12
「無駄だ、エレンちゃん」
クリス以外でたった一人残った金属鎧の男は、クリスとも顔なじみの常連客、ダイラックだ。ザンファーと同年代だが、まだ現役の剣士である。
そのダイラックが、材木から手を離して腰の剣を抜いた。
「こいつがさっきの赤い玉から出てきたんだとすると、もう街中に何匹放たれたかわからん。今逃げた連中だって、無事に街を出られるかどうか……おい、クリス」
呼ばれたクリスが、はっとしてダイラックを見る。
「エレンちゃんを連れて逃げろ。ザンファーさんは、俺が後でどうにかするから」
「で、でも」
「議論してるヒマはない、早く……」
「ギェアアアアァァァァ!」
妖魔が奇声を上げた。やはり外見の印象通り、猛獣の咆哮よりも蟲の鳴き声に近いそれは、聞く者の全身を怖気づかせるのに充分な不気味さ、甲高さで響き渡る。
そんな声を上げて妖魔は、細く硬く長い両腕を振り回して、クリスたちに襲いかかってきた。
「逃げろっ!」
ダイラックが剣を抜いて妖魔に向かっていく。間合いに入るや否や、その刃が唸りを上げて妖魔の肩口に叩き込まれた。が、聞こえたのは重そうな打撃音のみ。
妖魔の悲鳴も、殻が割れる音も、肉が切れる音も、皮が破れる音もしなかった。
ダイラックの渾身の一撃は、妖魔の体に傷一つつけられなかったのだ。
「ちっ、噂以上だぜこのバケモノ!」
ダイラックは剣を引き、今度は妖魔の胸板めがけて突き込んだ。が、またしても結果は同じ。剣の先端が、妖魔の胸板に、全く刺さらない。妖魔は血の一滴も流すことなく立っている。
そして妖魔が、その長い腕で反撃に出た。ダイラックの顔面に拳を放つ。
ダイラックは辛うじて首を捻ってかわし、後退する。
と、鎧の肩口が一部、割れて破片を落とした。今、妖魔の拳が掠ったのだろう。
「くそったれ……!」
こちらの攻撃は通じない。だが相手の攻撃を喰らったら、一撃で致命傷になりかねない。
形勢の不利を悟り、剣を握るダイラックの手に汗が滲む。もちろん、それを拭く暇など与えてはくれず、妖魔が再び襲ってきた。
「早く逃げろクリス! エレンちゃんを連れて!」
クリスは強く息を吸い、吐いた。。そして腰の剣を抜き、妖魔に向かって走る。驚くダイラックの脇を駆け抜けて前に出た。
「僕も戦いますっ!」
繰り出された妖魔の拳を、クリスは踏み込みながら腰を落として掻い潜った。その低い姿勢から、下から上へと剣を振り上げる。
狙いは、今クリスを殴り潰そうとして空振りし、伸びきった肘関節、外骨格の僅かな隙間!
