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「え?」
目を丸くして口をぽかんと開けたクリスを残し、ラディアナは檻から出て地面に降りた。
その裸の背中は、どう見てもクリスより小さい。紛れもなく、年齢一ケタと二ケタの境界にいる幼女のものだ。
が、たった今そのラディアナが、くにゃっと曲げてみせたモノ。クリスが改めてそれを、曲がった鉄格子を掴んでみるが、やはり動かない。両手で握って引いても押しても、「くにゃっ」の形から微動だにしない。うんうん唸って力を込めても、どうにもこうにもなんともできない。
「どしたのクリス? 出ないの?」
振り向いたラディアナが、きょとんとした顔を向けている。
何が何だか解らないままに、とりあえずクリスもラディアナに続いて檻から出て、地面に降り立つ。外から見ると、やはりこの檻車は囚人や奴隷用つまり人間用のものではないと解った。全体がハデに飾り付けられているところからして、思った通りサーカスの猛獣用に違いない。山賊たちがどこかで入手し、今回のように人身売買の商品運搬用に使っているのだろう。
とすると、本来この檻車には見世物になるような大型猛獣が入っていたはず。それを苦もなく壊してしまうラディアナは一体、何者なのか。
クリスが考え込んでいると、男たちの声がした。振り向いてみると、焚き火を囲んでいた山賊たちが、いつの間にか全員こちらを見ている。何人かは既に戦闘態勢だ。
ある者は重そうな戦斧を担ぎ、ある者は鋭そうな槍を構え、ある者は投擲用のナイフを握り締め、そしてラディアナも投げつけ用の檻車を手にしている。
「手に、してるっ!?」
抱えているのではない。担ぎ上げているのでもない。まるで雪合戦で投げる雪玉のように、あるいはこれから食べるリンゴのように、ラディアナはその手に檻車を持っている。どう見ても彼女自身の数十倍は重いであろう檻車を、片手に持っているのだ。
山賊たちは武器を手にしたものの、どうやら動けないらしい。ラディアナを見据えて一箇所に固まって震えて、かなり恐怖している様子だ。眼前の光景(ラディアナが檻車を手に持っていること)が信じられないのか、悪夢だとでも思っているのか。
だがこれは現実だ。クリスが視線を下ろせば、ラディアナの足が少し地面に沈んでいるのが見える。檻車一台分の重さが、クリスの掌よりも小さいラディアナの足の裏に集中しているのだから、当然といえば当然のこと。
その足が、ずしんずしんと音を立てて動き出す。ラディアナが歩き出したのだ。
「あんたたちで、ちょっと試させてもらうわよ。人間ってのがどれぐらいの強さなのか。まあ、この貧弱な檻とかそれを壊せないクリスとかを見れば、大体察しはつくけどね」
「う……う、うおおおおぉぉぉぉっ!」
檻車を手にした裸の幼女、という未知過ぎる存在が接近してくる。その恐怖に山賊たちの何人かが吠え、それによって筋肉の萎縮をムリヤリ解き、攻撃に移った。手にしていたナイフや槍や手斧などを勢いよく一斉に、ラディアナめがけて投げつける。
が、それら全てをラディアナは、檻車を軽くひと振りしてハエのように払ってしまった。
なにしろ手にしている物の大きさが大きさだから、ひと振りだけでラディアナの前方の空間全域が薙ぎ払われてしまう。加えて、檻車をぶつけられて弾き飛ばされない個人用投擲武器など、この世に存在しない。よってラディアナは「左右に振り回す」必要などなく、ただひと振りで完全な防御を為し得るのだ。今、ラディアナに何かをぶつけるのなら、攻城兵器でも使わないと不可能だろう。
この事態に山賊たちは一人残らず戦意を失い、せっかくムリヤリ解いた萎縮が前以上の強さとなって、完全に固められてしまった。そんな彼らに向かって、
「じゃ、今度はあたしが投げるからね」
ラディアナは、雪玉のようにリンゴのように気軽に、檻車を投げた。その大きな影が山賊たちを覆った一瞬後、檻車は地響きを立てて山賊たちごと地面を凹ませ、容赦なく押し潰す。
