第1話 バス停と持ち主不明の本
彼と出会ったのは、雨宿りをしていた時だった。
天岳市は天候が移ろいやすい。朝のニュースでは晴れと予報されていても、よく雨になったりする。だから、市中の住民はどこかへ行くとき、必ず折り畳み傘を携帯するのだ。
しかし、その日の僕は傘を持っていなかった。つい昨日、委員会の後輩に貸したままで、返してもらうのを忘れたからだった。
雨が降った。空には雲なんてないのに。狐の嫁入りというやつである。僕は帰宅路の途中にあるバス停へ駆け込んだ。制服を着たままであるから、僕は濡れるのが嫌だった。生乾きの何とも言えない臭いは嫌だった。バス停には屋根があるおかげで、雨宿りにちょうどいい。
僕はこの町へ高校入学と共に引越っして来た。まだ一年半ほどしか住んでいないが、経験則から長雨だと思った。やることがないから、学生鞄から文庫本を取り出して読み始める。ここは廃線されたバス停だから、邪魔する者は誰もいないと思った。
雨は心地よい。連続する自然音は脳波にいいと聞く。それが眉唾物だとしても、しんみりとした気持ちで読書ができる。どこかに風鈴があるのか、時折りんりんと軽やかな音も聞こえる。
読書をしながら、混ざり合う音色に耳を傾けていたからか。その足音に気付いて、僕は顔を上げた。
「おっ、先客か」
そう言いながら入ってきた彼は、僕と同じ高校の制服を着ていた。雨除けとして頭上に乗せていたタオルを、彼は絞った。彼の顔が露わになった。見覚えがある。でも、どこで見たのか思い出せない。僕が彼の名前を捻り出すよりも早く、彼は僕を思い出したようだった。
「お前、赤城だよな? ……やっぱりそうだ、図書委員の赤城だ」
「そうだけど、君は?」
僕が尋ねると、彼は心外といった顔をした。
「お前と同じ学年で同じ図書委員だよ。名前は白崎洋祐。何度か委員の当番でペア組んだろ、もう忘れたのか?」
「ああ、白崎くんだね」
僕はあまり他の生徒と話さない。この町には、中学校も高校もそれぞれ一校ずつしかない。彼らは全員が顔見知りで、途中から転校してきた僕は馴染みにくかった。だから、休み時間は自分の机で読書をしているのが、ほとんどだった。
とはいえ、図書委員としての交流はあった。彼と話すのは少なかったが、ペアとしての行動は何度か共にした。彼は接客で、僕が本の貸出管理。本の裏表紙に貼ってあるバーコードを読み込んで、貸出状況をパソコンに記録するのだ。
「……そういえば、赤城の好きなジャンルは?」
話題がなかったのか、彼はそう聞いてきた。自分から話し掛けたのだから、自分から話題を提供しなければ、とでも律儀に考えているのだろうか。でも、僕には共有できる話題なんてなかったのだから、ありがたかった。
僕は文庫本を閉じながら答えた。
「推理小説。そういう白崎くんは?」
「俺はあんまり本とか読まないからな。図書委員になったのも、それしか選択肢が残されていなかっただけだし」
何だよそれ、そう僕は思ったが、声にはしなかった。
といいながらも、彼は与えられた仕事は必ずこなすタイプだ。図書委員として本の入れ替えや、表紙の補修も真面目にやる。彼に悪い印象は抱かなかった。
彼は言い訳するように続けた。
「まあ、本が嫌いなわけではないが、本を読む習慣がなかっただけだ。この町の図書館は俺が生まれる前に閉館したみたいだし、小中学校の図書室は貸出カードってのを採用していて恥ずかしかったしな」
「貸出カード?」
「赤城は転校生だもんな、知らないよな。本の裏扉にカードが入っていて、借りる時に自分の名前を書いてから提出するんだ。だから、その本を前に借りた人の名前が他人に筒抜けで、俺は恥ずかしかったんだ。男のくせに、料理本を読んでいるんだぜ」
彼は妹の弁当を作る必要があったから、と笑った。意外な一面もあるもんだ。
それにしても図書カードか。僕は一度も触ったことがないけれども、考えられたものだと思った。
