第5話 ラーメン屋と優しい嘘
彼との夏が終わる。
天岳市立高校の定期テストは午前中だけ実施され、午後は部活動もなく家へ帰される。次の日のテストに備えて生徒が勉強するための半休だ。そのため、その時間に生徒を町中で見かけることはない。
しかし、定期テストの最終日は別である。テスト返却がなければ午前中に解放され、生徒は思い思いに平日の午後を過ごすことになる。僕と白崎もそうで、町中の駅前横丁にまで繰り出して、ラーメンを食べるために来ていた。
「それで、その噂のラーメン屋はどこにあるの?」
「天岳駅前だ。こってりとした豚骨スープが凄く旨いんだぜ。赤城は行ったことないのか?」
「ないよ。ラーメンは嫌いじゃないんだけど、わざわざ一人で食べに行くことはないね」
僕はあまり外食しない。金銭的な問題、というよりも気質に合わないだけだ。昔は母親によくラーメン屋へ連れて行ってもらったが、一人で行けるほど気が強くはなかった。そもそもの話として、最近の僕は麺は麺でもラーメンより蕎麦が好きだ。特に二八蕎麦。いつだったか白崎と風呂へ行った時に食べた二八蕎麦は、とても美味しかった。
僕がその時の鰹出汁に想いを馳せていると、彼は思いっきりの笑顔を見せた。
「なら、俺が誘って正解だったってわけだ。あんなに旨いラーメンを知らずに生きるなんて、人生の半分は損してるからな」
ハードルを上げすぎじゃないだろうか。人生の半分を占めるほど美味しいラーメンとはどんなものなんだろうか、そう僕は思った。いつだったか、彼と共にマジックショーへ行った時、彼はミントソーダを飲み干していた。そんな白崎の味覚は少し信用にならなかった。
僕らが踏切で線路を越えれば、その店はすぐにあった。大通りに面したかなり大規模な店舗で、和風というか古風というか、全体的に漆塗りの木材で建てられている。広い駐車場もあって、同時に五十人とか入店できそうだった。店の名前は『〇源』であった。記号を使っていて、洒落ていると思った。
「面白い名前だろ?」
「〇源は洒落ているね」
白崎は暖簾をくぐり、先に店へ入った。僕も続けて入店を果たすと、豚骨スープの香りが鼻孔をくすぐった。親しみと食欲を掻き立てる匂いだ。天岳市に来てからはラーメン屋に行ったことなどないものだから、とても久しぶりで何もかもが懐かしく感じる。
昼時ではなかったからか、店内は空いていた。僕と白崎は雑談しても迷惑にならないよう、四人掛けの半個室式テーブルに座り、メニューを見る。一番人気の〇源ラーメンに、王道の博多ラーメン、女性人気の白葱ラーメン、男性人気のニンニクラーメン。そして、そのどれもにお得なセットメニューがあった。天津飯をラーメンに付ければ、一般価格から百円引きだ。しかも、学生証を見せれば、さらに五十円引きだ。安い。学生に優しい。とはいえ、僕は運動部でもないし小食だから、セットで頼むことはないだろう。
「で、どれにする?」
「少し待って。ラーメン屋は久しぶりだからね」
「俺も悩んでいるんだよなぁ。いつもならニンニクラーメンを頼むんだが、赤城は気にするだろ?」
気が利くやつだ。そうでもない、と僕は言おうとも考えたが、彼の好意をありがたく受け取ることにした。彼は明るく大雑把な性格に見えるが、実は細かいところまで気配りしている。だから、同級生や後輩に慕われているのだ。
お冷が入ったコップと共に、店員が注文を取りに来た。彼はまだ悩んでいるようだったから、僕から注文しようと思った。
「ご注文は何にしますか?」
「僕はこの白葱ラーメンをお願いします。麺の硬さは柔らかめで、スープは薄めでお願いします」
