第2話 温泉と残されたメッセージ
彼と僕は真反対の性格をしていた。
天岳市は天候が移ろいやすい。朝のニュースでは晴れと予報されていても、よく雨になったりする。よく雨になったりするから、夏場はじめじめとしている。湿度が高いのだ。
そのじめじめが嫌いであった僕は、白崎に連れられて市内の温泉へ来ていた。
「どうだ?」
「凄い……本当に、凄いよ」
「そうだろ、この町の自慢さ」
そう彼が言うのも無理はなかった。それは僕の故郷でも見たことがないほど、広大な施設だったのだから。大本としては観光ホテルで、それに天然温泉が備え付いていて、日帰り入浴も可能。他にもカラオケ施設やジムだってあるようだ。都会でいうところの、大規模レジャー施設であった。
存在としてはこの町へ来る前から知っていたが、見るのはこれが初めてだった。まさに百聞は一見に如かず。僕は頓狂な顔をやめられなかった。
最も驚いたのは、更衣室で浴衣のような館内着に着替え、財布も含めた荷物を全て預けたことだ。代わりに、リストバンドを携帯するらしい。これは館内の決済時に使うもので、財布を持ち歩かなくてもいいみたいだった。この施設にいる間は外界のことを考えさせない、という施設の粋な計らいだ。千葉にある某テーマパークと一緒の思想である。
いや、あながちテーマパークと違わなかった。浴衣姿の僕と白崎を迎えたのは、江戸の町並みだった。古めかしい建物が並び、道路には人力車が走っている。横道は小粋な石畳で、所々にある井戸では水分補給ができるようだ。香ばしい匂いが漂ってきたので、そちらを見ると、『二八蕎麦五百円』と書かれた屋台があった。二八とは、つなぎ粉と蕎麦粉の割合が二対八であることを由来としている。現代要素を徹底的に排除していて、本当に江戸へ迷い込んだみたいだった。
「空を見てみろ」
「そら?」
「天井が低いだろ?」
確かに、白崎が言う通り、青く塗られていても天井がそこにあるのがわかった。思っていたより高さはない。白崎はこの上に温泉以外の施設があるんだぜ、と言った。ホテルやジムなどのことだ。なるほど、それは江戸の町並みに似合わない。別階層にするのは正しいのだろう。
「とりあえず、温泉はこっちだぜ。散歩は後にしよう」
「……あ、ああ」
僕は茫然としたまま、彼の背中を追いかける。江戸の町並みの一角にその温泉施設はあった。脱衣所に入る。今回は学校の創立記念日、つまり本来の平日に来たため、それなりに空いていた。
僕と白崎は浴衣を脱いで、ロッカーの中に放り込んだ。身に付けているものは何もない。いや、リストバンドがあった。僕はロッカーの中に入れるかどうか悩んだ。湯舟で落としたら、探し出すには苦労するだろうし、罰金もあるだろうから。幸いロッカーの中には、リストバンドのような小物を置く場所があった。僕はそこにリストバンドを置くと、タオルだけ持ってロッカーを閉めた。代わりにその鍵だけ右腕に付けて、温泉へ向かう。出入口の扉を開くと、むわっとした熱気が頬を撫でる。湯気に包まれた温泉が眼前に広がった。
またしても、僕は驚嘆することとなった。凄く広い。何種類もの湯舟がある。普通の湯舟に、高所から温泉が叩き付けられる滝湯に、ジェットバスさえ。あちらにある扉は露天風呂へ続いているのだろう。
白崎は先に湯舟へ浸かっていた。僕は全身に掛湯だけして、彼の隣に入り込んだ。温かい。ほっと息を吐いた。身体中の筋肉が弛緩する。湯の温度は三九度ほどか。僕の家と同じ温度だ。ほのかにヒノキの優しい匂いがする。ヒノキは確か細菌の繁殖防止効果や抗酸化作用があるから、浴槽にしても腐りにくいのだ。でも、そんな理由よりも、このヒノキの香りが心安らぐから浴槽にするのだろう。普段の悩みとか全てを忘れて、僕は湯に心身ともに預けた。
そんな時だった。彼の声が響く。
「ここの温泉は二枚の大陸プレートが生み出したんだぜ。海側のプレートが海水を引きずり込んで、高圧力に耐えかねた源泉が大陸側のプレートを突き破ってくるんだ。もともとが海水だから、ここの温泉は塩分濃度が凄く高い」
「へえ」
「といっても、これだけ広い湯舟を満たすほどの温泉は湧き出ないからさ、一部は薄めているんだ。上階のホテルだと宿泊客専用の源泉掛流しの温泉があるみたいだぞ」
薄まった温泉でさえこの心地よさなら、その源泉掛流しという温泉はどれほどのものだろうか。無性に僕は気になった。とはいえ、体験することはないだろう。同じ町のホテルに泊まろうとは流石に考えられないのだから。
とりとめのない考えを僕が浮かべていると、彼は予想もしなかった話題を出した。
「ところで、さっきの紙だが……」
「紙?」
「七二番のロッカーに貼られていただろ?」
「…………見ていないよ」
僕は横を向いた。立ち込める湯気の先に、白崎が僕と同じ姿勢で湯に身体を預けていた。
彼によると、七二番のロッカーに紙が貼られていたらしい。赤い文字で内容を強調するように、メッセージが書かれていたようだ。内容はこのようだ。
『七二番のロッカーをご使用のお客様
お話ししたいことがございます。
お湯から上がり次第、
外の窓口にまでお越しください。 』
僕と彼は同じように行動していたはずだが、僕はそのメッセージに気付かなかった。あの時も一緒だった。僕は彼よりも早く雨宿りをしていたはずなのに、バス停に落ちていた本に気付かなかった。そして前回と今回の流れが同じなら、彼が次に言う言葉は簡単に推測できた。
