五 友人との再会
次の日から子供たちはたびたびセレスの元に訪れるようになった。午前中は子供たちと歌を歌い、時にはバイオリンを置いてかくれんぼをすることもあった。そして午後になると打って変わって一人でバイオリンに真摯に向き合う。そんな穏やかな日々を過ごしていたある日の午後のことである。
「もしかしてセレスティーヌ?」
家出をしてからセレスは名前を変えて生活をしていた。いかにも貴族的な“セレスティーヌ”だとなにかと不便だし、いつ何時身元がバレるかわからない。平民にもよくある“セレス”という名で過ごし始めるようになって既に一ヶ月を超えていた中で、突然後ろから久しぶりの本名で呼びかけられたセレスは、驚きのあまり立ちすくんでしまった。
(見つかった……!?)
バイオリンを弾く手を止め、ぎゅっと目を瞑る。どうか追手ではありませんようにと祈りながら恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのはホテルのオーナーの息女、バイオリン仲間のニーナだった。なんでこんなところにセレスティーヌがいるのかという疑問と、久しぶりの友人との再会を喜ぶ表情を顔に浮かべているのを見たセレスはほっと息を吐き、そっと胸を撫でおろした。
「やっぱりセレスティーヌじゃない! えっなんでこんなところにいるの? それにその格好もどうしたの? やだ、聞きたいことが多すぎる。あそこのガーデンテラスでお茶でもしましょうよ!」
ホテルに向かって東側のテラスには赤いパラソルがいくつも咲いている。その下には品の良いガーデンテーブルセットが置かれていて、朝食をとったり、日中にはカフェとしても使える場所になっている。湖畔に向かうためにはそのテラスの前の小道を使うので、もちろんセレスも知っている場所だが、今のセレスにとってはなかなか贅沢なお値段がするので、滞在中一度も利用したことはなかった。
「久々の再会じゃない! 今日は私にご馳走させて。これでもオーナーの娘なんだから」
察しのいいニーナはセレスの質素なワンピース姿を見て思うところがあったのだろう。勢いに気圧されたセレスを陽気な調子でぐいぐいと手を引っ張っていくと、他の客とは離れた席に腰を下ろした。
「ここはね、アップルパイが自慢だから是非食べてほしいの。サンセルノ特産のりんごを使ってるから王都のお店にも負けないわよ。アップルパイは好き? ……そう、良かった。じゃあこれとよく合う紅茶とセットでオーダーするわね」
いつも遠慮がちなセレスならきっと気を遣って一番安価な紅茶を一杯しか頼まないだろう、そう踏んだニーナは怒涛の勢いでオーダーを済ませてしまう。そして目をキラキラとさせて茶目っけたっぷりに頬付けをつくと、「それで、どうしてこんなところに?」とど直球で問いかけた。セレスは一瞬正直に話しても良いものか思いを巡らせたが、ニーナの真っ直ぐな瞳を見て全てを話すことに決めた。
「へぇー、それで家出してきたのね! セレスティーヌもやるじゃない! なんだか小説みたいでワクワクするわね。私は応援するわよ」
「ふふっ、ありがとう。あっそうそう、今は本名だと危ないからセレスで通しているの。だからニーナもそう呼んでくれる? 誰が聞いているかわからないもの」
「セレス……えぇ、わかったわ。けど偽名だなんて、なんだか密命を受けているスパイみたいね!」
ふふっと二人で笑い合っていると、オーダーしていたアップルパイと紅茶が運ばれくる。芳しい香りが鼻腔をくすぐった。
「……美味しいっ!」
甘すぎないカスタードと軽やかなサクサクのパイが、しっかりと煮詰められたりんごの濃縮した美味しさを引き立てている。贅沢は禁物だと甘いものを控えていたセレスはその美味しさに目をぱちくりとさせると、思わず薄紅色の頬をふわっと緩めた。
