太陽野郎つづき
後送
二三
日曜日、予定通り午前一〇時から決勝トーナメントが開催され、一時間前に準々決勝戦の組み合わせが発表された。その組み合わせ表を試合会場の入り口前でみた仙道明人、そしてウオーミングアップ中の控室で知った神脇正則が重い顔を上げて唸った。
「草薙君、おいの前に伊達君とやり合うとな」
神脇は、この決勝トーナメントは誰よりも先に稔彦と試合いたかったが、準々決勝の相手に伊達幸司が当たったことにショックを覚えた。昨年の大会で御手洗大介に決勝戦で敗れたと言え、延長二回で勝敗がつかず僅差の判定で惜敗した実力者だからだ。稔彦の人間凶器に対し己の薩摩示現流手刀打ちがどこまで通用するか試してみたかった。この時神脇は、仙道と同様に稔彦が伊達幸司に勝てるとは思っていなかった。仙道は稔彦がここまで来れて満足しており、これから始まる伊達幸司との試合で何かを学んでくれたら本望だと思っている。稔彦には来年も再来年もあるからだ。
客席は試合開始三〇分前に満席となったが、昨夜稔彦が予測した通り水上智也の姿は見えなかった。その代わり東側の二階席の隅に、野球帽を被った梶川大悟に支えられ松葉杖をついた鬼頭三郎が腰を下ろしていた。鬼頭は、陥没した肋骨がまだ完治していなかったが、梶川からの報せを病室で受け無理やり外出許可をとり、たった一人で奮闘している稔彦の応援に駆けつけた。
西側の二階席では、昼食用の手作り弁当箱を膝に抱えた神谷藍が、落ち着かない様子で大城みゆきに寄り添いながら座っていた。藍は、鬼頭から稔彦の決勝トーナメント進出を聞き、梢に頼み込んで許可は得たが、こうした格闘技の試合会場にやって来たのは初めてだったから、体育会系の騒々しい雰囲気に圧倒されていた。油壷「紫煙」の二代目総長として大勢の荒くれ達を引き連れ海岸通りを爆走してきた大城みゆきは平然としていた。それでも司会者が参加選手紹介を告げると、興奮気味に身を乗り出して藍を振り向いた。
「藍さん、あいつ出るよ」
大城みゆきの言葉で試合場に向かって顔をあげた藍は、思わず弁当の包みを強く握りしめた。
試合場のマットの上では、決勝トーナメントに出場する八名の選手が一人ずつ紹介され、紹介が終わると一試合目に行われる伊達幸司と稔彦がその場に残った。間もなく、主審の合図で決勝トーナメントの第一試合、準々決勝戦が始まった。
マットの中央、3mの距離を挟み、紅白の試合開始線に伊達と稔彦が相まみえた。体格は伊達が稔彦より全体的にやや大きい程度で、試合におけるハンディ的な影響はない。
主審の合図を待つ間、スポーツ刈りで陽焼けした精悍な顔つきの伊達幸司は、鋭い視線で稔彦を威圧した。一七歳で決勝トーナメントまで勝ち上がってきた稔彦の人間凶器の噂は聞いていたが、この試合で実際にどれだけ役に立つかは疑問だった。野戦ならともかく、一定のルールの範囲内で行われる公式戦では、攻防のやり方はいくらでもあるからだ。
マットの下から仙道あが稔彦に、思いきりやれと声をかけ、その隣で四試合目に試合を控えた神脇正則が緊張した表情で二人の試合を見届けようとしている。
間もなく主審が二人の間に入り、右手を差し伸べた。
「始め!」
主審の号令で、それまでざわついていた客席が静まり返り、鬼頭三郎を始め誰もがマットの二人を注目した。
先に稔彦が一歩踏み込んで間合いを詰めた。伊達は動かない。両手の拳を顔の脇に添え、やや腰を落としいつでも動ける体勢で構えている。