「なあ、赤城。前みたいに推理してみないか? このメッセージの目的とかさ」
「僕はいいよ」
「んじゃ俺からな。俺はロッカーを使用している人に用事があると思ったんだ」
その僕の言葉は、否定の意味だった。だが、彼は肯定の意味で捉えたようだった。仕方ない。諦めて今回も推理ゲームに付き合うこととした。
彼は事前に推理していたみたいだった。立て板に水のごとく、彼は言葉を続ける。
「例えばさ、時々こんな放送があるだろ。『お車ナンバー1729でのお越しのお客様。急遽お伝えしたいことがございますので、受付窓口までお越しください』とかさ」
僕もその放送は聞いたことがある。だいたいの場合、車のハザードランプが付いたままなのだ。もし付いたままだとバッテリーの電力が切れてしまい、エンジンが掛からなくなる可能性がある。
「今回も同じことなんじゃないのか。その人に何か用事があって」
「……それは違うんじゃないかな」
僕もその線は考えたが、反論した。理屈に合わない。
「その放送だと、車のナンバーが一致するその個人に用事があるよね。でも、ロッカーのメッセージは相手に用事があるとは思えない。だって、そのロッカーを使用している以外に、個人を特定する要素がないのだから。車はみんな違っても、ロッカーはどこを使っても同じでしょ?」
説明があやふやだが、白崎には伝わったようだ。
「じゃあさ、例えば、ロッカーの中で電話が鳴っていたりさ」
「それだけでスタッフが張り紙をする理由にはならないよ。そもそも電話が鳴っている瞬間にスタッフが居合わせなければならないし。今は着信履歴だってあるんだからさ」
彼はんーと頭を捻って考えていたが、わからなかったみたいだ。万策尽きたといった表情で僕を見た。白崎は僕に推理を促すだろう。だから、既に可能性が高い推測を完成させていた。
「…………俺には何もわかんねえ。次はお前の番だぜ」
僕は頷く。身体を起こし、湯船の淵に腰掛ける。火照った身体から、湯気が立ち昇った。このまま浸かっていたら、他の温泉へ行く前にのぼせてしまいそうだった。対して彼はまだ浸かるみたいだ。僕もそれなりに長湯が好きだったけれど、彼には勝てそうになかった。
僕は推理を語り始める。今回の謎は連想していけば、すぐに答えへ辿り着く。
スタッフはロッカーを使用している人に用事があるわけではない。ロッカー自体に用事があるのだ。そう考えると、メッセージの『お湯から上がり次第』という言葉は『ロッカーの使用を終え次第』と言い換えることができる。つまり、そこを使用している人がいたら、解決できない。それはなぜか。鍵が掛かっているからだ。では、鍵が掛かっていれば、解決できない用事は。
「あっ、そうか。前の使用者がロッカーに忘れ物をしたんだ。それなら今の使用者が鍵を掛けているから、忘れ物を取り出すことができない。だから、使用を終えたら来るようにと、メッセージを残したんだ」
そこまでは合っている。ただ、もう少しだけ考えなければならない。なぜ、忘れ物に気付かなかったのか。僕がそう言うと、彼はうんうんと頷いた。
「確かにそうだな。前の使用者も今の使用者も忘れ物に気付かなかった。どちらも馬鹿だな」
その通り。忘れ物をしたのはまだ理解できる。けれども、他人の忘れ物があるにも関わらず、それに気付かずロッカーを使用するのは、両目が節穴だとしか思えない。しかし、それも仕方ないとしたら。例えば、小さい物だったら、どちらも忘れ物に気付きにくい。
「小さい物って、俺ら荷物を全て更衣室で預けただろ。ロッカーに忘れるようなものなんて、浴衣と携帯電話ぐらいしかないぞ」
白崎はわかっていなかった。
僕はロッカーに、加えてあるものを入れた。館内の決済時に使うためのリストバンドだ。ロッカーの中には、そんな小物を置くための場所があった。そこに僕はリストバンドを入れてきたのだ。もし七二番のロッカーを前に使用していた者が同じことをしていたら、見落として忘れやすいだろうし、今の利用者も気付かないだろう。まあ、他にも眼鏡だったりの可能性はあるだろうが、おおまかにはこれが僕の推論だ。
「……凄えよ、どこにも反論できない。理に適っている。やっぱり赤城は凄い、名探偵にもなれるな」
「ありがとう。でもね……」
僕は言う。
「でもね、これはただの推理だよ。真実は闇の中なんだ。確かめようがないし、確かめたいとも思わない。真実は闇の中なんだよ」
前回と一緒だ。僕は推理をするだけで、それは意味のない行為である。けれども、白崎には違ったようだ。
「事実がどうであれ、俺は凄いと思ったんだ。それが事実で真実なんだぜ、赤城」
少し面映ゆかった。僕がなんと返事をしようか考えていると、彼はいきなり湯の中から立ち上がった。ざばりと小波が広がる。彼は間延びした口調で言った。
「熱い。完全にのぼせてしまったぜ。他の湯にも浸かりたかったが、上がらせてくれ。でなければ、ユデダコになっちまう」
「じゃあ、散歩しようよ。ここはかなり広いみたいだね。案内してよ」
「ああ」
彼はずっと湯に浸かっていたけれど、湯舟の淵に腰掛けていた僕は少し肌寒く、くしゅんと鼻を鳴らしたのだった。