「それにしたら、俺たちの高校は偉大だよ。本の裏側に貼ってあるバーコードを読み込めば、パソコンが勝手に管理してくれるんだぜ。…………あれ、じゃあ、赤城が前にいた学校だとどうしていたんだ?」
「僕? 僕がいた小中学校では、本に金属の識別チップを入れていたよ。だから、本を持ったまま図書室から出ると、勝手に貸出記録が付くんだ。返す時も一緒だね」
「くー、やっぱ田舎とは違うなあ。時代の進歩に追いつけないぜ」
彼はなんだか悔しそうだ。
しかし、彼が言うほど天岳市は田舎ではないと思う。少し過疎化の傾向はあるが、大きなホテルもあって観光客は絶えない。どちらかといえば、都会寄りの田舎といったところか。
僕がそんなことを考えていると、彼は何かに気付いたようだった。
「ところでさ、……そこに落ちている本は赤城のものか?」
彼の目線を辿る。言われて初めて知った。確かに、そこにはブックカバーの掛かった本が落ちていた。僕は彼が来る前からバス停にいたはずだが、眼中にも入っていなかった。
僕は地面から本を拾い上げて、付着していた土汚れを払った。
「傷んでいないな」
彼の言う通り、その本は数日以内に落とされたようだった。ブックカバーは僅かな土汚れがあるにしても綺麗で、雨にも濡れた跡がなかった。本の題名はわからない。裏返しても、所有者の名前も何もそこには書いていなかった。
僕はブックカバーを外した。どうやらこれは店で貰えるものではなくて、自前のクラフト紙を折って造られたもののようだ。クラフト紙を再利用した手造りだから原価無料で環境にもいい。本好きの僕も同じことをするから、よくわかる。表面に傷が付かないよう大切にしているのが鑑みられて、この本の持ち主へ好感が湧いた。
「あっ、見ろよこの本。最近出版されたばっかの人気作じゃねえか。俺が図書室に入庫したから覚えてるぜ」
なるほど、僕も名前を知っている推理小説だった。いつか読みたいと思っていたのだけれど、誰かが借りているのか図書室にはずっとなかった。だから、この町には図書館がないのもあって、本屋で買うしかなかった。しかし、この本は堅表紙でもないのに、値段は千円を超える。購入するには躊躇していたのだ。
僕が一通り見ると、彼は尋ねてきた。
「何かわかったか?」
「名前も書いていない。このまま置いておくよ」
警察に届ける案もあったが、僕は放置を選んだ。交番はここから町の反対側で、いささか遠い。それに、ここで放置していた方が、持ち主へ戻る可能性が高いと思ったからだ。
僕がその本にブックカバーを掛け直してベンチの片隅に置こうとしたら、彼は気迷ったのか、面白いことを言った。
「なあ、赤城。お前、推理小説が好きなジャンルって言ったろ? この本の持ち主とか推理してみないか?」
「はあ?」
「いや、俺もお前も暇だろ。雨が止むまで推理してみようぜ」
とても面倒くさい。僕は推理小説が好きだが、自分で推理なんてしたことがない。そもそも小説と現実は違うのだ。そんな簡単に推理できるはずがないだろう。そこのところを彼はわかっていなかった。
だから、僕は遠回しに断ろうとした。
「僕は小説を持ってきているから、あまり暇じゃないかな」
「俺が暇なの。ということで、発案者である俺から始めるよ。その本、貸せよ」
何かが彼の心に火を付けたようだった。僕から本を受け取ると、ブックカバーを剥がし、まじまじと顔へ近付けて眺めたり、においを確かめたりしていた。
僕は諦めて彼の行動に付き合うことにした。推理できてもできなくても、あまり僕には関係ないのだから。それに、彼と二人きりの状態で、僕だけ読書するのは耐えられなかった。
彼はきっかり三十秒ほど観察してから、こちらを向いた。
「何かわかったの?」
僕が問いかけると、彼は毅然とした態度で言った。
「何もわかんねぇ。お前の番だぜ」