稔彦がマットの上を滑るように前へ出た。それをセコンド席から見た仙道が、落ち着いていけ、と思わず稔彦の名を叫んだ。仙道の声を無視するように稔彦は一気に間合いを詰め、その狭い間合いから、左の中足で素早く伊達の顎下を真下から蹴り上げた。
伊達が両肘を立てブロックする。稔彦の蹴りはそのブロックごとはね返し、伊達の顎を直撃した。
思わずのけ反り腰を落として後退する伊達。稔彦が追う。跳び込んで右の中段廻し蹴りを伊達の左脇腹へ蹴り込んだ。両腕を立てブロックする伊達の顔が激痛で歪む。稔彦の脛の硬さに驚いた。大きく後ろへ跳び退き、右の拳を稔彦の目の高さに差し出し呼吸を整える。
二人の攻防をみた神脇が唸った。
「信じられんが、あん伊達君が一方的に押されちょい」
そう言いながらも、神脇は伊達がこのまま終わるとは思っていない。仙道も、稔彦の速攻がいつまでも伊達に通用するはずはなく、この後で反撃がくるはずだと考えている。肝心なのは、この試合を通して稔彦が伊達から何を学ぶかだ。稔彦にはまだ来年がある。
体勢を整えた伊達は、ゆっくり上半身を起こして背筋を伸ばし直立した。左右の拳をゆっくり顔の脇に添えやや腰を落として構える。その安定した姿勢をみた神脇は、いよいよ伊達が本気になったと思った。
東側の二階席で鬼頭三郎が、試合場に顔を向けたまま隣の梶川大悟に話しかけた。
「大悟、これからがいよいよ本番だぞ。稔彦のやつ、眠れる獅子を起こしやがった」
「今度は伊達さんが攻める番ですね」
梶川の言葉の途中で主審が試合続行を告げ、同時に伊達がマットを滑るように前へでた。間を置かず強烈な右ローキックを稔彦の左腿へ刈り込んだ。その右足を左足刀で蹴り返す稔彦。思わぬ反撃で蹴った右足がはね返されバランスを崩した伊達が舌打ちすると、右回りに逃れた。その動きに合わせて腰を回しながら右の中足で伊達の左脇腹を蹴り込んだ。思わず左肘を立てブロックする伊達。強烈な打撃に顔を歪めさらに右へ逃れる。追いながらジャンプする稔彦。空中から伊達の顎下を蹴り上げる。
咄嗟に顔をのけ反り躱した伊達がしゃがみ込んだ。二段蹴りが空振りした稔彦が着地する直前、いきなり立ち上がった伊達が空中の稔彦にショルダーアタックをかまし、稔彦を肩に乗せたまま前方へ雪崩落ちた。稔彦は、90kgある伊達の体重をまともに浴びながらマットの上に背中から叩きつけられた。
セコンド席の仙道が心配して稔彦の名を叫んだ。客席から女子の悲鳴が聞こえ、西側二階席の藍と大城みゆきが思わず腰を上げて倒れた稔彦の様子を覗っている。
先に起き上がった伊達の様子を確認した主審が、まだ起ち上がれない稔彦を見てドクターを呼ぼうとした瞬間、稔彦がいきなり上半身を起こした。主審は稔彦に身体の具合を確かめ、間もなく起ち上がった稔彦に道着の乱れを正すよう指示をして試合時間を確認した。すぐ両者をマット中央の試合開始線に立たせた。
「試合続行!」
先に伊達が間合いを詰め、左ローキックから右の上段廻し蹴りを放った。稔彦は、膝を落としてローキックを受け止め、上段廻し蹴りの右足の甲を左肘ではね返した。激痛に顔を歪め一瞬動を止めた伊達の左脇腹に、鋭利な三日月蹴りを射し込んだ。
蹴られた瞬間、伊達は後方へ大きく跳び退いた。左脇腹を押さえながら乱れた呼吸を整える。その目が恐怖でおののいている。稔彦にはね返された手足が激痛で痺れ、左脇腹の骨が数本折れたのを自覚した。何度も大きく深呼吸したが、なかなか平常に戻らない。それでも伊達は、両拳を顔の側面に立て腰を落として構えた。
