6
ラディアナは夜の街を走っていた。
誰かに虐められたわけではない。意地悪されたわけでもない。解ってる、エレンもクリスも何ら悪意があるわけではない。
でも、あの場には居られなかった。
『っ……っっ……』
里で、もの言わぬ冷たい石像に囲まれた時には泣いた。ただただ泣き喚いた。泣いて泣いて泣いて泣いた後、冷たい里を出た。暖かかった里を取り戻す為、旅に出たのだ。
その時、誓った。これから先、戦いの中で、斬られたり焼かれたりの痛みで泣くことはあるかもしれない。だけど、決して「寂しい」で泣くことはしないと。
傷の痛みはいつか消える。だが家族や友を失った寂しさは、旅の終わりの日が来るまで、決して消えはしない。大きく膨らむ一方だ。だから、そんなことで泣いていてはとても旅なんてできない、戦っていられない。だからもう、寂しさで泣くことはしない、と。だが、
「ぅえ……ぅええぇぇん……」
誓いは破られた。潤みきった瞳から一滴、小さな雫が溢れてしまうと、もう決壊だ。止まらない。後から後から湧き出てくる涙を、ラディアナは抑えられず――いや、抑える気を失って――頬を濡らして走り続けた。
ここタスートの街は治安が良く、昼間の大通りであれば、女子供が一人で歩いていても安全だと言われている。つまり、夜の裏通りであればその限りではない。
頭の中がぐちゃぐちゃになっていたラディアナは何も考えず、ただ誰からも離れたくて、人気のない方へない方へと走っていた。繁華街から外れ、住宅街から遠く、人家の明かりや人の話し声が稀な、暗く静かな裏通りへと。
無秩序に並ぶ怪しげな商店の屋根に遮られて、星と月の光も満足に届かぬ一帯。暗いというよりも黒い通りを、ラディアナは走っていく。と、
「わぷっ?」
突然ラディアナの目の前、だけではなく前後左右に壁が、そして上には天井が出現した。何かが上から降って来て、ラディアナを完全に包んだのだ。正面の、妙に柔らかい壁にぶつかったラディアナの息が一瞬だけ詰まる。それとほぼ同時に足を掬われて、ラディアナは転倒した。
何が起こったのかと考える間もなく、ラディアナの天地が逆転する。誰かが外から、柔らかい壁を掴んで持ち上げたらしい。
「よし、やったぞ」
「ぼやぼやするな、早く袋の口を縛れ」
袋の中で逆さまになったラディアナは、肌の感触で何が起こったのかを理解した。どうやら大きな皮袋を頭から被せられて、その中に閉じ込められ、荷物のように持ち上げられているらしい。
外から聞こえるのは、男たちの声。おそらく彼らは、この街に来るまでの道中にクリスが説明してくれた「人さらい」なんだ……と、冷静なラディアナであれば考えただろう。
だが今のラディアナは冷静ではなかった。何も考えずに皮袋を内側から掴んで、ビリリと破って外に出た。
「何だ?」
四人の男たちの動きが止まる。牛や馬に左右から引っ張らせても、破れるどころか殆ど伸びもしない丈夫な貨物用皮袋が、あっさりと破られたのだ。まるで紙袋のように、手でビリリと。
そうして開いた穴から、たった今捕獲した幼女がのっそりと出て、降り立った。
黒いほどに暗い裏通りだが、男たちは慣れているのでよく見える。今目の前にいるのは、金色の髪に白い肌、気品のある整った顔立ちをした、美しい幼女だ。エプロンドレスの袖と裾から伸びる腕や脚は短くてメリハリがなく、典型的な幼児体型をこれでもかと示している。
そう、並外れて美しくはあるが小さな可愛い幼女なのだ。それが、人間離れどころか動物離れ、猛獣離れした力を見せつけた。
そして、ただ無言で彼らの前に立っている。
「な、なんだこいつ……」
「落ち着け。多分、袋が傷んでたんだ。だいぶ古かったからな」
幼女は動かない。どこを見ているのかよくわからない目が潤んでいる。
どうやら泣いているらしい。きっと恐怖のせいだ。それで足がすくんで腰も抜けて、身動きできずに立ち尽くしているんだ。そうに違いない。
「と、とにかく、袋が破れてしまった以上、担いでいくしかない。おい、眠らせろ」
リーダーらしき男に命じられて、別の男が前に出た。腰の後ろに差していた樫の棍棒を取り出して、ラディアナの頭に振り下ろす。ばきっ! と音がした。
