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七 家庭教師

 コージットの中心部から少し歩いた高級住宅街に、紹介されたドルレアン家の屋敷はあった。焦げ茶色と赤色のレンガが特徴的な二階建ての華やかな家の前にはそれなりの大きさの庭が広がり、家と庭を囲むようにぐるりと鉄柵に囲まれている。

 エントランスで出迎えてくれたのは、セレスより少し年上に見える小柄のかわいらしい女性だった。品の良いワンピースを着ているのを見るとどうやら使用人ではなさそうだ。この家とどういった関係なのか訝しく思いながらも、セレスは礼儀正しく腰を折ると、人好きのする微笑みを浮かべて挨拶をした。


「初めまして。バイオリン講師の顔合わせで参りました、セレス・マドアスと申します」


 マドアスという名はデルタの生家の男爵家の名前を拝借した。長期でお世話になることを考えると身上を話すこともあるだろう。生い立ちに興味を持たれた場合に無理なく嘘をつくには、没落貴族の元令嬢という設定が一番しっくりくると考えたのだ。


「あら、かわいらしいお嬢さんね。私はカミーユ・ドルレアンよ。外は暑かったでしょう。さぁ、こちらへどうぞ。主人を呼んでくるわね」

「あっ、はい」


(えっ、今、主人って言ったわよね? じゃあこの方が奥様ってこと? 八歳の娘さんって聞いたけど後妻さんってことかしら?)


 案内された応接室は、クリーム地に小花柄の壁紙とマホガニー材の調度品でまとめられたかわいらしい雰囲気の部屋だった。着席するとすぐに香り高い紅茶を使用人に給仕され、しばらくするとこの家の主人、グレゴリー・ドルレアンが部屋に入ってきた。


「やぁやぁ、よく来たね。グレゴリー・ドルレアンだ」

「初めまして。セレス・マドアスと申します。本日は貴重なお時間を頂戴しましてありがとうございます」


 年齢は四十代中頃といった具合の背の低い小太りの男は、洗練された所作で挨拶をしたセレスを見て満足そうに頷いた。


「あぁ、座ってくれ。大事な娘の先生だからね。じゃあ早速だがセレスについて何点か質問させてくれるかな?」


 挨拶を交わしただけだけの関係で、許可を与えたわけでもないのに、いきなり名を呼び捨てにされたセレスは一瞬ギョッとしたが、早く仕事を決めてしまいたい一心で懸命に平静を装った。その甲斐あってかセレスの不快感にグレゴリーは全く気付く様子もなく、上機嫌な様子で質問を投げかけてくる。セレスは前日にシミュレーションを何度も行っていた成果をいかんなく発揮し、嘘で固められた回答を淀みなく答えていった。

 

「それでは週に二回、バイオリンの講師として来てもらおうか。あと、セレスは元は男爵令嬢だったと言ったね? セレスの所作はとても美しい。淑女教育も受けていたのならそちらの方も週二回お願いできるかな? もちろん報酬は弾むよ」


 願ってもない申し出にセレスは二つ返事で引き受けた。


(若干慣れ慣れしいような気もするけど、元々距離感の近い人かもしれないわ。それに気難しい人に比べたら全然マシだし、こんな好条件で雇ってくれるんだもの。そんな些細なことを気にしてられないわ)


 そんな風に僅かに抱いた違和感を無視してしまったのは、サンセルノでも人に恵まれ、コージットに着いてからも全てが順調に進んできたせいかもしれない。屋敷から出ていくセレスの後ろ姿を、窓からグレゴリーがじっとりと見つめていたことなんて、緊張から解放されたセレスが気付くはずもなかった。


 ◇ ◇ ◇


 グレゴリーの娘エミリはちょっと気の強いおませな女の子だった。たまに大人顔負けの発言もするが、反抗期真っ盛りの弟の相手をしてきたセレスにとってはそんなことはかわいらしいもので、一ヶ月も経てば穏やかなセレスにエミリはすぐに懐くようになった。