紅白3mの試合開始線を挟み、相対する伊達と稔彦。稔彦の人間凶器を知らない伊達は、若干一七歳という若さを甘くみており、身体中の打撲によるけがはすべて自分の油断が原因だと思っている。このままでは身体が動かなくなるまで三〇秒はもたない、この試合で稔彦に何とかハンディを負わし、この後の決勝戦を同じ本流派の神脇か御手洗に委ねたかった。この時伊達の脳裡に、究極の禁じ手の名前が過っていった。
主審の掛け声で試合が続行された。稔彦の目を凝視したまま伊達が間合いを詰めた。稔彦も摺り足で前へでる。さっきの衝撃でまだ頭がぼうーとしている。それを振り切るように左ローキックを伊達の左膝へ刈り込んだ。
伊達は稔彦のローキックをまともに受けながら、稔彦の懐に跳び込んだ。一気に間合いを詰め、左手で稔彦の左袖を取り、左足を稔彦の右足の内側へ絡めて押し倒しながら右肘を稔彦の喉仏に当てた。肘に体重を乗せたまま稔彦の顔の上を一回転する。通称仏殺し。喉元を両手で押さえながら悶え苦しむ稔彦。審判や客席の誰もが偶然の事故だと思っている。
主審がドクターを呼び、稔彦の容態を診たドクターが主審に向かって首を横に振った。この時セコンド席から仙道が、判定審議は稔彦の回復を待てと大声で抗議した。主審が今一度稔彦を覗き込んで具合を確かめたら、稔彦は両目をいきなり見開いて上半身を起こし、間もなくふらつきながらゆっくり起ち上がった。
館内がざわめく中を、藍と大城みゆきは腰を浮かせて試合場を覗っている。二人は、度重なる浴びせ倒しをもろに受けてぼろぼろになっている稔彦を心配したが、二階席から顔の表情がよく見えない。藍は起ち上がった稔彦を確認して安心したが、このまま試合ができる状態なのか心配した。
目の前の現実に誰よりも驚いた伊達幸司は、仏殺しをまともに喰らいながら立っている稔彦が信じられなかった。燕飛(肘)の切っ先は稔彦の喉仏を正確に貫き、そのまま全体重を乗せて前方回転したはずだった。
この様子を仙道の背後から眺めていた神脇が誰にとなく呟いた。
「草薙君、あいでは立っちょっだけできちはずじゃ」
稔彦の様子を確認した主審は、二人を呼び、試合開始線に立たせた。
両拳を顔の脇に添え腰を落として構える伊達。大きく深呼吸すと稔彦は、いきなり両手で頬を叩いて気合を発した。伊達に向かってマットの上を滑るように間合いを詰め、最後の力を振り絞って空中へ跳んだ。左中足で伊達の腹を蹴り、上半身を右へ回転しながら右足刀で伊達の喉元を蹴り込んだ。後方へのけ反る伊達、この時折れた肋の激痛で動きが鈍り、次の隙間、稔彦の足刀が予想以上に伸びて伊達の喉元を貫いた。大きな衝撃を受けた伊達が背中からマットへひっくり返った。
東側の二階席から観戦していた鬼頭三郎の目に、倒れる伊達の動きがスローモーションの映像のように映った。伊達の応援席から悲鳴が聞こえ、身を乗りだした後輩たちの誰もが、目の前に起きた光景を疑った。
マットの上に悶絶した伊達に走り寄った主審がドクターを呼び、間もなくタンカーを伴ったドクターが現れた。顔を押さえながらぐったりする伊達を乗せたタンカーがマットから降りてゆく。その姿を見届けた主審は、稔彦の一本勝ちを宣言した。この時、深く落胆したため息が会場にもれた。
