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「さあ、その牙でその爪でその力で、こいつらを切り裂き引き裂き叩いて潰して、原形を留めないグチャドロの生ゴミにしてやれ!」
頭はクリスとラディアナを指さして高らかに命令した。
が、ドラゴンは一歩も動かない。首だけを少し動かして、頭を見下ろした。
「な、なんだ、おい? 俺はお前を解放してやった、お前のご主人様だぞ? さっさと俺の命令に従って、こいつらを……うおっ!」
振り下ろされてきたドラゴンの足の裏を、頭は辛うじてかわした。一瞬前まで彼が立っていた地面は今、ドラゴンの足の形に窪んでしまっている。もし今、かわすのが遅れていたら、それこそ人間の原形を留めないグチャドロの生ゴミにされていただろう。
低く唸って、ドラゴンは再び足を上げる。
「ひっ……こ、こ、ここここの野郎っ!」
頭は腰に差していた手斧を引き抜くと、上げられていない方の足首に斬りつけた。木こりが大木を伐るが如く、フルスイングで腰を入れて何度も何度も狂ったように、というか実際恐怖で狂って、斧の刃を叩き込みまくった。
が、生物らしい湿り気と非生物的な光沢をもつ、ドラゴンの硬質な鱗には傷一つつかない。
涙目で斧を振るい続ける頭に、ドラゴンの足が振り下ろされて……ずしん、と踏み潰された。
そしてドラゴンは、何事もなかったように、クリスとラディアナの方へと向き直る。ラディアナはフンと鼻を鳴らして応じようとしたが、
「逃げてっ!」
クリスが前に出た。が、ドラゴンの尾の横殴りを受けて軽く吹っ飛ばされる。直立状態で宙をぐるぐる転がって転がって、山賊たちが積み上げていたお宝の山の中に突っ込んだ。
何やってんのよ、とラディアナが呆れてドラゴンに対峙しようとしたが、
「ここは僕が引き受けるっ!」
クリスはくじけず立ち上がり、貴金属や食べ物などを体に絡みつかせながら再びドラゴンに向かっていった。が、今度は前足で蹴り上げられ、バネ仕掛けのおもちゃのように高く高く上空を舞って……ラディアナのそばに落下。華麗に着地できるはずもなく、思いっきり大の字になって地面に叩きつけられた。
それでもクリスは根性でまた立ち上がり、
「さあ! 今の内に早くここから、」
「はいはいはいはい」
ラディアナは片手でクリスを持ち上げて、地面に半ば埋まって傾いている檻車に近づいた。空いている方の手でまた鉄格子をくにゃっと曲げると、そこからクリスを放り込む。そして、すぐまたくにゃっと、鉄格子を直してしまった。
跳ね起きたクリスが鉄格子に取り付くが、どうあがいても曲がらない、開けられない。本来の出入り口である錠の部分と、最初にラディアナと一緒に檻を出た部分は土中に沈んでいる。もはや、クリスには何もできない。完全に閉じ込められてしまった。
「ラ、ラディアナっ! どうしてこんなことを!」
「どうしてもこうしても、あんたのヘタレっぷりが見てられないからよ。あたしの目の前で、こんなザコに叩き殺されでもしたら気分悪いわ。とにかく、そこで大人しくしてて。こいつを片付けた後で出してあげるから」
「無茶だ! いくら君が力持ちでも、ドラゴン相手に素手で一人で勝てるはずがない!」
そのクリスの言葉に、ラディアナはニヤリと笑って答えた。
「ふふ。まあ人間ならそうでしょうね。ドラゴン相手に素手で一人で勝てっこない。けど、あたしは違う。こんな奴、手も足も使わずに追っ払えるわ」
ラディアナがドラゴンに向き直る。そして、少し横にそれた角度で上を向き、目だけドラゴンに向けて言った。
「あたし、必要以上に弱い者いじめをする気はないから。あんたもドラゴンなら、これさえ見れば解るはずよ。あたしとの格の差がね。追いはしないから、さっさと逃げちゃいなさい」
少し唇を突き出した形で口を丸く開けて、ラディアナは大きく息を吸い込んだ。背を反らせて胸を突き出し、限界まで吸い込んで吸い込んで吸い込んで吸い込んでから、一気に吐き出す。
「ふううううぅぅぅぅっっ!」
ラディアナは吐き出した。吐息を。
「……え? あ、あれっ?」
戸惑い慌てて、ラディアナは大きく息を吸い、吐く。吸い、吐く。ただそれを繰り返す。
が、何も変わらない。ただの大げさな深呼吸だ。
「ど、どういうことなの? あたし、力が弱まっただけじゃなく、こんなことまでできなくなっちゃったの? うそ、うそよ! そんなはずないっっ!」
ラディアナはひどく取り乱している。現実を認めたくないかのように、涙目になって深呼吸を繰り返す。
一体ラディアナはどうしたのかとクリスが思った時、ラディアナを見下ろすドラゴンが、ラディアナと同じことをした。口を丸く開けて大きく息を吸い込む。これは……
「ラディアナ危ないっ! 逃げてっ!」
その叫び声とほぼ同時に、連続深呼吸に全力を傾けていたラディアナに向けて、ドラゴンの口から吐き出された業火の奔流が襲いかかった!