「……え」
男は、手に持った棍棒がどうしてこんなに短くなっているのか、理解できなかった。数拍おいて、高く宙に上がったものが石畳に落ち、乾いた音を立ててから、ようやく事態を把握する。幼女の頭を殴った棍棒が、その頭の硬さと、全く微動だにしない首の頑強さのせいで、へし折れてしまったのだ。
まさかと思って前、というより足元を見れば、幼女は変わらず立っている。せめて額に血の一筋でも流れていてくれれば良かったが、それすらもない。悲鳴も呻きもなかったことから考えると、ろくに痛みも感じていないのだろう。
「な、な、なんだ。なんだ、ガキのくせに、この強さは……」
「……強い? あたしが?」
幼女は、右手の五指を石畳に深々と突き刺した。そして、まるでチョコレートかクッキーのように、指の力だけで大きな破片を割り取る。
「何言ってるのよ。あたしなんかが、強いはずないでしょ」
「そ、そうだ、うろたえるな! こんなガキにビビッて逃げたなんて噂が広がってみろ、俺たちはもう生きていけねえぞ!」
リーダーの言葉に、怯えつつあった男たちは気力を取り戻してそれぞれの武器を手に構えた。腕っ節を頼りに、強さを売り込んで、様々な裏仕事を請け負って生きている自分たち。それが、弱いというレッテルを張られたらどうなるか。そうだ、確かに生きていけなくなる。
こんな幼女相手に、逃げることなど許されない。たとえそれが、どんなに得体の知れない相手でも。
「いいか、売り物は他を当たることにする。だからこいつは、何が何でも殺す! いくぞ!」
「死ねええぇぇぶおっ!」
一人目が、幼女の投げた石畳の破片を顔面に受け、鼻骨を砕かれ鼻血の華を咲かせながら、突風を受けたように後方へと吹っ飛ばされた。
残りの三人は奇声を上げながら、棍棒やナイフを振りかざして幼女に襲い掛かる。
ラディアナの周囲には、ボロボロにされて完全に意識を失った男たちが四人、転がっている。
「何バカなこと言ってるのよ……あたし程度が強い? 冗談じゃないわ。あたしなんかより、もっともっと、ずっと……ずっと……」
潤んでいたラディアナの目から、またぽろぽろと涙の雫が溢れ出した。
両膝をつき、強く握った右拳を地面に叩きつける。何度も激しく、何度も重く。
「父様はもっと強かった! あたしなんかよりずっと強かった! 世界で一番強くて、世界で一番優しくて、それで、それで……」
ラディアナに叩かれ続ける石畳は、そこを中心にして無数のヒビが広がっていく。周囲の建物が地震さながらに強く揺らされ、屋根の上のゴミや壁に付着していた埃などが、振動でみるみる落とされていった。野良犬も野良猫も浮浪者も怪しげな売人も、好奇心より恐怖心が勝って、謎の轟音から離れて逃げ散っていく。
何発叩いたのだろうか、ラディアナが息を切らせて手を止めた時、もともと静かだった裏通りが、いつも以上に静まり返っていた。その中で、たった一人の幼女の、弱々しい嗚咽だけが闇に溶けるように流れている。
そして流れているものはもう一つ。砕けた石畳の破片で切り裂かれたラディアナの右手から、血が流れている。
「っ、ぅぅ……父様……父様に……あいたい……あいたいよう……」
手の痛み、胸の痛みで、ぽろぽろぽろぽろとラディアナの涙が止まらない。誰もいない裏通りで、たった一人で、ラディアナは泣き続けた。
そうしてどれくらいの時が過ぎたのか、一人の男がラディアナに近づいてきた。
「何か騒ぎでも起こして、おびき寄せようと思っておったが……自分から騒ぎを起こして、呼び寄せてくれるとはな」
ラディアナが顔を上げ、男を見る。と、慌てて立ち上がった。
「カ、カイハブ!」
血で紅くなった拳を構えて、ラディアナが数歩下がった。
遺跡で会った時と同じ、灰色のローブ姿に杖を持っているカイハブは、警戒するラディアナに向かって宥めるように話しかけた。
「落ち着け。わしは今、お前と戦う気などない」
「こっちにはあるわよっ! リュマルドの手先め!」
「そうじゃ。故にわしは、リュマルド様と会話ができる。提案もできれば相談もできる」
「……何が言いたいのよ」