笑えない冗談だ。彼から始めた物語なのに。
僕は乗り気ではなかったけれど、差し出された本の観察を始めた。そもそも、本の持ち主を推理するなんて不可能だ。天岳市の人口は五万人を超えているのだから。適当な推理でも聞かせてやれば、彼も納得するだろう。そう考えながら、裏返したり触ったりして、どこかにあるかもしれない手掛かりを探す。
すると、ざらりとした感触が掌に伝わった。裏表紙の表面である。見た目では把握しづらいが、触ると僅かに感触が違うのだ。範囲は縦三センチ横五センチ程度か。なぜか完璧な長方形で、本の下側だけにある。まさに貼り付いていたテープを無理やり剥がしたかのような。
ということは、この本の持ち主は。推理なんてするつもりなかったのに、その持ち主の人物像が心中に浮かび上がった。
「おっ、何か気付いたって顔だな」
どうやら顔に出ていたようだ。少し不服だが、僕は頷いた。
「うん、嫌な推理になるけどね」
「教えてくれ」
僕の推測だけれど、と前置きしてから話始める。彼は素直に聞く姿勢だ。
まず最初に、このブックカバーだ。これは自前のクラフト紙を折った手造りである。普通なら本屋で文庫本を一冊買うごとに、一枚のブックカバーが貰えるはずだ。それなのに、なぜそれを使わずに、わざわざ手造りなのか。
彼は悩んだ素振りをして、言った。
「知らねぇけどよ、ウェブショップで購入した時ってブックカバーが付かなかったよな」
まあ、その線もあるかもしれない。他にも、店で貰えるブックカバーを使うのが、ただ単に恥ずかしかったり。
しかし、実はもっと嫌な理由だ。僕は唇を舌で濡らした。水筒を取り出して水分補給したかった。
僕が推理した内容は、こうだ。この本の持ち主が、最初の持ち主ではないということだ。もっと限定すると、僕たちの高校の図書室にあったものである可能性が出てくる。
「ん、急に話が理解できなくなった……ぞ?」
そう推測できる理由は、この一点。本の裏表紙に僅かな破れがあることだ。
僕は彼に本を渡す。彼は指定された箇所を触った。
「どういうことだ? …………いや、まさか!?」
そのまさかだ。
彼が言っていた先ほどの言葉を思い出せばいい。この町には図書館がなく、小中学校では貸出カードというものを採用していると。対して、僕らの高校では、本の裏側にバーコードを貼っている。それに加えて、この本の裏表紙には、まるで貼り付いていたテープを無理やり剥がしたかのような跡。
ここから推理できるのは、僕らの図書室に入庫した本を無断で持ち出し、誰かが私物化したのだということだ。そう考えると、ブックカバーを掛けているのは、表面に傷が付かないようにするためではなく、その逆。バーコードを剥がした跡を隠すためなのだ。
「……なるほどな、理に適っている。それで、赤城はどうするつもりなんだ?」
「どうもこうも、始めから放置するつもりだったよ。理屈が通っていても、事実がそうだとは限らないから。真実は闇の中ってね」
僕が茶化して言えば、彼は凄い凄いと捲し立てた。
「本当に凄いよ、たったこれだけの手掛かりで推理できるなんて。推理小説が好きだからか、それとも頭がいいからか。どちらにせよ、俺には真似できねぇ……」
彼は感慨に耽るように少し黙り込むと、うんと頷いた。そして、なぜか右手を突き出してきた。
「なあ、赤城。俺と友達になってくれよ。お前のような友達がいれば、毎日が刺激的だと思うんだ」
「……僕と?」
「ああ。どうせ赤城は友達が少ないんだろ」
図星だ。いつも自分の殻に閉じこもって新しい交流をしようとしないのが、僕の悪い癖なのだ。これはいい機会なのだ。ここで彼の掌を握れば、僕は僕を変えられるのだろうか。
僕は一瞬だけ躊躇った後、同じく右手を差し出した。
「…………よろしく」
「おうっ、よろしくな!」
それは狐の嫁入りが終わり、傘も雨宿りも必要なくなる時のことだった。