「っ!」
すんでのところでラディアナは横に転がって身をかわした。炎が当たったのは地面だけだ。
ラディアナが何とか回避できたことに、檻の中のクリスは安堵する。が、炎が当たった地面を見て、その安堵は一気に吹き飛んだ。
ドラゴンの吐く炎、俗に言う「ブレス」が強力だというのは、書物や噂などで知っていた。しかし初めて見た本物は、クリスの想像をあまりにも大きく超えていた。ラディアナのすぐ脇の地面に今、まるで鍬を使って畦を作った跡のような溝が、長く長く掘られているのだ。
炎の圧力で、土を抉ってしまったのである。こんなものをまともに浴びたら……
「ラディアナ! ラディアナ早く逃げて!」
檻の中からクリスは必死に訴える。だがラディアナは一歩も動こうとしない。
動かないでただ、地面の溝とドラゴンとを見て、歯軋りしながら拳を震わせている。
「冗談じゃないわよ。こんな……こんな程度の奴相手に、逃げろっていうの?」
「こんな程度も何も! 見ての通りだろ? いくら君が力持ちだからって、」
「うるさいうるさいっ! こんな程度って言ったらこんな程度なの! あんたは知らないでしょうけどね、本当なら、本当のあたしなら! あたし……っく……あたし、なら……っっ」
癇癪を起こしたと思ったら、ラディアナは泣き出してしまった。後から後から溢れる涙の雫が、ぷにっと柔らかそうな頬を伝っていく。
出会って以来、初めて見せた普通の幼女らしい態度と表情にクリスはつい、言葉を失ってしまったがそれも一瞬のこと。
「! あ、危ないっ!」
クリスが叫び、ラディアナは反応したがもう遅かった。ドラゴンが再び大きく息を吸い込んでから吐き出したブレスが、今度は完全に命中。ラディアナの全身を包み込んだ。
豪雨で氾濫した大河の、巨大な濁流に放り込まれたかのように。だがその濁流は水ではない、灼熱の炎。ラディアナは全身を焼かれながら、猛火の濁流に押し流された。
その高圧で地面を削り取ってしまう炎の中、ラディアナは抵抗できずに転倒し、そして流されていく。たっぷりと焼かれ押されて、発射元であるドラゴンから距離が離れ、勢いが弱まったところで何とか横に転がり出た。
「けほっ、けほっ、ぅぐく……」
転がされる間に熱気で喉をやられたのか、ラディアナは盛んに咳き込んで苦しそうだ。
人間と同等かそれ以上の知性を持つような、高位のドラゴンであれば、その吐く炎はただの炎ではなく、呼び集められた火の精霊たちの力も含んでいると聞く。その為、モノだけではなく形なき存在をも、例えば霊体さえも焼くことができるという。それを浴びたのが生ある者であれば、肉体と精神とを同時に焼かれてしまうということだ。
今、クリスたちの前にいるのは、そのような高位のドラゴンでない。だが無論、ただの炎、ただの高圧火炎で充分なのだ。たった一人の幼女を相手にするには。
現にラディアナは、一撃受けただけでふらふらになっている。
「ラディアナ! お願いだから今すぐ逃げて! 僕のことならどうでもいいから!」
「あんたなんか、もともと……どうでもいいのよ……けど、あ、あたしが、こんな奴……相手に、逃げる……なんて……」
「ああもうっ! いつまでもわけのわからない意地張ってないで!」
「大体、ねえ……いくらあたしが、こんな体で……弱くなってしまってる、っていっても……だからって、こんな奴に……勝てないようじゃ、ダメなのよ……」
ラディアナは頼りない足取りで、苦しさと悔しさの涙で大きな瞳を潤ませながら、一歩一歩ドラゴンに近づいていく。
ドラゴンはもう勝利を確信したのか、余裕の表情だ。ゆっくりと息を吸い込んでいく。
「あたしは……魔王の遺品だか、何だかを……この手で……ぶっ壊すんだからっ!」
拳を握ったラディアナが、真っ直ぐに駆け出した。ドラゴンが炎を吐く。ラディアナはそれをかわして駆ける。
だがラディアナはその怪力とは釣り合わず、走る速さは見た目通りの、並の幼女と同じくらいだった。いや、たとえ少々速かったとしても意味はない。ドラゴンにしてみれば、炎を吐きながらちょっと首を動かすだけでいいのだから。
先程、ラディアナが檻車の一振りで山賊たちの投擲武器を全て弾き飛ばしたように。ドラゴンの首の一捻りで、炎はその前方の地面を舐め尽くしてしまうのだ。
ラディアナの身長はあくまで幼女程度、つまり低い。足が短く歩幅も狭い。地面を払うように襲ってきたドラゴンの炎に容易く捕まり、全身を飲み込まれてしまった。