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八 不穏

 エミリの家庭教師の仕事は表向き順調に進んでいた。闇色の胸中を吐露したカミーユは、よりセレスに心を許すようになった。レッスンの休憩中には共にお茶を楽しみ、レッスン後にはキッチンに立ったこともないセレスに、カミーユが得意だというパンや菓子の作り方を教えてくれたりと、二人の間には円満な人間関係が築かれていた。

 ドルレアン家にお世話なり始めて早三ヶ月。目抜き通りの街路樹から黄金色の葉がひらひらと舞い散る頃。セレスはバイオリンケースを右肩にかけ、両手には紙袋いっぱいのパンを抱えて家路を急いでいた。今日もまたレッスン後恒例のパン作りが始まり、作り過ぎた大量のパンをお土産にもらったのだ。


(うぅ……寒い……重い……)


 何かとお金のかかるバイオリンのため、節約生活を心がけているセレスにとってこのパンは非常にありがたい存在であるが、さすがに今日は貰い過ぎた。それに加え冷たい風が容赦なく吹きすさび、セレスは心の中で悲鳴をあげていた。


「んっ? もしかしてセレスかい?」


 低いバリトンに名を呼ばれ、必死に声のする方をに顔を向けると、そこに立っていたのはクロードだった。


「やっぱり。それにしても大荷物だね。ほら、ちょっと貸してごらん」


 セレスが応える前にクロードはひょいっと紙袋を取り上げた。


「あ、ありがとうございます……」

「いや、帰る場所が同じだし構わないよ。それにしても寒そうだね。くくっ、鼻が真っ赤になってる。良かったらこれを」


 そう言うなりクロードは自分の首に巻いていたマフラーを取ると、くるくるっとセレスの首に巻き付けた。柔らかな質感のマフラーには、クロードの温もりと爽やかでいてほろ甘い香りが残っている。


「さすがにこれはやりすぎです……クロードさんも寒いでしょうし、取ってください!」

「こんなおじさんのマフラーで嫌かもしれないけど、そんな寒そうな女の子を放っておくなんてできないよ」

「いえっ、嫌とかっていうんじゃないです。それに全然おじさんじゃないですし。以前、二十三歳っておっしゃってましたよね? ただ申し訳なくって」

「嫌じゃないんだ……良かった。気持ち悪いって言われたらさすがにショックだからね。さっ、こんなところで言い合う暇があったら早く帰ろうか」


 そう言って歩き出したクロードを追いかけるようにセレスも歩き出した。決して好印象ではなかった挨拶を交わしから二ヶ月。その後どういったわけか頻繁に顔を合わせるクロードとはちょっとした会話をする機会も多く、今では温もりが残るマフラーに包まれても気持ち悪いと思わないくらいの関係にはなっていた。


(暖かい……これってシルクよね……そんなにお金持ちには見えないけど、クロードさんって一体何をしている人なのかしら)


 地味な服装に、陰気臭い前髪と黒縁眼鏡。ぱっと見は冴えない見た目をしているのに、身に着けているものはいちいち上質なものばかり。コミュニケーションだって普通に取れる、いやむしろ人との距離感の詰め方は上手だと言っていいほどだ。セレスにはクロードという男が心底不思議で、いまいち掴めない存在だった。

 

「セレスはバイオリンの先生をしているんだったね?」

「はい。まだまだ未熟ですけど」

「いやいや、それでお金を稼いでいるんだから立派だと思うよ」

「そうでしょうか……」

「うん、そう。だから自信を持って。ちなみにどこで教えているんだい?」

「ドルレアン家です。クロードさんはご存じですか? 不動産業を営んでいるそうですが」

「あぁ、よく知っているよ。こんなことは言いたくないけど、あまりいい噂を聞かないな。セレスもあまり気を許し過ぎない方がいいよ」

「…………はい」


 小さく返事をしたセレスだったが、実は若干思い当たる節があった。週に四回ドルレアン家を訪問するのだが、その中で一日だけカミーユが不在の曜日がある。その日は代わりにグレゴリーが家にいるのだが、最近レッスン終わりにバイオリンを聴かせてほしいと書斎に呼ばれるようになっていたのだ。いつもカミーユとレッスン後に過ごしているのに、グレゴリーとは過ごせないとは言いにくい。それに好条件で雇ってもらえているという認識もあり、無碍に断ることなんてできなかった。単純にバイオリンを聴きたいというのなら一向に構わないのだが、グレゴリーから向けられる視線が物欲しそうに恍惚としていて、どうにも気持ち悪いのだ。


「……もしかしてすでに何かされている?」

「あ、いえ、なにもされていないです……」

「そうか、良かった。もし何かあれば俺に言うんだよ。きっと助けになるから」

「はい、ありがとうございます……」


 怒気を含んだクロードの声にセレスは驚いた。それと同時に、ただのお隣さんをそこまで心配してくれるなんて、クロードは見た目と違って正義感の強い男性なんだな、と感心すらしていた。

 その後は近所の美味しいレストランや、おすすめのベーカリーの話をしているうちに、あっという間にアパートメントに辿り着いた。


「荷物ありがとうございました。あの……もしよろしければこれ召し上がってください。お礼になるかはわかりませんが、ドルレアン家の奥様に教えてもらいながら作ったので、見た目はいびつですが、味は大丈夫だと思います」