「……なら、俺は赤唐辛子ラーメン、バリカタの濃いめで」
僕は首を傾げた。そんなラーメンあっただろうか。メニューを見返すと、その一番端にあった。インド産のハバネロを丸ごと使用しているみたいだ。最も辛い新メニューらしいが、そこまで辛いのならば豚骨スープの味などわからないだろう。前のミントソーダの件もあったし、白崎は風変わりなものが好きなのだろうか。
「ご注文を確認します。白葱ラーメン柔麺スープ薄め、赤唐辛子ラーメンバリカタスープ濃いめですね。以上でよろしいでしょうか」
「はい」
繰り返された注文はどこか呪文みたいで、ほとんど聞き取れなかった。滑舌がいい人しか、ラーメン屋の店員は務まりそうになかった。そういえば、白崎はバイトをしているみたいだが、何をしているのかは聞いたことがない。機会があれば尋ねてみよう。そう僕が心に決めた時、白崎が身を乗り出すように言った。
「ところで、赤城は本当にこの店へ来たことがないのか?」
「うん。外食はあんまりしないからね」
「ふうん……このラーメン屋は二年前にできたんだ。市内ではかなり有名で、俺らの高校で一度も行っていないのは赤城だけだと思うぞ。なんでも市中で最も人気な飲食店に選ばれたぐらいだからな」
「へえ、〇源がねえ」
「とはいえ、ラーメンの美味しさだけで市内一位なわけではない。他の飲食店にはない強みがあるんだ。赤城は何だと思う?」
なんだろうか。ラーメンの味ではない。それなら店舗や設備に関することだろう。僕は辺りを見渡した。しかし、ここは隣のテーブルと壁で分け隔たれた半個室タイプで、厨房まで見通せなかった。他の客も鑑みることはできない。
「……わかんないね」
「それだよ。半個室にいるから他の客も店員も見えない。見えないから、気にせずに喋ったり食事に集中できたりする。リラックスできる空間が人気なんだ」
へえ、引っ越してくる前はそんなこと考えてもなかった。僕は素直に感心した。
そんな他愛もない話題に花を咲かせていると、店員が盆にラーメンの器を二つ載せて来た。よくもバランスが崩れないものだと思った。
「お先に赤唐辛子ラーメンバリカタスープ濃いめのお客様」
「はい……うげぇ」
目の前に器を置かれた白崎は、腹の底から形容しがたい声を出した。それも無理はない。赤い、そんな感想が浮かぶ。僕の語彙では言い表せないほど赤いスープに、これでもかと赤唐辛子がトッピングされている。僕の対面へ置かれたはずなのに、刺激的な匂い、というか臭いが鼻につく。もはやラーメンでさえない。まるで地獄だ。地獄が地上にあれば、こんなものになるだろうと思った。
珍味好きな白崎でさえ引くのだから、こんなもの誰が頼むのだろう。絶対にネタ商品だ。メニューに小さい文字で〇源天岳市店限定ラーメン、食べきれない場合は別途五百円を回収しますと書いていた。限定ラーメンなら僕が知らないのは当り前だ。
「では、白葱ラーメン柔麺スープ薄めのお客様」
「はい」
僕の前に器が置かれる。こちらは白葱がトッピングとして山盛りされているのを除けば、いたって普通だ。白崎が少し涙目でこちらを羨ましそうに見て来た。自業自得だ。僕は絶対に交換しないからな。僕のそんな心の声が聞こえたのか、白崎は咳ばらいをした。
「ごほん……では、食べようか」
「うん、いただきます」
僕は箸を取り、麺を持ち上げた。つややかで、豚骨スープが染み込んだようないい色だ。匂いの方は、白崎の方から漂ってくるスパイシーな刺激臭でよくわからなかった。口内に含む。ずずっと飲み込んだ。やはり豚骨スープが麺にしっかりと絡まっていて美味しいし、しっかりとした喉越しが丁度いい。懐かしさを感じさせる味だ。次はスープをレンゲで掬い、一緒に食べてみた。美味しいし、あったまる。白葱をスープに浸しても美味しい。
