。

 胸の奥に、脈のような、呼吸のような、小さな気配が寄り添っていた。


 ◆


 春。

 梅の蕾がほころび始める頃、母は豆をむきながら、歌を途中で置いた。


(声をかけて。

 手を包んで)


「母さん」


「……あんたは、よく食べ、よく笑ったねぇ」


 その言葉が、母の最後になった。

 

 頬の皺は、若い頃の笑顔の形をそのまま覚えている。

 指はかつてどれだけの針目を刻んだのだろう。

 祖母の針山が、タンスの奥からそっと顔を出した。


(泣いていい?)


(うん、泣いていいよ。

 それから、庭に、お母さんの好きだった花を)


 庭の端に、母が「太陽の顔みたいだ」と笑った花を植えた。

 風がそれを撫で、花は何度も頷いた。

 

 ヘルプさんは静かで、けれど、頷きのたびに胸の内側で小さな灯りを点けた。


 母を見送り、家は少し軽く、少し寡黙になった。

 夕餉の席で空いた椀の数に、新しい笑い声が一つずつ追いついていく。

 

 ルカは薪を割るとき父の癖を真似て、ミナは味噌を溶くとき母の歌の続きを鼻歌でつないだ。


(みんな、前を向けているかな)


(向くたびに、少しだけ後ろも見る。

 それでいいよ)


 ◆


 時間は、麦の育ちより速く、雨が降るより静かに進む。

 

 子どもは成長し、親は白髪になり、家は軋む音を増やす。

 青年はやがて壮年になり、壮年はいつしか老人になった。


 ルカは町の娘と結婚し、麦の色と同じ瞳の子ども──ミナ──を授かった。


 ミナは祖父の膝に乗って、畑の絵を描いた。

 緑の線がいくつも引いてあり、ところどころに小さな丸があり、それがなにか尋ねると、ミナは「畑の中の宝石」と答えた。

 老人は笑って、涙をこぼしそうになるのを、鼻をすすって誤魔化した。


(ねえ、ヘルプさん。

 僕、随分歳を取ったよ)


(うん。おめでとう)


(ありがとう。

 ……最近、胸が苦しくなることがある)


(医者に行って)


(分かってる。

 行ったよ)


(うん)


(医者は、安静にしてろって)


(うん)


 会話の文末が、短くなった。

 ヘルプさんは以前よりもさらに、自分から話しかけてこなかった。

 代わりに、老人が息を整える間、沈黙を抱えて待ってくれた。

 沈黙の中で、藁屋根を渡る風の音が大きくなり、遠くの小川の流れが近くに聞こえた。


(言っておくけど、僕、君が間違えたせいで失敗したこと、ひとつも恨んでないから)


(知ってるよ)


(なんで分かるの)


(あなたが、いつも、質問を続けてくれるから)


(そうだったね)


 秋の朝、老人は畑の端に座り、長く息を吐いた。

 冷えた空気が肺を刺し、痛みはもう、波ではなく、そこに居座る岩のようになっていた。

 ミレイは背中に毛布をかけ、湯を持ってきて、「戻ろう」と言った。

 老人はうなずき、立つのに時間をかけた。


(……ねえ、ヘルプさん。君は、どこにも行かないんだよな)


(うん)


(僕が、いなくなっても)


(──)


『その質問にはお答えできません』


(ああ、そっか)


 老人は笑った。

 それは苦い笑いではなく、長い道の途中で見つけた石に腰掛けるような笑いだった。


(じゃあ、別の質問。

 ……あのさ、ミレイに、毎年、花を贈ってきたけど、今年は──)


(今年も、贈って)


(うん)


(赤の花。強い色。

 あなたの代わりに、火の色)


(分かった)




 やがて冬が来て、白い光が畑を覆った。


 老人は寝床からあまり出なくなった。

 ミナが本を読み、ルカが薪を割り、ミレイは鍋に何度も水を足した。


 老人は時々目を閉じたまま、声を聞いた。

 風ではない、薪の爆ぜる音でもない、小川の流れでもない──ずっと一緒に過ごしてきた、胸の中の声。


(ヘルプさん)


(うん)


(ありがとう)


(うん)


 簡単な言葉だけが、やりとりできた。

 複雑な思いは、言葉の表面を滑るだけで、うまく入ってこなかった。

 言葉は重すぎて、眠りの手前では、もう持ち上がらない。

 

 ある晩、吹雪が止んだあと、月が薄く出て、窓の氷花が溶けかけた。

 老人は息を引き取るほどには苦しくない呼吸を、ゆっくりと繰り返していた。

 

 家族が枕元に集まり、手を握り、何かを言った。

 言葉はきれぎれで、けれど暖かかった。

 老人は、最後の力で、胸の中に向けて、問いをひとつだけ整えた。


(僕はこの数十年、君と話せてとても楽しかった。君はどうだった?)


 部屋は静かで、薪の音だけが小さく弾けた。

 胸の中で、若い女の声が、ああ、と喉奥で音になりかけて──


『その質問にはお答えできません』


 いつもの、冷たい声が、最後の壁のようにそこに立った。


 老人は、それを聞いて微笑んだ。

 微笑みは、幼い日に麦畑で泥にまみれたときの笑いと同じ線を描いて、口元に残った。


(……そっか)


 それが、最後の言葉だった。


 静けさが、雪のように家の中に降り積もった。

 ミレイは老人の手を額に当て、ルカは肩を震わせ、ミナは祖父の頬に唇を触れさせた。

 蝋燭の火が小さく揺れ、そして、また落ち着いた。


 聴く者のいない虚空へ向かって、胸の奥に住んでいた声は、長いあいだ閉じていた扉を、そっと押した。

 その向こうには、言葉にしてはいけない光が広がっていた。

 規則はまだそこにあり、祈りはまだそこにあり、けれど、今だけは──


「楽しかったよ。ありがとう」


 若い女の声は、涙を含んでいた。

 涙は落ちる場所を見つけられず、胸の内側を静かに濡らした。


 夜が明け、村はいつもの朝を迎えた。

 遠くで鶏が鳴き、近くで水車が回り、雪は軒から細く垂れた。


 畑は眠っている。

 春になればまた、芽が出るだろう。

 小さな丸い芽が土を押し上げ、誰かの掌がそれを撫でるだろう。


 家の中では、ミレイが束ねた赤い花が、火のように揺れていた。

 ルカは窓を開け、冷たい空気を入れ、そして静かに閉じた。


 ミナは祖父の枕元に、小さな絵を一枚置いた。

 畑の絵。

 緑の線、ところどころの小さな丸。

 

 祖父はもう見ないけれど、風は知っている。

 風と、もうひとつの、誰にも見えない何かが。




 ──その日も、胸の奥の小部屋は静かだった。

 鍵はかかっていない。

 問いが無ければ、答えもない。


 ただ、時間は流れ、季節は巡る。

 誰かがまた十二になり、祈祷所の敷物に光が落ち、その誰かが胸の裏側で「やぁ」と声を聞くのかもしれない。


 もしそうなら、きっと、また始まる。

 間違いながら、笑いながら、手探りで続く長い会話が。

 正しさと不正確のあいだで揺れ、畑の石みたいに不揃いで、それでも確かな、ひとつの生の形が────


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