「でしょう? 口に合ったようで良かった! それにしてもなんでもっと早くラグドールに来たこと教えてくれなかったの? コンシェルジュに言ってくれれば良かったのに。報告書にね、湖畔でとっても上手にバイオリンを弾く少女がいるって書いてあったの。バイオリニストの端くれとしては気になるところじゃない? それで急いで来てみたらセレスだったから驚いたわ」
「ごめんなさい。本当は伝えたかったけど、そうすると本名を告げる必要があるでしょう? それに最初はこのホテルにニーナがいると思っていたし……」
「普段はコージットに住んでるのよ。あそこ交通の便がいいじゃない? 国内に何ヶ所かホテルを持っているから視察に行きやすいのよ」
この地でホテルを営んでいると聞いて、てっきりこのホテル一軒だけだと思っていたが、それはセレスの思い込みだったらしい。よくよく思い返してみれば、コンクール本選で着ていたニーナのドレスは最高級品であったし、バイオリンだって一流品だ。ホテルを一軒経営しているくらいでは到底買えるような代物ではない。
「セレスはバイオリンの夢を追い続けるのね。私、セレスのバイオリン好きよ。なんだかすごく優しい音色だもの。きっと奏者の人柄ね。セレスならいつかきっと賞を取れると思う! ずっと応援しているからね」
「ありがとう。でもその言い方だとニーナはバイオリンを辞めるみたいに聞こえるわ」
「……うん。これからも趣味として弾き続けるだろうけど、もう私がコンクールを目指すことはないわ」
「えっ!? どういうこと?」
「私、結婚するの。セレスは縁談が嫌でこの地まで来たというのにこんな話をしてごめんなさい」
「それとこれとは話は別よ。おめでとう……って言っていいのよね? ニーナも望んだ結婚ならもちろん祝福するわ!」
「セレス、ありがとう。もちろん、私が望んだ結婚よ。ふふっ……実は今とっても幸せなの」
少し釣り目で強気に見える瞳を優しく細めたニーナは、思わず見惚れてしまうくらい美しく笑った。きっと愛おしい男性を思い出しているに違いないその表情は、幸せに満ち溢れている。
「ふふっ、ニーナの表情を見ていたらすごく幸せなのが伝わってきたわ。本当におめでとう! お相手はどんな人なの? ニーナが好きになるくらいだから、きっととっても素敵な方なんでしょうね」
「えぇ、とっても素敵よ。コンクールで着るドレスを仕立ててくれている工房なんだけど、“アトリエ・リュニック”って知ってる? 彼はそこのデザイナーなの」
「もちろん知ってるわ! 老舗の工房じゃない。数年前に就任したデザイナーが凄腕で、最近また注目を集めているって聞いたわ。もしかしてお相手はその凄腕デザイナー?」
「正解! 情報をきっちり把握しているあたり、さすがはフルノー家のご令嬢ね。いつかセレスがコンクールに戻ってくるときは是非うちの工房でオーダーしてね。たっぷりサービスするわ」
「まぁ! ニーナったら商売上手ね。きっと良い奥様になれるわ。もちろん、その時が来たら必ずニーナの工房にお願いするわね。それまでしっかりお金貯めとかなくっちゃ」
アトリエ・リュニックは老舗ではあるが、裕福な市民が主な顧客で、これまで貴族との取引はなかった。それ故に、どれだけデザインや縫製が素晴らしかろうと、貴族らしさや建前を重要視する両親はそこでドレスを仕立てることを良しとしなかった。けれど今ならそれさえも自由に選べる立場なのだ。セレスはその自由を改めて嬉しく思った。
「ひとつ聞いてもいいかしら? ニーナはあれほど熱心にバイオリンに打ち込んでいたじゃない? その……バイオリンから離れることに後悔はなかったの?」
「えぇ、全くないわ。私はこれまで全力でバイオリンと向き合ってきて、やり尽くしたって言い切れるもの。コンクールで賞が取れなかったのは残念だけど、できることは全部やったと思ってる。けじめがついたからこそ彼の求婚を受け入れることができたし、新しい夢を持つこともできたわ」