喉が脂っぽくなってきたと思えば、お冷で洗い流すのだ。僕は昔からこの温度変化がさっぱりして好きだった。卓上の黒コショウを少し掛けてみる。こうすることで、この店のラーメンは一段と味のレベルが上がる。より纏まりが出て、アクセントにもなる。やはり美味い。ここの店舗を教えてくれた白崎には感謝しなければ。
かつんと箸が器の底を叩いた。いつの間にか、完食したらしかった。美味しすぎて夢中で食べていたのだ。お冷を飲んで、ほっと一息付いた。
白崎の方を見ると、彼はまだ赤唐辛子ラーメンに苦戦していたようだった。顔中から汗水垂らして、はふはふ言いながら食べている。可哀そうだが、まだ三割ほど残っていた。早く食べ終わった僕へ恨めしそうな眼を向けていた。
うん、まだ十分ほどは食べ終わりそうにないな。僕はそう判断して、鋭い視線から逃れるように、そそくさトイレへ向かった。
そのトイレは新店舗らしく、とても綺麗だった。木目調のタイルが敷き詰められていて、さながら和のトイレだ。ただそこには場に相応しくない注意書きが貼ってあった。洗面台のところだ。
『この水は飲めます。〇源天岳市店』
こんな注意書きがあるのは初めて見た。白崎がこれを見たのなら、推理ゲームを始めそうだ。けれど、この注意書きに謎なんてない。ただ単に水が飲めることを主張しているだけだ。きっと白崎のように、あの辛そうな赤唐辛子ラーメンを頼んだ人用なのだろう。まあ、水道水だから飲めるのは当り前だが、トイレの蛇口から水を飲む人なんているのだろうか。
そんなことを考えながら僕が席に戻ると、白崎は口元を真っ赤に腫れさせながらも、なんとか赤唐辛子ラーメンを食べきったようだった。彼は学生鞄からハンカチを取り出し、顔中に滲み出していた大量の汗を拭った。半袖シャツの第二ボタンまで開放していて、とてもだらしなかった。
「おつかれさま」
僕が声を掛けると、彼は彼に似合わない覇気のない眼で僕を見た。
「……ああ、本当に疲れたぜ。割と辛い物好きだけれど、もう絶対に頼まない。次は無難なニンニクラーメンとさせてもらうぞ。異論は認めない」
少しだけ元気が出てきたみたいだ。白崎は水差しからお冷をコップに入れ、ぐびっと飲み込んだ。そして、思い出したかのように言った。
「そういえば、お前がトイレ行っている間に考えていたんだが……」
「うん?」
「赤城って、やはり以前にこの店へ来ているだろ」
空気が変わった。
鋭い疑問だ。どうして、そう感じたのだろうか。
「……ううん、一度も来ていないよ。何でそう思ったの?」
僕は愛想笑いをしながら問い掛ける。
「まず一点目だ。この店の名前は〇源。記号を使っていて特殊だから、初見だと読めないはずだ。俺でさえ無理だったのに、赤城は普通に読めた」
なるほど。確かに、〇源という店名に小説のようなルビは振られていない。だから、初見で読めないだろうという彼の意見は僕も同意する。だけれど、それだけだと反論ができてしまう。
「それで来たことがあるとはならないよ。どこかで店名を聞いたことがあるだけかもしれないし」
「そうだな……けど、他にも可笑しな点があるんだ。二点目。赤城は白葱ラーメン柔麺スープ薄めを頼んだ。なぜそんな頼み方を知っているのかだ。普通の店だと、麺の硬さは要求できてもスープの濃さなんて要求できないだろ。俺が知っているのは、ここ〇源だけだ。メニューにも載っていないから、そんな頼み方は何度も通い詰めた者しか知らない。お前はそれを普通に頼んだ」
彼は本格的に疑っているようだ。僕は彼の疑いを晴らすために、またもや反論する。