轟音と土煙の中の、大勢のひしゃげた悲鳴がクリスの耳に届いた。
「う……わぁ」
恐る恐るクリスは檻車に近付いた。檻車は傾いた状態で少し地面に沈み、まるで座礁した船のようだ。端々から山賊たちの腕や脚が生え、ぴくぴくしているのがかなり不気味である。
クリスが怯えていると、この惨事の犯人であるラディアナも歩いてきた。クリスとは対照的に平然と己の戦果を確認すると、肩を竦めて呆れた表情を見せる。
「やっぱり人間ってこの程度なのよね。ジークロットっての、本当に人間だったのかな。あ、人間だったからこそ、遺品を残すなんて失敗をしでかしたってことか」
「えっ? ラディアナ、今なんて?」
「ん、あんた知らないの? 人間のくせに。昔、何とかいう魔王を倒した人間よ。そのジークロットが破壊し損ねた魔王の遺品が、誰かに悪用されてるらしいの」
「いや、それは知ってるけど」
「要するにその、ジークロットの不始末のせいなのよね。あたしがこんなカッコで、こんなところで、こんなことしてるのも。……って、あぁもうやだやだ! 考えてもハラ立つだけだから考えたくないのに、でも考えちゃうっ」
と言ってクリスの前でぐしゃぐしゃと頭を掻き毟りだしたラディアナの表情は、うんざりとかイライラとか、そういうものではない。ハラ立つと言いながら、怒っている顔ではない。むしろ寂しそう、悲しんでいるように見える。
そういえばまだこの子について何も知らないのだ。人間離れどころか常識離れしている怪力といい、裸で山中を歩いていたらしいことといい、ジークロットや魔王との関係といい。
そう思い、問いかけようとしたクリスの言葉を遮るように、横合いから物音がした。
見れば檻車がほんの少し揺らぎ、その下から山賊が一人だけ這い出てきている。苦痛と激怒に顔を歪めて立ち上がったのは、クリスに目潰しを喰らわせた男。山賊たちの頭だ。
「この……バケモノが……」
「バケモノ? まあ、そう見えるでしょうね。こんな姿では。で、何? まだやる気なの?」
身長差がまるまる二倍近くありそうな相手に対して、完全に見下した態度でラディアナが言い放つ。見下された頭はというと、ニヤリと笑みを浮かべてポケットに手を入れた。
そして取り出したものを、誇らしげに見せつける。それは拳より少し小さめの赤い水晶玉で、透明度は低く、何やら紋様が刻まれている。
その紋様から水晶玉の正体に気付いたクリスは、驚愕に目を見張った。
「……! ちょ、ちょっと待て! それ、何なのか解っているのかっ?」
「ふん、当然だ。ずっと昔に手に入れた、オレ様の切り札なんだからな。こいつは稀に遺跡で見つかる、古代魔術の品だろう? この中には最強の魔物、ドラゴンが封じ込められている。持ち主の命令には絶対服従の、なっ!」
言いながら頭は、水晶玉を地面に叩き付けて割った。同時に、「最後の部分間違ってる!」というクリスの声を掻き消す恐ろしげな咆哮が轟いた。
割れた玉の中から赤い煙が大量に、もうもうと吹き上がる。その煙の中から大きな魔物が出現し、長い首をもたげてクリスとラディアナを、二階の屋根ほどの高さから見下ろした。
鋭い牙の並ぶ大きな口と、鱗に包まれた長い首だけを見れば、大木ほどの巨大な蛇かと思える。だがその下部には、重厚な筋肉に包まれたトカゲのような胴体があり、四肢には鋭い爪も備わっている。
これはまさしく、全ての魔物たちの頂点に立つと言われる存在、ドラゴンだ。が、一口にドラゴンと言ってもその種族の数は多く、個体差も大きい。最高クラスならば戦闘能力のみならず、知性などにおいても人間を遥かに凌駕し、神に近い存在とされている。が、最低クラスであれば熊や狼と変わらない。ただ巨大なだけの肉食獣に過ぎない。
今、クリスたちの目の前に出現したのはどうやら最低クラスだ。知性などカケラも感じられない凶暴な目と、唾液の糸を引いてむき出している牙などから、そう窺える。が、それでも他の大多数の存在(魔物も人間も含む)を圧倒する力を持っているというのも事実だ。