優勝候補の一角が敗れた現実に客席がざわつき、その中でまばらな拍手がマットを降りる稔彦へ送られた。鬼頭は手を叩いて喜び、反対側の二階席では神谷藍が、目に泪を溜めながらほっとした顔で胸をなで下ろしている。大城みゆきは、藍が膝の上に置いた弁当の包みに手を添え、あいつならぜったい大丈夫だからと元気づけた。
試合会場では、二試合目に行われる選手がすでにマットの試合開始線に立ち並んだ。神脇正則は一試合の結果を見届けるとすぐ控え室に戻り、ウオーミングアップを始めた。この時、控え室に御手洗大介の姿はなかった。
二四
試合会場では、準決勝戦の組合せが発表され、参加する四選手が紹介された。仙道はセコンド席からマットの上に立つ稔彦を見上げながら、伊達幸司との試合でかなり身体的なダメージを負っていたから、次の試合では満足に闘えないだろうと思った。
準決勝戦の一試合目は、優勝候補の御手洗大介と土佐の鳴海省吾の試合だ。巨漢御手洗大介の圧倒的な押しの攻めを相手に、中量級の鳴海は持ち前のスピード感を活かした連続技で応戦したが、延長戦で疲れを見せた一瞬の隙に御手洗砲が脇腹に炸裂した。
顔を歪めながら腹を押さえて蹲る鳴海。主審が駆け寄り鳴海に声をかけた。顔を上げた鳴海は一瞬笑顔を見せたが、いきなり吐血して悶絶した。すぐにドクターとタンカーを担いだスタッフがマットへ上がり、鳴海は裏口に控える救急車へ運ばれていった。
二試合目、神脇正則と稔彦が激突した。
神脇は、試合開始早々いきなり後方へ下がって間合いをおき、腰を落として身構えた。驚いた仙道は、神脇が最初から薩摩示現流手刀打ちで勝負をかけるつもりだと思った。神脇の性格を知る仙道は、薩摩示現流同様に竹を縦に割ったような神脇らしいやり方を快く感じていた。
その神脇が動いた。
「キエ―!」
神脇の甲高い叫び声、猿叫が館内を反響してゆく。稔彦はマットの上に右膝をつき、左掌を右拳にあて上半身を右へ回しながら構えた。神脇が走る。
稔彦の手前で跳び上がり、空中で全身を反らせ、戻す反動を利用して手刀に一撃必殺を込め、斬撃を稔彦の右肩へ打ち下ろす。その手刀めがけ立ち上がりながら右肘を突き上げる稔彦。肘と手刀が空中で激突する瞬間、稔彦の肘が僅かに外れ神脇の手刀の根本を直撃した。右手に強烈な痺れと激痛でバランスを崩した神脇は、マットに右膝をついて着地すると左手で右手首を押さえた。
主審が試合を止め、神脇の右手の具合を確かめた。神脇は、右手を押さえたまま立ち上がると、二三度首を横に振りそれから主審に試合棄権を申し出た。
「渾身ん一撃、薩摩示現流ん初太刀が玉砕されてしもてはおいん負けじゃ」
それから稔彦の肩に左手を添え、決勝戦の相手は強敵だから油断するなと話しかけた。
「草薙君、こん次は負けんど。今度は手首も鍛えちょくでね」
そう言い残して神脇はマットから降りていった。稔彦は神脇の背中へ声をかけようとしたが言葉がでなかった。間もなく主審が稔彦の勝ちを宣言すると、すぐに数名の大会スタッフがマットの清掃を始めた。決勝戦が始まる前の余興として、本流派本部道場の少年部の子供たちによる基本稽古や試割りの演武が行われる。
この間稔彦は、仙道と一緒に控え室に戻って行った。
仙道は、少年部の演武が終了するまでの二〇分間、稔彦をできる限り休ませておきたかった。控え室の奥で横になり、しばらく目を閉じて精神を統一している稔彦を眺めながら、いかに人間凶器が武器とはいえ、昨年の覇者御手洗大介の圧倒的な肉量とパワーに押し攻められたら為す術がないと思った。仙道の知る限りでは、決勝戦までの試合で御手洗大介はほぼ無傷だった。初出場、参加者の中で最年少でありながら決勝戦まで勝ち進めたのは奇跡に近かったが、ここまで来たら優勝を目指したい、それには何としてでも御手洗大介の攻略法を見つけておきたかった。