 今はレッスンの休憩中で、セレスとエミリ、そしてカミーユも交えてお茶を楽しんでいる。


「セレス先生のおかげで、最近のエミリの成長ぶりには目を見張るものがありますわ」

「ありがとうございます。けれど、それは全てお嬢様の努力の結果かと。元々基礎部分はしっかり身についていらしたもの。わたしがお教えしたことなんて些細な事ですわ」

「その些細なことが大きいのですわ。ここしばらくずっと伸び悩んでいましたもの」

「だってぇ……これまでの先生はガミガミ怒るばっかりで全然楽しくなかったんだもの。手を叩くこともあったのよ。セレス先生はとっても優しいしたくさん褒めてくださるもの」

「ふふっ、エミリったら大きくなったらセレス先生みたいなバイオリニストになるって張り切ってますのよ」

「もう、お母様! その話は内緒にしていてって言ったじゃない」

 

 エミリは赤くなった頬をぷぅっと膨らませる。その表情は八歳の少女そのものだ。いくら大人びたお喋りをしていたとしても、中身はまだまだ幼い子どもなのだと、セレスはその微笑ましさについ笑みがこぼれた。


「まぁ、そう言っていただけて光栄ですわ」

「セレス先生は十六歳よね? あと八年かぁ……そういえばお母様が結婚したのも十六歳だったよね?」

「……そうだったわね」

「お母様はなんでそんなに早く結婚したの? 夢とかなかったの? 今の時代、女性だって働けるようになってきたのに、そんなに早くに結婚するなんて勿体ないわ」

「……けどそのおかげでエミリが産まれたのだからそれで良かったのよ。でもそうね……エミリには大人になっても好きなことを続けてほしいわ」


 セレスはカミーユの言葉に妙な引っ掛かりを覚えた。まるで自分は夢を諦めたかのような物言いには、どことなく寂しさを感じさせる。けれどお喋りに夢中な娘は母親のそんな小さな変化など気付くこともない。

 

「はぁ、でも私も見た目はお母様に似たかったわ。お母様みたいに綺麗なブロンドで青い瞳だったら良かったのに」

「エミリはお母様と色は違うけれど、目や口の形はそっくりよ」

「そうですよ。それにショコラ色の髪はまっすぐ艶やかですし、黒い瞳は黒曜石のように美しいですわ」

「へへへ……本当? 先生にそんな風に言われたらなんだか自信が持てそう」


 おしゃまなくせに、褒められると顔を真っ赤にして照れる姿はなんともかわいらしい。エミリは照れ隠しなのか「美味しいクッキーがあったはずだから持ってくるわ」と言って部屋から出て行ってしまった。

 それにしてもこの会話から察するに、エミリはカミーユの実子ということになる。見た目は十代後半に見えるカミーユだが、一体今は何歳なんだろうと考えていると、カミーユはセレスの心を読んだかのようにクスクスと笑った。


「エミリは私が十七歳のときに産んでね、今は二十五歳になるのよ。童顔だから幼く見られがちで、それが昔からの悩みなの。主人と年齢も離れているし驚かれたでしょう?」

「あっ……すみません。プライベートなことを……」

「いいえ、お気になさらないで。こういう個人的な話って友人だからこそ話せないこともあるでしょう? 話し相手になってくださったら嬉しいわ」

「わたしで良ければいくらでもお相手いたしますわ」

「ありがとう……エミリは知らないけれど、私にも十六歳の頃には夢があったのよ。だけど突然親に言われて結婚することになって……毎日辛くて仕方なくてたくさん泣いたわ」

「……どんな夢をお持ちだったんですか?」

「文官よ。たくさん勉強したけれどそれも無駄になっちゃった」


 そう言ってカミーユは遠い目をした。夢を追った若かりし日々をきっと思い返しているのだろう。セレスはかける言葉が見つからなかった。目の前にいるカミーユは少し前までの自分だ。もしあの時逃げ出さなければ、数年後のセレスもこんな寂しい目で過去を語ることになったかもしれない。

 もう少し話を聞くと、カミーユの実家は商いをやっていた父親が友人に騙され借金を背負うことになり、まだ幼い弟や妹のために多額の援助金と引き換えに、グレゴリーの元に嫁ぐことになったという。


(奥様は逃げ出すこともできない状況だったのね……私なんかよりずっと大変な思いをしてこられたんだわ)

