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六 再出発

 それから二週間が過ぎた頃、セレスは出立の準備に追われていた。早くしないと両親に見つかってしまう。追手の足音がすぐそこまで迫ってきているような得体の知れない不安に押しつぶされそうになっていた。

 なぜこんなに慌ただしく準備しているかといえば、朝食時に隣の席に座ったとある老夫婦と交わした会話が事の始まりだった。


「おはよう、お嬢さん。あなたはこのホテルにどれくらい滞在しているの?」

「おはようございます。わたしは一ヶ月半くらい滞在していますわ」

「あら、そうなの? じゃああなたもご存知かしら? なんでもこの湖畔には美しいバイオリンを奏でる少女がいるって友人から聞いてやって来たんだけど」


(えっ……噂になっているの……?)

 

 セレスはぞくりと背筋に悪寒が走った。一部で自分のことが噂になっている。それがどこまでの範囲に及ぶのかはわからない。すぐさま両親に伝わるわけではないだろうが、どうしようもない不安が身体中を駆け巡る。


「あ……たぶんそれわたしのことです……ですが申し訳ありません。ちょうど今日出立する予定で……」


 そんな予定なんてなかったが、セレスは咄嗟に嘘をついた。いや、嘘というよりも出立の意思がやっと固まったというべきか。サンセルノの環境は思っていた以上に居心地がよく、もうそろそろ次の場所へ移動しないといけないとは常々考えながらも、なかなか行動に移せないでいた。きっとこれはきっかけを与えられたに違いない。


「あら、そうなの? でもすごく残念だわ……演奏を聴くの、すごく楽しみにしていたのよ。ガーデンテラスで美味しいお茶を飲みながら聴こえてくる音色は最高だって聞いていたものだから」

「そうなんですね……では……午前中だけでよろしければ、いつも通り湖畔で演奏いたしましょうか? 子どもたちもいるので童謡が中心になってしまいますが」

「本当? わぁ嬉しい! 無理を言ってごめんなさいね。お嬢さんにも予定があるでしょうに」

「あっいえ、どうせ列車は夜になりますからお気になさらないでください」


 セレスは自分の八方美人ぶりに内心失笑した。早くこのホテルから立ち去った方がいいと思っているくせに、他人の顔色を窺っていい顔をしてしまう自分。ただ、子どもたちとの触れ合いの中で、他者に自分の音楽が求められる高揚感を知ったセレスにとって、婦人の言葉は足止めさせるのに十分な力を持っていた。


(子どもたちにお別れも言いたいし、少しくらい大丈夫よね……)


 朝食後、それほど多くない荷物を手早くまとめると、セレスはチェックアウトを済ませてニーナのもとへ別れの挨拶に向かった。


「ニーナ? 突然ごめんなさい。急なんだけど今夜サンセルノを離れることにしたわ」

「えっそうなの? 何かあった? コージットまで一緒に戻るつもりでいたのに」

「さっきね、わたしの噂を聞いたって人に会ったの。すぐに両親の耳にその噂が届くわけではないと思うけど念のためにね」

「そっかぁ。私の結婚式にセレスも参列してほしかったけど……やっぱり厳しいわよね?」

「ごめんね……いつか落ち着いたら必ずお祝いに行くから」

「うん、待ってる。私は新しい場所で新たな夢をきっと叶えるから、セレスもバイオリンの夢、絶対叶えてきて。あなたを応援している人間がここにいること忘れないでね」


 ニーナは幸運と幸せが訪れるように祈りを捧げながら、セレスをぎゅっと抱き締めた。折れてしまいそうなほど華奢な身体に、大きな夢と希望をいっぱいに抱えた年下の女の子の未来が、どうか明るいものであってほしいとニーナは心の底から願った。


 ◇ ◇ ◇

 