「これ、セレスが作ったんだ? 実はとてもいい匂いがするなって思っていたんだ。嬉しいよ、ありがとう」


 差し出されたパンを受け取ったクロードは嬉しそうに微笑んだ。口元しか見えない微笑みではあったが、それは十分に気持ちが伝わるものだった。


「じゃあね、セレス。今夜は冷えるから暖かくして休むんだよ」


 心地よいバリトンが別れを告げる。その声は優しさに満ちていた。

 

 ◇ ◇ ◇


 翌日セレスは憂鬱な思いでドルレアン家に向かっていた。昨夜から一転して、今日はこんなにも晴天に恵まれたというのに、セレスの心は土砂崩れが起きたかのように重かった。そう、今日はカミーユが不在の曜日なのだ。そしてやはり嫌な予感ほど的中するもの。案の定グレゴリーはレッスンが終わると、待ち構えていたかのように部屋にやってきた。


「セレス、今日のレッスンは終わったのかい? もしこのあと時間があるなら前みたいに書斎に来てくれるかな? セレスのバイオリンが聞きたいんだ」

「……はい。かしこまりました」

 

(嫌だな……頃合いを見計らってお暇しよう)


 そんなセレスの内心など気にも留めず、グレゴリーはご機嫌そうに調子っぱずれの鼻歌を歌いながら書斎に向かうと、革張りの一人掛けソファーにどしりと腰かけた。


「今日は何の曲を弾きましょうか?」

「あーなんでもいいよ。適当なものを弾いてくれ」

「……では」


 セレスはすっとバイオリンを構えると、明るい曲調の楽曲を弾き始めた。軽やかで耳当たりの良いこの曲。音楽に知見のない者にすれば何の変哲もない曲だ。だがこの曲の題名は『ある男の一生』。欲に溺れた愚かな男が、身から出た錆で破滅していく滑稽な曲だ。セレスは目一杯の皮肉を込めてこの曲を選んだ。グレゴリーならこの皮肉に気付くはずないとわかっていた。その予想は見事的中し、目の前に踏ん反り返って座る男は短い足を組みながら、満足そうな表情でセレスをじっとりと見つめている。


「あぁ、やっぱりセレスの弾くバイオリンは心に染みるな」

「ありがとうございます」

 

(だってあなたにぴったりな曲だもの、当たり前よ)


「なんというか、新しい一歩を踏み出したい気持ちになる曲だった」

「素晴らしい考察だと思いますわ」


(……大はずれよ。あぁ……早くこんな意味のない時間終わらないかしら)


 酷い憎まれ口を心の中でたたきながら、薄く笑ってやり過ごしていると、グレゴリーはつっと立ち上がり、そしてじわりじわりとセレスに向かって近づいてきた。逃げ出したい気持ちでいっぱいだが、視線が気持ち悪いというだけで、これまで特に何をされたわけでもない。雇い主の気を悪くさせるような真似はできず、引き攣った笑顔を浮かべながら必死にセレスは堪えた。


「こんな小さな身体であんなに雄大な曲が弾けるなんて大したものだ」

(ひぃっ!!)


 目の前で立ち止まったグレゴリーは、ソーセージのような指でセレスの肩を撫でた。ゴテゴテした悪趣味な指輪がついた指が、肩から二の腕に、そして手首へとするするとなぞるように降りてくる。そして何の躊躇いもなく、弓を持つセレスの右手首を掴んだ。


「あぁ……こんなか細い腕で……」


 柔らかくべとついたグレゴリーの親指が、服に覆われていない素肌の手首の感触を確かめるようにヌメヌメと触り続ける。セレスはあまりのおぞましさに全身に鳥肌が立った。

 

「あ、あの……ドルレアン様? どうかされましたか?」


 軽く手を引き、必死の抵抗を試みるが、グレゴリーは手を離そうとしない。


(何なのよ、この男! 気持ち悪いっ!)

 

 目一杯力をこめて振りほどこうとしても、より一層強く握り返されるだけの絶望的な状況に、セレスは恐怖から顔を酷く歪めた。だがその時突然扉をノックする音が響くと、グレゴリーが入室の許可を与える前に扉が開いた。


(た、助かった……)

 

「旦那様、新しいお茶をお持ちいたしました」

「わしは頼んでおらんぞっ!」

「……申し訳ございません。いつもこの時間にご用意しておりましたので……」

「くそっ、今度からはわしが言った時だけ持ってこい」


 ふいを突かれたグレゴリーが手首を離した瞬間、セレスは急いで後ずさり距離を取った。


「それではこのあたりで失礼いたしますっ」


 セレスはさっと一礼し、形ばかりの辞去の挨拶をすると、逃げるように書斎から飛び出した。震える手でバイオリンをケースに戻し、急いで帰り支度をしていると、先ほどの使用人が戻ってきた。


「あなた……さっきはありがとう。助かったわ」

「いえ、あの……旦那様にはくれぐれもお気をつけください。どんなご事情があれ、密室は避けられた方がよろしいかと。助けられない場合もございますから」

「そうね、これからはそうするわ。あなた、やっぱり何があったかわかった上で助けてくれたのね……あんなことをしてあなたはお叱りを受けない?」

「……どうせ私は遅かれ早かれ追い出される身です。それに報酬は貰っておりますから」

「報酬って?」

「……すみません、話し過ぎました。さぁ、早くお帰りくださいませ」


 セレスより少しばかり年上のその使用人は、それ以上多くを語ることはなかった。

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