 

「でもね、幸運にもすぐにエミリを授かって。子は鎹っていうけど本当ね。エミリがいてくれたおかげで救われることも多かったわ」


 そう儚く笑ったカミーユがセレスには泣いているように見えた。子どもの存在が慰めになったことは間違いないだろう。けれど、夢を他人の意思で諦めざるを得なかった傷はいつまでも癒えることはない。人は過去を懐古するとき往々にして思い出を美化しがちだ。むしろ時を追うほどにその傷は化膿し、ジクジクと痛みを増していく、そんな厄介なものにも思えた。


 ◇ ◇ ◇

 

 その後エミリが戻ってくると、何事もなかったかのように後半のレッスンは始まった。セレスは帰路の途中、カミーユのことが頭から離れず、気が付けば自宅に帰りついていた。

 コージットに着いてすぐに契約したこの物件は、比較的新しい三階建てのアパートメントで、小さいながらも一人暮らしには十分な大きさがある。なによりもシャワー付きの部屋だったことが決め手となり即決したのだった。

 セレスが部屋に入ろうと鍵を探して鞄をゴソゴソとしていると、先日引っ越していったばかりの隣室の扉がガチャリと開いた。中から出てきたのは一人の背の高い青年……らしき男性だった。なぜ“らしき”かといえば、男の前髪は目元にかかるほど長く、その上眼鏡までかけているせいで顔がよく見えなかったからだ。すると部屋を出た年齢不詳の男は徐にセレスの方に向かって歩きだしてきた。


(ひぇ……なんでこっちに向かってくるの!?……ってこっちに共用エントランスがあるんだから当たり前じゃない。自意識過剰よ)


 そう思いながらも気味の悪さを感じたセレスは、逆に話しかけることでこの不気味さを打ち消そうと試みる。


「は、はじめまして。お引越しされてきたんですか? わ、わたしも一ヶ月前に来たばかりなんです。これからよろしくお願いしますね」


 震えそうになる声を必死に耐え、顔には取り繕った微笑みを浮かべながら、セレスは無難な挨拶をした。少しばかり早口になってしまったが、ぎりぎり怪しくない程度だろう。

 男は手を伸ばしても届かないあたりで立ち止まると、ふわりと空気が揺れた。すると気味の悪い男から似つかわしくない爽やかで甘い香りがセレスの元まで届いた。


「くくっ……はじめまして。あぁ、今日引っ越してきたんだ。これからよろしく頼む。俺はクロード。君の名を聞いても?」

「……? わたしはセレスです。何かおかしなことがありましたか?」


 おかしな行動をとったつもりはないのに、なぜか笑いをかみ殺している男を見て、セレスにしては珍しく少々苛立ってしまった。初対面だというのに失礼すぎる。


「あぁ、すまない。いや、ひどく警戒されているな、と思って」

「あ……ご、ごめんなさい」

「いや、いいんだ。そりゃ怪しいからな、怯えさせて悪かった。何もしないから安心してくれ。それじゃこれからはお隣さんだしセレスと呼んでも?」

「あっ、はい。お好きにどうぞ」


 気味悪がっていたことがバレていたという事実にひどく動揺してしまったせいで、セレスはつい名で呼ぶことを許してしまった。それに正面から対峙してみると、男は地味な服装をしているが、シャツは皴一つなく手入れされているし、靴だってきちんと磨かれている。案外きちんとした人かもしれないのに、先入観から失礼な態度をとったことに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「セレスも俺のことは好きに呼んでいいよ」

「えっ? じゃあ……クロードさんと呼ばせていただきますね」

「くくっ、クロードでいいのに。まぁ今はこれでいいか。それじゃあねセレス。よい夜を」


 意味深な言葉だけを残して、クロードはセレスの横を通り過ぎると階下に降りて行ってしまった。


(今はこれでいい……? それってどういう意味?)

 

 一人取り残されたセレスは唖然として立ち尽くし、すでに男の姿が見えなくなった階段をしばしの間見つめ続けていた。

週末は午前10時と午後10時頃 の1日2回更新しようと思います!

よろしくお願いします♡

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