 それからセレスは湖畔へと向かった。出立の準備や別れの挨拶でいつもより遅くなってしまい、きっと子どもたちは待ちくたびれているだろう、とセレスは荷物を抱えて小走りで向かうと、案の定いつものベンチで足をぶらぶらさせながら待っている姿が見える。子どもたちはセレスを見つけるなり顔をパァっと明るくさせるとパタパタと走り寄ってきた。


「もう! セレスお姉ちゃん遅いよぉ。待ちくたびれちゃった」

「ごめんね。お詫びに今日はみんなの好きな曲を全部弾くから許してちょうだい」

「やったー! って、あれ? ……セレスお姉ちゃんなんだか泣きそうな顔をしているよ。大丈夫?」


 子どもというのは思っている以上に大人の変化に目敏い。もし子どもたちの記憶に自分が残るのならば、それは笑顔と共に楽しい思い出でありたい。そんな思いからニーナとの別れで感傷的になった気持ちを隠すように笑顔を貼り付けていたはずなのに、子どもたちはすぐにそんな取り繕った笑顔を見抜いてしまった。


「……今日はね、みんなにお別れを言わなければならないの」

「えぇー、そんなの嫌だよ。お別れなんて言いたくない!」


 口々にそう言ってくれる子どもたちを抱きしめるような瞳でセレスは見つめた。たった一ヶ月足らずの交流。だがその時間はセレスにとってかけがえのない時間だった。忘れかけていた純粋に音楽を楽しむ気持ち、これまで知らなかった他者から求められる喜び、それらを教えてくれたのは紛れもなく目の前にいる子どもたちだ。

 

(……ありがとう。みんな大好きよ。みんなと過ごした時間、絶対忘れないわ)


「またいつか会えるわ。さぁ、そんな顔しないで笑ってちょうだい。お姉ちゃん、みんなの笑っている顔が見たいわ。じゃあ今日は誰のリクエストから始めましょうか?」


 また会える日が本当に来るとは思えなかったが、セレスは優しい嘘をついた。それは子どもたちのためだけではない。自分自身もその嘘を信じたかった。

 いつかこの孤児たちがどこかでバイオリンを聴いたときに、楽しい思い出と優しい気持ちを思い出してくれるようにと想いを込めて、セレスは次々とリクエストされる曲を丁寧に心を込めて弾いていく。

 いつもは昼食の時間になると、シスターに終わりを告げられていたこの湖畔の小さな演奏会だが、今日は時間を超えても終わりを告げられることはなく、子どもたちの腹の虫が合唱をはじめるまで続けられた。そして別れのとき、セレスは子どもたち一人ひとりを抱き締めると「またね」と言って馬車に乗り込んだ。いつまでも手を振り続けてくれる子どもたちを潤んだ瞳で見つめながら、セレスは二ヶ月滞在したラグドールを後にした。

 

 馬車にしばらく揺られると程なくして駅に着いた。次の目的地はコージットだ。バイオリンのメンテナンスができる工房はある程度都会にしかないし、お金を換金するのにも都会の方が率が良いことは身をもって知ったところだ。それに働く場所を探すにしても都会の方が選択肢は多いに違いない。

 セレスは夜行列車のチケットを購入すると、駅の近くにあったカフェに入り、ランチセットをオーダーすると鞄の中からレターセットを取り出した。家族に手紙を書くのだ。家出をしたものの、目的はバイオリンを続けることで、必要以上に家族を心配させることはしたくない。自分の気持ちと、無事で過ごしていることを早く伝えなければと思っていたが、消印で所在地がバレてしまうためこのタイミングになってしまった。


 ――親愛なるお父様、お母様


 お元気にお過ごしでしょうか? わたしは無事に過ごしております。ご心配をおかけして申し訳ありません。

 突然の家出、さぞかし驚かれたことだと思います。誕生日パーティーの準備も進んでおりましたのに、ご迷惑をおかけしたこと深くお詫びいたします。

 本日はわたしの気持ちをお伝えしたく、ペンを執らせていただきました。

 まず、わたしが家出をしたのは言うまでもなくバイオリンが続けたかったからです。婚約の打診を知り、このまま話が進めば、近いうちにバイオリンを辞めなければならないと思い、ご迷惑をおかけするとわかりながらも家を出ることにいたしました。