「新しい夢?」
「彼と力を合わせていつかは自分たちのお店を持つの。素敵だと思わない?」
「そうね、とっても素敵な夢だわ」
ニーナとの会話でセレスはひとつの答えを見出していた。以前自分の中で決めた四年という期限の中で、どれだけ後悔なくやり尽くせるか。それが四年後のセレスの幸せの鍵となるに違いない。四年後、ニーナのようにできることは全部やりきったと言えたならば、政略結婚しようとも、バイオリンを諦めなければならないとしても、それからの人生が違ったものになるような気がした。
それからは、年頃の女の子と同じようにニーナの惚気話に花を咲かせたり、若い娘の会話としては少々世知辛い換金率の高い質屋の話題になった。
先日、最初に換金したお金が底をつき、サンセルノに一店だけあるという質屋に行ったのだが、「この値段が出せないなら他をあたらせてもらいます!」の殺し文句が使えず、そこそこの値段にしかならなかったのだ。
そんな愚痴をこぼしたりしているうちに、気が付けば陽は傾き、客は自分たちだけになっていた。
「お喋りが楽しくってついつい長話になっちゃったわね。ねぇセレス? セレスはあとどれくらいラグドールに泊まる予定?」
「そうね、あと二、三週間といったところかしら」
「じゃあ、私もその間ここに残るわ。それで一緒に練習しましょうよ。一人でやるのもいいけど、人の演奏を聴くのも学びになると思うの」
「それは願ってもない話だけど、ニーナはいいの? 結婚前の大切な時期でしょう?」
「それは大丈夫、気にしないで。打ち合わせなんてあってないようなものだし。親のホテルで披露宴をして、彼の作ったドレスを着るんだもの。両親や彼は忙しそうだけど、私は手持無沙汰なくらいよ」
そう朗らかに笑ったニーナの優しさに甘えることにして、早速次の日の午後からは共に練習に励んだ。ニーナの言う通り、他人の演奏を聴くことは大きな学びとなった。師事する人によって練習方法もテクニックも表現の仕方も異なってくる。セレスはヴァネルを心底尊敬してやまないが、他のバイオリニストの考えに触れることで、より一層ヴァネルの言わんとしていたことが理解できるようになる。
「ちょっと、セレス! 数ヶ月前のコンクールから格段にレベルアップしてるじゃない。『ドニアムの森』なんて聴いていて泣きそうになっちゃった」
「ふふっ、ありがとう。ならそれは全てこのサンセルノの自然のおかげだわ」
「コンクールの課題曲がこの曲なら、何かしらの賞は確実に取れるでしょうね」
「まさか、それは褒め過ぎよ。わたしなんてまだまだだわ」
「もう、セレスはもっと自分を褒めてあげるべきだわ。それにしても経験ってこんなにも大切なのね。音楽の深みが全然違うもの。ヴァネル先生にもそう言われたんでしょう?」
「えぇ、恋をするのが一番の起爆剤になるとおっしゃってたわ」
「あー、それはわかる気がするわ。恋をするとこれまで見てきた世界が全く違って見えるもの」
「そんなに?」
「えぇ、そんなによ。でもセレス、心配することないわ。きっとセレスも近いうちに経験するわ。恋なんて思わぬところに落ちているものよ」
ふふっとニーナは少女めいた表情で微笑んだが、セレスは作り笑いを浮かべることしかできなかった。本当に自分が恋なんてできるのだろうか。これまで自分が恋をしている想像なんて一度もしたことがない。そんな必要なんてなかったからだ。人を人として好きになることはこれまでもあったが、男性として好きになるということがセレスにはよくわからない。
そもそも、これまで見てきた世界がまるで違って見えるなんて、セレスには恋が厄介で恐ろしいものにしか思えなかった。
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