「僕は天下の台所である大阪出身だよ。そこだとスープの濃さを変えれる店なんて多かった」
嘘じゃない。だけれど、なぜ〇源でも濃さが変えれると知っているのか、その疑問には答えられないと自分でも思った。しかし、彼はその矛盾に気付かなかったようだ。危なかった。僕がほっと安堵すると、彼は言葉を続けた。
「三点目だ。この店内はラーメン屋として少し珍しい内装をしている」
彼は辺りを見渡した。カウンターといくらかの四人掛けの半個室テーブル。思い返せば、確かに珍しい内装だ。テーブル間は壁で隔たれていて、半個室になっている。とはいえ、何が疑問なのだろう。僕が頭を捻っていると、彼は言った。
「このように店内は壁が多いから見通しが悪い。なのに、赤城は迷わずトイレへ向かった。これも初見では難しいだろう。以上の三点から導かれる結論は、赤城は以前に来たことがあるということだ」
僕はすぐさま否定しようとしたのだが、彼はまだ流れるように言葉を続ける。
「なら、なぜ赤城は初めてと嘘を付いたのか。簡単だ、俺の面子を壊さないようにするためだろう? いつだったか、飲料代を立て替えてくれたように赤城は優しい。だから、新しい店を紹介すると張り切っていた、そんな俺を気遣って、優しい嘘を付いたんだろ。あれだ、いもしないサンタクロースを演じてくれた父親みたいな優しい嘘だ。けれどさ、俺とお前の仲だろ。お前は俺に気遣わなくていい、嘘なんて付かなくていいからな」
息継ぎもせずに言い切った彼は、最後の台詞を発した。
「まあ、真実は闇の中だがな」
先日、彼が言いたいと述べていた決め台詞だ。とはいえ、彼はその用法を間違っていた。僕がその言葉を発したのは無意識だったけれど、どれも言葉通りの意味があった状況だ。バス停での一件では文庫本の持ち主なんて確かめようがなかったし、温泉でのメッセージも結局のところ本当の意味なんてわからない。小銭不足の件だってそうだ。実際に両替でそうなったのか店主以外にわからない。だから、真実は闇の中。でも、ここに本人である僕がいるなら、彼の決め台詞はどこか可笑しかった。
そんなことよりも、彼はもっと大きな間違いを犯していた。
「違うよ、違うんだ。その推理は間違っているよ、白崎くん」
彼はわからない、といった顔を見せた。僕は溜息と共に真実を言う。
「〇源はね、全国チェーン店なんだ。僕の地元にもあった」
「…………まさか!」
そうなのだ。名前を読めたのも、特殊なメニューの頼み方ができたのも、トイレの場所がすぐに予測できたのも、どれも〇源の他店舗へ行ったことがあるからだ。でも、僕はこの町に新店舗ができたことを知らなかったのだから、この店へ来たことがないというのは事実。しかも、白崎に連れられて来て初めて、僕は〇源の天岳市進出を知ったのだ。だから、残念ながら白崎の面子を壊さないように気遣ったわけでもなく、初めてと嘘を付いたわけでもない。
僕がその事実を伝えると、彼は目に見えて狼狽えた。
「そ、そうか、俺が間違っていたのか……」
「そうだね」
「俺は負けたのか……」
いったい何に負けたのだろうか。彼はとても悔しそうだった。
それを見て、僕ははっと思った。僕は間違えてしまった。僕は少しも優しくなかった。もし優しいのなら、彼の推理を全て肯定するべきだった。優しい嘘を付くべきだった。そうすれば彼はきっと笑顔を見せただろうに。僕はやはり優しくなかった。僕は彼が描く優しい僕とは違うのだった。
「……じゃあ、会計に行こうか」
「うん」
僕は小さく頷いた。
後悔の風が僕を蝕んだのは、夏の終わりを感じさせたある昼下がりのことだった。