 四年後、二十歳を迎える前には必ず戻ります。戻りましたら、どんなお相手であれお父様のお決めになった方と結婚いたします。もしもう娘ではない、とおっしゃるのならそれでも構いません。だからどうかその時までわたしに夢を追うことをお許しください。

 我儘で親不孝な娘でごめんなさい。愛しています。どうかこれからもお元気で。


                                          ――セレスティーヌ


 ふぅっと息を吐くと、セレスはペンをテーブルにそっと置いた。こんなもので納得されるなんて、ましてや許されるなんて思っていない。ではなぜあえて書いたのだと問われれば、それは自分自身の中にある罪悪感を軽くしたいがためかもしれない。そんな独りよがりな手紙に封をすると、セレスはもう一通、弟アルベールに向けて手紙をしたためた。突然いなくなってしまったことへの謝罪と、贈られたハンカチのお礼、そしてセレスのバイオリンが好きだと言ってくれたことがどれほど嬉しかったか。そんな素直な気持ちを書き連ねているうちに、列車の出発時刻は刻一刻と近づいてきていた。


 ◇ ◇ ◇


 半日ほど列車に揺られ、ようやく公爵領コージットへ辿り着いた。


(わたしって案外、図太い人間だったのね……)


 往路と同様に一番質素な個室を選んだのだが、セレスは列車の揺れに身を任せ、狭い寝台を物ともせずにぐっすりと眠ることができた。北部のサンセルノとは異なり、残暑厳しいコージット。決して過ごしやすい陽気ではないし、都会特有のむわっとした空気が立ち込めている。それにも関わらず、セレスは強い陽射しに目を細めながら、すがすがしい気分でホームに降り立った。


(とりあえず質屋へ行かなくちゃ!)


 二ヶ月前と同じ質屋の扉を開けると、扉の上に取り付けられた鈴がカランカランといい音を響かせ、来客を告げた。


「いらっしゃ……おっ! あのときのお姉さんじゃねえか。久しぶりだな」

「覚えていてくださったのね。光栄だわ。じゃあ今日もいいお値段でお願いね?」

「ははっ、いいね。そういう感じ嫌いじゃねえぜ。この前のルビーも良い値で売れたよ。今日もいい取引させてくれよ」


 セレスは今回も柄にもない高慢な態度で高飛車な女を演じる。二回目とあって前回のように震えることはもうないが、やっぱりこんな態度をとるのは苦手だとつくづく思う。とりあえずはバイオリンのメンテナンス代と、働いて給金がもらえるまでの一ヶ月分の生活費のために、必死に自分は女優だと言い聞かせる。


「今日はこのサファイアのネックレスでお願い」

「……これはまたすごい品だな。お姉さん、若いしそんな身なりなのにどっからこんな上質なサファイア手に入れるんだ? もしや悪いことしてねえだろうな?」


 まさか犯罪者と疑われるなんて思いもしなかったセレスは、くくっと笑いがこぼれた。それを店主は肯定と取ったのか途端に神妙な面持ちになる。


「人は見た目によらねぇっていうが……こういう仕事をしていると盗品やら犯罪絡みの品によく出くわすんだ……お姉さん、悪いことは言わねえ。まだ若いんだ、真面目に働くことをおすすめするぜ」

「じゃあ取引はしないってこと?」


 あえて否定はせず、相手の出方を見る。犯罪組織の一員と思われた方が足元を見られないのならそれでいい。


「あ、いや。それとこれとは話は別だ。そうだな、これなら五十万リルは出せるな」


 セレスの踏んだ通り、前回とは違って最初からなかなかの金額を提示された。見た目や態度、客の背景でこんなにもあからさまに差がつくものなのかと少々呆れてしまう。


「このサファイアは盗品じゃないわ。わたしの父がちゃんとした宝石商から買ったものよ。わたしも色々訳ありってこと。でも犯罪者と間違われるなんてとっても傷ついちゃった。だから……六十万リルで買ってくださらない?」