しばらくして控え室の外が騒がしいのが気になり、近くで待機している大会スタッフに様子を訊ねた。スタッフはマイクで表のスタッフと交信すると仙道に対し、マスコミ関係者が大勢外に詰めかけ、一七歳で優勝候補を二人も破り、決勝戦へ進出した稔彦を取材したいと各社の記者たちが集まっていると話した。
仙道は、静かに目を閉じて眠っているような稔彦を見て、スタッフに控え室の中へはぜったいに入れないよう頼んだ。この場に御手洗大介が居ないのは、そうした煩わしさから解放されたいからだろうと思った。もう一度稔彦の寝顔を見たら、左目の眉の上に5cmほどの縫合の疵が残っており、それは昨日の予選二回戦で受けた疵をその場で麻酔なしのまま縫い合わせ痕だった。空手着の胸元からは、試合で受けた打撲で内出血した痕が滲んでいる。仙道は、まだ一七歳の稔彦が愚痴の一言もこぼさず、よくここまで耐え忍んで勝ち上がってきたものだと感心した。
この時、扉の前で待機していたスタッフがやって来て、決勝戦の開始時間が迫っているため試合会場へ向かう準備をするよう言った。仙道はまだ寝入っている稔彦をみて起こそうか迷ったが、それでもあえて声をかけようとした時に稔彦が目をあけてゆっくり起き上がった。
驚いた仙道が稔彦に体調を訊ねたら、ただ笑顔を向けてこう言うのだった。
「最後の試合へ行きましょう」
大会スタッフが先に行き、仙道、稔彦の順で控え室から出ていった。控え室の外にはマスコミの記者が大勢溢れていたが、数名のスタッフが壁を作って花道をあけてくれた。
二五
決勝戦が行われるマットの両端に、御手洗大介と稔彦が相まみえた。優勝を確認したような余裕の笑みを口元に浮かべて立つ御手洗大介の身体から、試合開始と同時にその体力を万全に発揮して押し潰そうとする覇気が溢れている。その荒武者のような佇まいを飄然と見つめる稔彦の脳裏に、鬼神がごとく迫りくる段田剛二の姿が過り、御手洗大介より段田剛二の方が強い、今はその段田剛二に鍛えられたという自信だけが勝機の支えだった。
主審が二人を試合開始線に呼ぶと、それまでざわついていた客席は潮が引くように静まり返り、慌ただしく動き回る審判員たちの様子を覗った。間もなく主審が二人の間に入り、ルールの再確認を行い終えると右手を上げ、試合開始の号令を発した。
「始め!」
体格的に稔彦の一回り以上も大きい御手洗大介が、しゃがみ込むほど腰を低く落として構えた。その姿をみた鬼頭三郎は、巨大な重戦車がそのまま突進してくる光景を思い浮かべた。低い姿勢のまま御手洗大介が間合いを詰めてゆく。稔彦は試合開始線に立ったまま動かない。稔彦との間合いが近づいた瞬間、御手洗大介が突っ込んだ。
左肩からぶつかりながら右拳を頭上から稔彦の左鎖骨へ叩き落した。パワーのみを重視した強烈な下ろし突き。その右拳を素直に立てた右肘ではね返す稔彦。肘と拳が炸裂した瞬間、御手洗のパワーに圧迫されてはね飛ばされた。空中でバランスを崩したが、四股立ちの低い姿勢で尻もちをつかず何とか持ち堪えた。
その稔彦を御手洗大介が追い込む。右拳を振り上げ、稔彦の左肩へ全力で打ち込んだ。