クリスの剣が一閃し、妖魔の腕が飛んだ。銀色の刃が狙い過たず妖魔の間接部の隙間に斬り込まれ、その肉を切断したのだ。緑色の液体を撒き散らして、妖魔の腕が宙を舞う。
機を逃さず、ダイラックが踏み込み斬りかかった。が、妖魔は怯みも焦りもせず、振り下ろされる剣を頭で受け、ダイラックの胸に蹴りを一撃! 重い音がして、金属鎧の胸部が大きく凹んだ。
「がはぅっっ!」
ダイラックは口から血を吹き散らせ、剣を手放して後方に吹き飛び、倒れた。
そんなものは確認するまでもないと思っているのか、妖魔はすぐさま狙いをクリスに変更、たった今切断された腕でそのままクリスの頬を殴りつけた。
殴る、といっても肘を切断されたのだから、そこにはもちろん拳はない。切断された肘間接の、肉と骨との断面をクリスの顔に叩きつけたのだ。
怪力を誇る妖魔の一撃ではあったが、流石にこんな打ち方ではダメージは大きくないので、クリスはよろめきながらも何とか倒れずに済んだ。剣も手放していないので、その手の甲で顔面に付着した妖魔の体液を拭う。
ダイラックは、辛うじて意識はあるようだが、もう戦うのは無理なようだ。立ち上がろうとして立てず、咳き込んでは血の霧を吐いている。
妖魔はというと痛みなど全く感じていないらしく、片腕を斬り飛ばされたというのに落ち着いた様子だ。もうダイラックは片付けたと判断したのか、クリスだけを見ている。落ち着いた、というより慎重になった、というべきか。もう先程のようには斬らせてもらえないだろう。
クリスも呼吸を整えて構え直す。ダイラックへの蹴りで、こいつの強さはよく解った。クリスが身に着けている革の鎧など、こいつにとっては紙細工も同然だろう。拳でも足でも、まともに喰らえば胸から背中まで槍のように突き抜けかねない。
倒壊した店を焼き続けている火も、だいぶ広がってきた。早くしないと、まだ生き埋めになっているザンファーも、ザンファーを助け出すまで逃げる気のなさそうなエレンも危ない。
それにダイラックが言っていた通り、ここと同じようなことが、街中のあちこちで起こっているとしたら。今、ここでこいつを倒しても……
『いや、気にしている場合じゃないっ!』
今はとにかく、眼前の敵だ。クリスは剣を握る手に力を込め、いや不要に力を込めすぎてはいけないと力を抜き、隙を見せぬよう注意しながら、妖魔の動きをじっと見据えた。
やがて、先に動いたのは妖魔の方だった。斬られた腕を激しく振り回し、体液を撒き散らしながらクリスに向かってくる。
一見、ただの凶暴狂乱に見えるが、そうではないことがクリスには判った。妖魔は自身の体液を利用して、クリスへの目潰しを狙っているのだ。
腕や脚ならそれぞれ二本ずつしかないし、矢だのナイフだの炎だの稲妻だのを放ってくるなら、それをかわせばいい。だが飛び散る液体、飛沫をかわすのは非常に厄介である。かわしたつもりでも、一滴だけでも目への侵入を許せば、視力を失って簡単に殺される。とはいっても手や武器で目を防御すれば、それは目隠ししているのと同じことになってしまう。
為すすべなくクリスは後ろへ下がった。妖魔は斬られた腕を振り回して執拗に追ってくる。更にクリスが下がろうとした、が重なった材木に右足を取られ、
「しまった!」
バランスを崩してしまった。どうにか転倒だけは免れたが、両腕が泳ぎ、低い姿勢で動きが止まってしまう。
勝利を確信した妖魔が、斬られていない左の拳を振り上げた。眼下の、抵抗できないクリスめがけて、大型金槌さながらの威力を秘めた拳を……
「クリスっ!」
ダイラックの声がして、ナイフが飛んできた。完全に死角を突かれた妖魔はかわせず、ダイラックの投げたナイフは、右の複眼に突き刺さった。
妖魔はクリスへの攻撃を中断し、反射的に手で顔を覆う。
「今だああぁぁっ!」
すぐになくなってしまうであろう一瞬のチャンスを、クリスは逃がさなかった。体ごと剣を突き上げ、仰け反っていた妖魔の口の中に刃を突っ込み、上顎から脳へと貫通させ、渾身の力を込めて捻り込む。
「ガゴボォォッッ!」
妖魔は反射的に刃を掴んだが、そこまでだった。流石に脳を潰されては、痛覚の有無もクソもなく、生命活動の停止は免れない。
が、その「停止」が訪れるまでのほんの短い時間に、妖魔は口の中に剣を突っ込まれて脳を串刺しにされたままで、ニタリと笑った。笑ったように、クリスには見えた。
鼻を鳴らして、クリスの匂いを嗅ぐ。嗅ぎながら、死の間際の今にも消え失せそうな声で、囁くように言った。
「コ……コノ、ニオイダ……オボエテイル、ゾ……アノトキ、ノ……」
「えっ?」
「クリス……ダナ……ニガスモノ、カ……ニガシハ、セン、ゾ……」