「六十万!? またえらく大きくでたな……まぁいいだろう、訳ありのお姉さんに免じてその金額で手を打とう」


 店主はどさりと現金をテーブルに置くと楽しそうに笑い、また来てくれよ、とひらひらと手を振りながらセレスを見送った。

 次にセレスが目指すのはバイオリン工房だ。この規模の都市ならどこかにあるはず。セレスは街の治安維持にあたっている公爵家の騎士に声をかけ尋ねると、幸運にも歩いていける場所にその工房はあった。

 重厚な扉を開けると、そこはニスとオイルの香りが立ち込めた古めかしい工房だった。セレスは懐かしい匂いに気を落ち着かせると、カウンターにあるベルを鳴らして、奥の作業場にいた職人を呼んだ。


「ごめんください。突然で申し訳ありませんがバイオリンのメンテナンスをお願いできませんか?」

「いらっしゃいませ。今日は予約入ってないから大丈夫ですよ。バイオリンを見せてもらっても? ……あぁ、これはシュヴァイガーの作品ですね。とても良いバイオリンだ」


 職人は顔はバイオリンに向けたまま、銀縁眼鏡の隙間から細い目でちらりとセレスを見遣った。その値踏みするような、窺うようなじめっとした視線にセレスは若干の居心地の悪さを感じる。けれどバイオリン工房などそれほど多くあるわけでもないし、腕が確かなら少々の居心地の悪さなんて気にしてはいられない。それにたしかにバイオリンは著名な制作家のもので、質素なワンピースを着た女の子が持つにはかなりの違和感があるのも事実ではある。メンテナンス以外にも聞きたいことがあったセレスは、不快感を顔に出さないように、にこやかな顔を顔面に張り付けた。


「ありがとうございます。弦の張り替えとニス磨きをお願いできますか?」

「もちろんです。明日また取りにこれますか?」

「はい、それで大丈夫です……それであの……つかぬことを伺いますが、バイオリンに携われる仕事がしたいんですが、なにかご存じありませんか?」

「仕事ですか? あーそうですね……こんな良いバイオリン持っているってことは、お嬢さんはなかなかの腕前ってことでしょうか?」

「コンクールの本選に残るくらいには……」

「本選に? それはすごい腕前じゃないですか。それならバイオリンの家庭教師なんてどうです? 最近裕福な家の娘なんかも箔をつけるために多くやっているみたいで、それなら何人か紹介できますよ」

「本当ですか? ありがとうございます!」


 バイオリンの家庭教師なら願ってもない話だ。早速紹介をお願いすると、最初におすすめされたのはセレスでも聞いたことのある大きな商会を経営しているオーナーだった。条件は揃っているし、社会的な信用度も高い。申し分ない話だったが、セレスは泣く泣くその話を断った。おそらくその規模の商会なら、父親とも取引をしている可能性が高い。


「えっ、こんな良い条件なのに断るのですか? うーん……ならドルレアン家はどうでしょう? 不動産業を営んでいて、たしか八歳の娘さんの家庭教師を探していたかと」

「不動産……ではそちらのご紹介をお願いできますか?」

「かしこまりました。では顔合わせの日程は確認しておくので、明日の受け取りのときにまたお伝えしますね」


 思っていたよりも早く、好条件の仕事が見つかりそうな流れにセレスは少し浮かれ気分で工房をあとにした。なんだか全てが上手くいくような予感を感じながら、今夜のホテルを探しに向かった。

次話でようやくヒーロー再登場です!


あと、アクセス数増やすためには予約投稿しない方が良いと聞きまして(埋もれてしまうそうです)これまで22時に予約投稿していたんですが、明日からは21時〜22時の間で手動で投稿いたします。

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