稔彦、今度は右肘を水平に回しながらぶち当てた。右の拳頭と指の第三関節に激痛が走り、御手洗大介の顔が歪んだ。それでも左手で稔彦の奥襟を掴みに入る。後方へのけ反りながら、その指先を裏拳で弾いた。突き指したような痺れと痛みに思わず左手をひらひらさせ、その場から後退する御手洗大介。
今度は稔彦が追いかけ、左膝へ関節蹴りを蹴り込む。咄嗟に左足を上げてブロックすると同じ足で前蹴りを放し、さらに前へ出ようとする稔彦の動きを遠ざけた。
両者の間合いがあき、動きが止まったところで主審が中へ入り、試合を止めた。御手洗大介は主審に右手の負傷を話し、主審がドクターを呼んで治療が始まった。
試合を中腰で見入っていた鬼頭三郎と梶川大悟は、二人して大きなため息をつくと疲れたように再び椅子に尻を落とした。神谷藍は、稔彦に用意した弁当を渡す機会もなく、誰にも何も言えないまま試合の経過を見守っていた。
セコンド席から見守る仙道は、背後からの声で振り向いた。その場に、ぶ厚い包帯を右手に巻いた神脇正則が照れ笑いを浮かべ立っていた。神脇は、右手の負傷で三位決定戦を棄権したと苦笑い浮かべ、自分が体験した稔彦の人間凶器がいかに恐ろしいかを熱弁した。ただ、御手洗は左手でも御手洗砲を打てると言い、難しい顔をみせた。
マット上では御手洗大介の治療が終わり、主審が二人を中央へ呼んだ。試合開始線の上で跳びはねる御手洗大介の様子を確認した後、審判長席に顔を向けて確認すると試合を続行した。
御手洗大介が肩から突っ込んだ。ローキックと左正拳突きの連打しながら身体ごと稔彦を押し込んだ。圧倒的なパワーに押され後退した稔彦が場外へ押し出された。それを見た仙道は、判定で不利になるから左右へ回り込めと叫んだ。
主審は、場外へ出た稔彦を中央へ戻し、再び試合続行を発した瞬間、太鼓が鳴り初戦の三分間が終了した。主審副審の判定の結果は引き分けだった。間もなく主審が二人を呼び寄せ、これから三分間の延長戦を開始することを告げた。
御手洗は突き指した左指を右手で折り畳み、拳を固めいつもより腰を落として構えた。それを見た神脇正則が仙道に、最初から御手洗砲をやる気だと呟いた。
仙道が心配して稔彦を見ると、稔彦の全身から異様な殺気が漂っている。これまでの苛烈な試合で身体中がぼろぼろになっているはずだから、この延長戦の早い時間で勝負を決するつもりでいるのだろうと思った。
主審の合図で、延長戦が始まった。
二六
御手洗大介は、傷ついた右手を差し伸ばして稔彦との間合いをつめ、道着の襟首を引き寄せ懐に潜り込んで左の御手洗砲を打ち込むつもりでいる。
仙道は、稔彦が右回りに逃れて御手洗大介の下半身を狙うだろうと予測したが、次の瞬間稔彦は前へ踏み込んだ。
御手洗大介が右手で稔彦の奥襟を掴んで引き寄せ、身体を左斜めに傾けた。上半身と腰を回しながら左拳を稔彦の右脇腹へ突き上げた。この時、稔彦は右膝を上げ、膝と右肘で御手洗大介の左手首を挟み打ちした。激痛で顔を歪めた御手洗大介がその勢いのまま肩で稔彦を押し倒した。
それを見た副審二名が紅旗を上げ、御手洗に技ありを判定した。主審は二人を試合開始線に立たせ、もう一度副審たちの判定を確認すると、今度は三名が紅旗が上げた。ここで主審は改めて御手洗大介の技ありを宣言した。
客席の応援席から歓声が湧き起こり、その喧騒を背中に浴びながら仙道が主審に、あれは単なる偶発的なトラブルで技ではないと抗議した。主審は一瞬仙道へ顔を向けたが、技ありの判定が覆ることはなかった。
主審は二人を試合開始線に立たせ、延長戦を続行した。両手を負傷した御手洗大介は左右のローキックを繰り出しながら前へ出た。そのローキックの脛を稔彦が同じローキックで蹴り返す。石より硬く鍛えた脛で弾き返された御手洗大介の脛に激痛が走る。その痛みで堪らず両手を腰に当て前屈みになった瞬間、延長戦終了の太鼓が鳴り響いた。
主審が二人を試合開始線に呼び立たせ、判定の結果を告げた。主審の右手が御手洗大介に向かって上がり、その場で御手洗大介の優勝が決定した。
盛大な拍手喝采が会場に湧き上がる中、両手を上げ満面の笑みで応えていた御手洗大介の身体が突然ふるえ始め、崩れ落ちた。マットの中央で身内の優勝を喜んでいた主審が驚いて振り向き駆け寄ると、御手洗大介は両腕を抱きしめながら身体をえび折にして苦しげに悶えていた。慌てた主審がドクターを呼び、大会スタッフにタンカーを持たせたドクターたちと入れ違いに稔彦はマットから降りた。
セコンド席で待機していた仙道は、判定を覆せなかった自分の不甲斐なさを悔やむような苦い顔で、稔彦を迎えた。稔彦は、そんな仙道に穏やかな笑顔を返すと、仙道の背後から神脇正則が照れ笑いを浮かべながら顔を出した。神脇は何も言わず、ただ稔彦の肩を叩いていつもの快楽的な笑顔を浮かべた。
その神脇正則がマット上の異変に気づいて指差した。仙道が顔を向けると、館内が騒然とする中を御手洗大介がタンカーに乗せられマットから運ばれていた。それを見た神脇正則は、伊達君に続いて今度は昨年の覇者がぼろぼろにされたねと言って破顔した。
「草薙君、わいは試合に負けたが勝負に勝ったじゃ」
仙道は神脇正則に礼を述べ、落ち着いたらまた横須賀に顔をだすよう誘い、それから稔彦の肩を押して地下の選手控え室へ向かった。
二人に付き添っている大会スタッフは、三〇分後に表彰式が行われるからまた呼びに来ると言い残してその場を離れた。稔彦は仙道に笑顔を向け、セコンドとしてアドバイスしてくれた二日間の礼を述べた後で、このまま横須賀へ帰りましょうと願った。
驚いた仙道は、間もなく表彰式が始まるからそれが終わるまで待つよう話したが、稔彦は微笑を浮かべ首を横に振った。優勝するため臨んだ大会だが、判定がどうであれ準優勝の表彰台に興味はなかった。それでも手応えは残った。全身の四肢を石より硬く鍛えたことは間違いではなかった。気迫で勝る神脇正則、技の切れでは伊達幸司、パワーの御手洗大介、三人はその一つ一つが自分より勝っていたが、試合で玉砕できた唯一の要因は四肢を鍛えていたからだ。稔彦は、この大会で自分の考えに確証を持てただけで満足だった。
やがて大会スタッフが、控え室の稔彦を呼びに扉を開けたら、中には誰もいなかった。間もなく始まった表彰式では、優勝者御手洗大介、三位以下の神脇正則も伊達幸司も負傷のため不参加となり、表彰台には誰も立たなかった。
競技場の離れの駐車場に停めていた車乗り込もうとした稔彦の背中に、自分の名前を呼ぶ声がして思わず振り向いたら、大きな包みを抱いた神谷藍が小首を傾げて微笑んでいた。その隣で大城みゆきが、怒り顔して睨んでいる。
稔彦が二人を知らない仙道に紹介すると、神谷藍が弁当箱の包みを差し出した。仙道は神谷藍と大城みゆきを後部席に乗せ稔彦と一緒に前席に乗り込み、弁当箱を開けて食べ始めた。
二口噛み締めた稔彦が天を仰いで呟いた。
「うまい」
後送